第8話 異国への逃亡
私は半生において八つの
ただし、来た当初に私に与えられたのは、貴人用の牢屋だったのです。
さすがに私もルクレツィアの婚約者として遇されるとは思っていなかったので、まさか来賓室を与えられるなどという想像はしていませんでしたが、牢屋というのもまた、同じぐらいに想像の外にありました。
これはまったくもって私の想像力不足、無意識に現実から逃避していたゆえの事態把握の欠如で、あとから思い返せば、もっと環境の厳しい地下牢に、手枷つきで入れられていても、無理はなかったのです。
なにせ公爵の視点において、私は『娘をたぶらかして邪教を信仰させ、昼神教に逆らわせた者』なのです。
これを殺さずに捕獲しておく理由はといえば、上位冒険者となっているシンシアの背後に見える『冒険者組合』に対する配慮と、そして、当の『たぶらかされた娘』であるルクレツィアへの親心なのでした。
ともかくこの時、公爵から私への心象が最悪だったということは、想像に難くありません。
私はそこで、実に半年近く、無為な時間を過ごすことになりました。
貴人用の牢獄は居心地がよく、私の世話に遣わされたメイドなどが、よく部屋にとどまって外のことを話してくれるので、牢屋生活そのものは快適と言ってもよいものでした。
しかしメイドの口から語られる『外の話』というのが、聞いているだけで胃が痛くなるようなものばかりなので、その当時の私は、生きた心地がせず、早く殺してほしいとさえ思っていたのです。
まず、昼神教が私の引き渡しをしつこく要求していること。
これについては、公爵その人よりも、ルクレツィアが強硬に抵抗してくれているようでした。
そのことを知った私は、ルクレツィアにお礼を述べるために、
ですが、検閲でもあるのか、ルクレツィアからの返事が来ることはありませんでした。
次に、私の生家が禁書庫番の役割をおろされたのだという話を聞きました。
これについて、役割をおろされた理由などはくわしく語られませんでしたが、メイドたちが励ますような言葉をくれ、手さえとってくれた様子からも、間違いなく私のせいであるというのがわかります。
私は今さらながら父母に申し訳ない気持ちになりました。
シンシアのことを思えば、私の両親は決して善なる人間というわけではなかったでしょう。しかし、私に対しては愛情を注いでくれた両親なのです。だというのに私は、彼らの期待を裏切り、なにも言わず失踪し、あげくのはてに精霊信仰まで……
私はその責任に向き合うのがおそろしく、『寝て起きたら、すべてが解決していてくれないだろうか』などと
それからメイドたちがもたらしてくれた情報は、しばらく他愛のない、明るいものばかりでした。
メイドたちが私の心境をおもんばかって、気を遣ってくれているのが、さすがに私にもわかり、それがますます申し訳なく、私はどんどん沈み込んで、食事さえも満足にとれないほどに衰弱していきました。
その時になん人かのメイドから『牢屋から連れ出すから、こっそり逃げて、どこかで密かに暮らそう』という意味の言葉をもらいましたが、ルクレツィアを置いてはいけず、また、ここまでのことになって責任から逃れて新天地で暮らしなど始めることもできそうもなかったので、私は裁きを望む旨を公爵に伝えてもらえるよう、メイドに頼みました。
しかし、公爵から反応はありません。
聞く価値もない言葉だと無視されているのか、気遣ったメイドが伝えないでいてくれるのか……
食事も着替えも用意され、しかし公爵やルクレツィア、シンシアが私のもとをおとずれることもなく、私の獄中生活の話し相手だったメイドたちも配置換えにあったのか、次第に年若い少年執事などに入れ替わっていきました。
少年執事は、メイドたちに比べればかなりぞんざいで、獄中にいる私を馬鹿な詐欺師かなにかだと思っているらしく、言葉を交わすのも嫌、目を合わせるのも嫌、役目だから仕方なく世話をしてやっているけれど、お前の事情にはこれっぽっちも興味がない、というような、冷たい態度で私に接するのです。
