第5話 上暮地薄荷
頭の中が真っ白になった。眼前で照明弾でも炸裂したような、そんな混乱。
トロアちゃんの口から発せられた名前は特に新鮮味のあるものではなく、僕の脳みその片隅で常に転がっている、言わば異物みたいなものだった。
上暮地薄荷。根ツイ先輩――いや、トロアちゃん――はそう言ったのだ。
だがちょっと待ってほしい。そうなると僕の思っていたこと……それこそこの後、トロアちゃんに訊いてみようと思ったことのあれこれが意味を成さなくなってきてしまう。
――あの日、僕にメッセージを送ってきたのは、トロアちゃんなの?
――そうなると今日、朝の校舎裏で皮肉を言ってきたのは?
……モモちゃん、あなたは一体。
「ふうん、カミクレチ、ちゃんね。確かにこの辺じゃ聞かない名前だ。どう書くの?」
「ジョウゲの上に、ユウグレの暮、ジメンの地。ハッカはキャンディのアレよ」
「ああ、あの缶に入ってる不人気なヤツか」
「……酷い言いようね!?」
ほっぺたをこれでもかと膨らませるトロアちゃんの姿は尋常ではなく可愛いし、何より嘘を言っているようには聞こえなかった。ということは上暮地薄荷は紛れもなくトロアちゃんの本名で、そうなると、あの日スマフォに気味の悪いメッセージを送ってきたのも、やはりトロアちゃんだということになる。
「そしたら薄荷ちゃん、よろしくね」
「……よろしく」
もじもじと飲むヨーグルトの容器を握りながら、トロアちゃんは言った。
「そしたらさ、二人にちょっと訊きたいことがあってね。実はこれが話したいことの本題だったりするんだよね」
「……?」
僕とトロアちゃんは顔を見合わせ、首を傾げた。ある程度話すことは話したはずだけど、これ以上何かあるのだろうか。
「二人はさ、動画のコメント欄って見たりする?」
「上の方だったら見ますけど」
ワオチューブのコメント欄は新着順に並べることもできるが、基本的にはそのコメントに対してのグッドボタン、通称イイネが多い順に並んでいる。なので僕は注目度の高い上からいくつかのコメントを見ることが多く、くまなく見てはいなかった。
「私は……そうね、なるべく見るようにはしてるけど、やっぱり見てると否定的なコメントも絶対あるわけだから、いちいち気にするのもメンタル的に良くないし、難しいところよね」
トロアちゃんは少し考えてからそう言った。これは視聴者としてではなく、ワオチューバ―としての見解だろう。たしかに人気が出てくると必ずアンチというものは発生する。まれに改善すべきポイントを的確に述べているアカウントも見るが、ほとんどは親の仇とばかりに罵詈雑言を吐き捨てる連中しかいない。要はそんなものに気を遣っていては精神衛生上良くないので、自分の視界に入れないことが賢明だ。
「ほほう、なんだかまるで投稿したことがあるみたいな口ぶりだ」
「へっ!? ないない。私は完全な視聴者だから!」
「冗談冗談。でね、あたしが何を訊きたいかっていうと、トロアの動画に、皆勤賞でコメントをしてるアカウントがあるワケ」
「皆勤賞、ですか」
「知ってる? あたしの中では名物コメンテイターなんだけど」
「いや……」
記憶を辿ってみるが、やはりあまりコメント欄を見ていない僕にはそのアカウントの存在はわからなかった。
「やっぱりその人もアンチ的なコメントを?」
「それが微妙なところでね、謎なんだ」
「謎って……」
「だから二人にはこの人のコメントがどう映るのか、それを訊きたいんだよ」
大月先輩はそう言うと、スカートのポケットからスマフォを取り出し、トロアちゃんのチャンネルから無作為に動画をタップする。
『やほほー! 元気してるぅー? トロアだよー!』
「!?」
「おおっと、音量マックスにしちゃってた。ごめんごめん」
コンビニにこだまするトロアちゃんの声。
「――び、びびびビックリしたぁ……!」
胸を押さえて大げさに呼吸をするトロアちゃんだった。こちらにまで心臓の鼓動が聞こえてきそうな勢いだ。
「ん。気を取り直して……例えばこのリップクリームの動画なんだけど」
「ふんふん」
大月先輩は気を取り直すと椅子に両ひざを乗せながら身を乗り出し、僕たちの真ん中で動画を見せてくれる。僕の左腕に先輩の何かが当たっている気がするし、右腕にもトロアちゃんの何かが当たっている気がする。
「ええと、確か結構下の方だったような……」
僕の劣情など知ったことかと言わんばかりに大月先輩はスマフォをスクロール。トロアちゃんはやはり自分の動画だからだろうか、真剣に画面を目で追っていた。
「あたしがコメントしたちょっと近くにあったはずだから……」
コメントしたんですか。
「――あった!」
スクロールする指が止まる。そこには。
『たべたい』
…………。
「――はぁ?」
トロアちゃんがこれまで聞いたことのない素っ頓狂な声を上げた。
「これだけ、なの?」
「そう。これだけ」
大月先輩は今度は別の動画のコメント欄に飛ぶ。僕たちが熱狂した、激辛カップ焼きそばだ。
『ふーん、えっちじゃん』
…………。
「――どう?」
「い、いやどうって」
トロアちゃんは顔を引きつらせながら件のコメントを凝視。若干青ざめているようにも見える。
――こ、このパターンで来たか!
