第9話 雪の峰

 吐き出した白い息を視線で追えば、遠くには銀色の雪が積もった高い山々が見えました。

 曇り空に向けて峰を突き出すように連なる山々は、その様子を銀の剣を掲げる騎士になぞらえて『騎士山脈』と呼ばれているようです。

 気高く美しい景色と寒さに私は胸を締めつけられるような感動と苦しさを同時に覚え、無意識に祈りの所作のように片手を胸に置いていたのでした。


 故郷よりはるか北、馬車を乗り継いで三日も行った先にある国境をこえると、ついに異国に来た感慨がわいてきます。


 責任から逃げ、義務から逃げ、人から逃げ、学校から逃げ、ついには婚約者の家からさえ逃げた私を迎え入れたのは、あまりにも厳しい寒さと、美しい景色と、しんしんと降り積もる雪、なのでした。


 オデットは当たり前のように私をその国に連れ出すと、これも自然な流れの中で私とともに暮らし始めました。


 冒険者というのは一度登録すれば組合に出される依頼をどこでも受けることができます。

 私たちの生活を支えるのはそうして得た冒険者収入で、それは全部、オデットの稼ぎなのでした。


 私の冒険者として使っていた偽名はもう、精霊信仰のあれこれで使えなくなっており、また新しい偽名で登録しようにも、さすがに明らかに異国から来た私は、いぶかしまれ、登録に難航するに違いなく、オデットが『いいよ』と言ってくれたのもあり、私は冒険者としてはすっかり廃業となったのです。


 さすがに世話になるだけというのは申し訳なく、さらに私の性質として、理由のわからない厚意を受けるだけというのがおそろしくもあったので、私はオデットがいないあいだの根城の掃除などの家事と、それから、自分にできることを求めた結果、吟遊詩人稼業を始めました。


 私には、なにも、なかったのです。


 家事さえも、最初はまごつき、どうにかこうにかこなせるという程度で、神官魔術の力量も平均より悪く、かといって魔術も知識こそあっても実戦ではとても使えるほどではなく、武技だって、強敵を相手に通じるものではありません。

 では他に特技と言えるものがなにかないかと悩んでも、私は、私自身の長所をなに一つ見つけることがかないませんでした。


 その結果、私がようやく捻り出したのが、『知識の利用』でした。


 私は禁書庫番の家の次期当主となるための教育を受けており、魔術にかんする知識だけは、人よりわずかに優れたところがあります。

 また、精霊信仰で人の悩みを聞いていた経験もあり、人の人生に起こるひきこもごもとか、日常に転がる小さな悩みとか、あるいは人が大騒ぎするけれどその実大した問題ではない滑稽なふうあいとかには、人並み以上に造詣ぞうけいが深い自信があったのです。


 貴族のならいとして音楽もやっており、歌唱力や演奏能力について直接的に先生からお褒めの言葉をいただいた覚えはないのですが、『歌っている姿が、絵になります』という慰めの言葉をもらったことはあり、そのか細いものを支えに、自分にできることをしてみようと奮起したのでした。


 最初、楽器もなく、節回しも魅力的ではなく、話もまとまっていない私の吟遊に、誰も興味を示しませんでした。

 しかし同じ場所で歌っていると、近所の奥様などが憐れんだのか小銭を投げてくれるようになりました。

 その『自分の力で得た稼ぎ』が嬉しく、励みになり、歌詞を整え、節を調整していくうちに、だんだんと私の吟遊を聞いてくれる人も増え、演奏が終わり暖かい帽子をとって礼をすれば、その動作があまりこの地方で一般的でなかったのか、拍手と歓声をいただけることも、あったのです。


 幾人かからのアドバイスを参考に帽子をとって歌い始めるころには(たしか、北国の帽子をかぶっていると、耳がふさがり、声がこもり、よろしくないという話をされたように記憶しています)、道ゆく人たちが足を止めることも増え、いつしか私は、吟遊詩人という仕事こそ自分の天職だったのではないかと思うようになっていきました。


 きっと、この稼ぎでオデットにお礼ができる。


 私は、危険をかえりみず公爵邸に潜入し、私を救い、国外まで出してくれ、今も生活の世話をしてくれているオデットに、早くすべて返済したい気持ちだったのです。

 その恩義に報いるのに、どれだけのものを支払えばいいのかわかりません。けれど、少しでも、オデットからの厚意に応えたい、向けられる『優しさ』という負債を軽減したいと、そのようなことを考えていたのでした。