むしろ私は、その態度に安心を覚えました。
私は、人の優しさがこわかったのです。
私なぞ人から好意を向けられる資格などないのに、メイドたちはよくしてくれ、いっしょに逃げようなどとさえ、言ってくれました。
また、ルクレツィアなどは、私の助命と自由のためにかなり力を尽くしてくれているようで、それが申し訳なく、また、そこまでしてもらえる理由がまったくわからず、落ち着かない気持ちでいたのです。
そもそも私は、なぜ、子爵家嫡男である私と、公爵という天上の家のお人との婚約話が出たのか、それを理解していませんでした。
婚約、婚約と便宜上記していますが、この当時はまだ『婚約内定』ぐらいのもので、正式な婚約は学校卒業後であり、私とルクレツィアとの縁談にいたった理由なども、父はその時に話すつもりがあったようでした。
けれど私は学校から逃げ出し、精霊信仰などに傾倒し、今は公爵私邸の獄中にいて外にも出られず、父母の顔も見ることができない。
不意に郷愁がこみあげてきて、私は涙ぐみました。
この当時はこんなふうに、ふと悲しい考えが浮かんで、我が身が情けなくて、瞬間的に涙がこぼれることが多かったように思います。
そばにメイドがいると、彼女たちは私なぞに向けるには過分な優しさで、なぐさめ、抱擁さえしてくれました。
その気遣いに居心地の悪さを感じ、涙よ止まれと力をこめるのですが、けっきょく涙は止まらず、あたたかい人たちに囲まれながら、ますます自分のしでかしたこと、人間性の未熟さ、人としての弱さを思わされることになったのです。
しかし少年執事は冷淡なもので、一瞬だけぎょっとしたようでしたが、無視を決め込んでくれました。
この当時の私は、その冷淡で距離感のある態度のほうに、優しい抱擁よりもよほど救われたのです。
なんという、歪んだ、醜い人間性なのでしょう。
私は優しくされるとおそろしくなるのです。抱擁されると恐怖のあまり縮こまってしまうのです。
理由のない優しさより、明白な理由に基づく冷たさを、私は好むのでした。人が自分になにかをしてくれるたび、とても返しきれない負債を背負わされたような気になり、ともすれば優しさを向けてくれた相手に、恨みを抱くことさえ、あったのでした。
『どうしてそこまでしてくれるのか?』
この質問を人に向けてできたなら、人生にあった数々の恐怖のうち、半分ほどは取り除かれた気がします。
しかし私は、優しくされる理由を問うことが、ついぞできそうもありません。
私の人生は生まれてから今にいたるまで、ずっと人の優しさに支えられ、もはやそれなしでは成り立たないほどなのです。
ふと、『実は、優しくする理由なんかなかった』と気付かれてしまえば、私の人生は今すぐにでも終わるでしょう。それがおそろしく、人の優しさを苦手としながら、その優しさにすがるしかできない生き方に苦しみ、悶えているのでした。
だから、この時に私を牢屋から救い出した者へも、私はいまだに、その理由を問うことができないでいます。
「やあ。思ったより元気そうだね」
その『しばらく会っていなかった知人に街ですれ違ったかのような緊張感のないあいさつ』は、いかにも彼女らしくて、私はその声をかけられた一瞬だけ、己を悩ませていたすべてのものを忘れることができました。
しかし、場所は公爵邸であり、おそらく警備も厳重な、貴人用牢獄のあたりなのです。
私は格子の向こうに現れた存在が檻を開けるのをおどろきながら黙ってながめているしかありませんでした。
救い主であるオデットは、少年のように歯を見せて笑って、こう述べました。
「ちょっと付き合ってよ」
断るという選択肢を思い浮かべることもできません。
私はオデットに導かれるまま公爵邸から逃げ出し、ついには生まれ育った国からさえ、逃げることになったのでした。
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