 しかし、私は本当に、世間知らずで、想定が甘くて、人のためにと行ったことで人の足を引っ張る、どうしようもない愚か者だったのです。


 ある日、オデットから「吟遊詩人はやめたほうがいい」と言われました。

 それは長く言おうか言うまいか悩んでいたことを、ようやく決心がついて打ち明けたというふうであり、私は冷や汗をかくとともに、オデットを悩ませてしまったことがおそろしく、理由をたずねることもできませんでした。


 しかしオデットのほうは、私が吟遊詩人業に入れ込んでいたことを知っている様子でしたから、理由について、解説をしてくれたのです。


「あまり目立つと、公爵とか、昼神教とか、冒険者組合とかに、バレるかもしれない。少なくとも、帽子をとるべきじゃあ、なかったね。組合でも話題になっていたよ」


 それはまさしく、そうなのでした。


 私たちは逃亡生活中であり、その生活は、私が冒険者業務を差し控えるほどには慎重なものだったのです。

 昼神教も、冒険者組合も、世界各地、国をまたいである組織です。また、公爵の影響力は国内が主ではありますが、その人脈が国内にしかないということは、ありえないでしょう。

『昼神教の神官戦士団を撃退し、公爵の娘をたぶらかし、邪教に改宗させた、精霊信仰の上位神官』というのは、国をまたいで情報共有がなされるほどの大事であるに、決まっているのです。


 この国のもこもことした毛のついた、襟足までを覆うような帽子は、そんな私の面相を隠す役割を負ってくれていたのです。

 雪から目を守る覆いもまた、私の顔を人に見せない働きがあったことでしょう。

 その帽子を、私はなんの気なしにとってしまったのでした。


「きみの面倒はあたしが見るからさ。君はなんにもしないで、家で待っていてくれればいいんだよ。誰にも会わないで、あたしだけと会話して、一生暮らしていけばいいんだ。そのほうが、君も楽でしょう?」


 オデットは私が人とかかわるのを嫌がっている様子でした。


 彼女の懸念はわかります。人との接点が増えるほど、私の存在が発覚する確率も増えるのです。これは、私の逃亡を幇助ほうじょしたオデットとしては、避けたい流れでしょう。


 しかし私はオデットにすべてを委ねるのがおそろしかったのです。


 ここまで世話になっておいてなお、彼女に命脈のすべてを握られるのは、恐怖なのでした。

 それに、彼女の厚意になにも返せないままだと、利子がどんどんふくらみ、負債がどんどん増え、ついには返しきれないものを負わされて、歩くのも、立つのも、呼吸をするのさえ彼女の許可が必要になってしまうような、そういう想像をしていたのでした。


 もちろん彼女の言い分はまったくもって正しいのです。


 しかし、『正しいこと』を述べられれば述べられるほど、私はそれが間違っているような気がして、なにか私を追い詰めるための罠がそこに潜んでいるかのような、そういう気持ちになってしまうのです。


 正しさがおそろしいのです。

 私は『正しいこと』の前では呼吸もままならないほど恐怖し、自分の行動と『正しさ』を並べ、いかに自分が正しさから離れた生き方をしているかを思い知らされるたび、わっと叫んで逃げたくなってしまうのでした。


 しかしそれは、私が間違っているからこそ抱く感慨であり、居直るほどの強さもない私は、悲しみをこらえながら、愛想笑いのような顔をして、正しいことを述べるオデットにうなずいてみせ、謝るしかできないのです。


「つらいとは思うけど、あたしのところにいるのが、一番いいよ。他の人のところになんか、行くべきじゃないんだ。外は危ないから、家にいてよ。お願いだからさ」


 オデットは私のことを、出来の悪い幼い弟のように思っていたのでしょう。もしかすれば、今も思っているのかもしれません。


 私はついぞ、彼女たちが私に優しくする理由も、『私に優しい行動』を取り続けるモチベーションも、わからずに終わりそうです。

 彼女たちの行動力は、もともと無気力な性分を持っている私からすれば非常に不可解で、だからこそ、おそろしいのです。


 オデットのみならず、シンシアもまた、このころになると、私にとっては不可解で恐怖の対象なのでした。


 吟遊詩人をやめると明言することもなく、その日のオデットと私の話し合い、というかオデットからの要求に私が愛想笑いでうなずき謝る時間はすぎ、そうして私は眠りにつきました。


 そして目覚めたあと、私は知らない場所にいたのです。


 あとからわかったことですが、私は眠っているあいだに、妹のシンシアによって誘拐されていたのでした。


 シンシアもまた、私を追って国境をこえていたのです。

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