「枢は?」
「へっ!? いやぁ、変わった人もいるもんですね……」
……わからんでもない。そう思ってしまう自分がいたのだ。
応援コメントでなければ、僕たちが危惧していたアンチコメントでもない。大月先輩が見せてきたこれは……まごうことなき、セクハラコメントだ!
この人は単にリップクリームを食べたいわけじゃあない。『トロアちゃんが使ったリップクリームを食べたい』のだ。僕にはそれがなんとなく、なんとなくわかってしまう。激辛焼きそばに関しても、カラダを火照らせ、目に涙を浮かべながら真っ赤な顔で焼きそばを食べるトロアちゃんが……え、えっちなのも。
「まあ、迷惑なコメントだよね。今でこそソフトな感じだけど、この手の人間ってとどまるところを知らないから」
大月先輩の言葉が僕に刺さっているような気がして肩身が狭いったらない。
「で、その変態アカウントの名前がこれ」
大月先輩はアイコンを指さす。特に画像が決められていない、初期設定のピンク色アイコンだった。
「なんて読むのよこれ……ドレ……イ……?」
アイコンの横にはアルファベットで『drei』の文字。トロアちゃんと同じく、僕もこの名前の読み方がわからなかった。
「ドライかな。確かドイツ語で――」
「ふうん……ドライ……ドライ?」
「トロアちゃん?」
「こいつ、まさか……」
聞き取れないくらいの声で、トロアちゃんがそんなことを言った気がした。口の端がヒクヒクとしており、たぶん怒っている。
「心当たりがあるんですか?」
「……気にしないで。気にしたら負けよ。こういうヤツらはね、気にされたいから目立つような発言をするの」
その通りだ。僕もそう思った。
「そんなことより――枢、あんたまさかこいつに共感してんじゃないでしょうね」
あからさまに猜疑の表情を向けるトロアちゃん。
「なんで僕が……」
「そんなもの、日頃の行い以外にないでしょうに」
何も言えなかった。
「ああああ~~~~!!」
そんな時だった。コンビニ内で耳をつんざく金切り声が響いたのだ。
「えっ、何!? 強盗!?」
トロアちゃんは反射的に僕の右腕にしがみつく。辺りは騒然としていた。店内に居合わせていた他のお客さんたちも歩みを止め、僕たちの方を凝視して――って、え?
なんで僕らを見る必要があるのか。別に大騒ぎしているわけではないし、何より先ほどの絶叫は別の誰かが発したものだ。
――とかなんとか思っているうちに、すぐにその理由は判明した。僕たちの後ろに立っていた人間が、こちらに向かって叫んでいたのだから。
「あああああ……あなたね! この間より女性の数が増えているじゃありませんのっ!」
「……だれ?」
「さあ」
「ていうか、おっぱいでかくない?」
「……それたぶん、気にしたら負けだと思うわ……でかい……」
大月先輩とトロアちゃんがきょとんとするのも無理はない。
「これは……その」
――ハッパさん。なぜあなたがここに。
「また言い訳ですの!? 言いましたわよね、次は椅子に縛り付けるって! ちょうどおあつらえ向きのものに座っていることですし――」
ダイナマイトボディをぶるんぶるんと揺らしながら彼女――ハッパさんは猛然と僕の前にやってきて、
「……ご、ご一緒させてもらいますわ」
もじもじと大月先輩の隣に座ったのだった。なんで。
「ええ~……」
これには大月先輩も苦笑い。
「なんですの? 別にやましいことがなければ構わないでしょう? それとも、あるのかしら?」
「別にないですけど……でも、ふふ」
なぜか吹き出す大月先輩。
「先輩?」
「いや、ほんと楽しそうな高校だなって」
「アクが強いと言いますか」
「言えてる。あんな賑やかそうな学校だったら、転校してもいいかなぁ」
「それはまずいんじゃ……」
「枢もいるしね」
「え?」
「……本気にしちゃった?」
「んな……するわけ、ないじゃないですか……いでででっ!」
すると、僕と先輩の会話を遮るように、トロアちゃんが太ももをつねってきたのだ。
「……くそばか」
「こういう時って、どういうお話をするものですの?」
「とりあえず揉んでみたいな、それ」
「開幕から破廉恥ですの!?」
「いやだっておかしいもの。本物なの?」
あー、だめだこれ。収拾ついてない。悪い夢でも見ているような気分だ。
と、ここで。
「――ほ……ホントにはべらしてんじゃん」
どさ、と落ちるレジ袋の音。
最悪のタイミングだった。普段であれば、僕がみんなを拝むためだけに登校時間まで調整しているというのに、これはなんだ。向こうから続々とやってくるじゃないか。しかもほぼ同時に。
「ここり……先輩」
入り口付近で、おでこに冷却シートを貼ったここり先輩がわなわなと震えていたのだ。
「今日はバイトじゃ、ないんですか?」
「そうなんだけどさぁ、朝のせいでまだ熱っぽくて。休もっかなって――ってハッ……あんたまでなにしてんの!?」
ハッカ、と言おうとしたのだろう。ここり先輩は寸前で言葉にするのを止め、トロアちゃんを指さしていた。
「あ……いや、これは成り行きというか、ね」
「鹿留君、そこどいてっ!」
「ちょっ……!」
ここり先輩は僕からトロアちゃんを守ろうと、僕の席を奪い取りドスッと座った。その結果僕は押し出され、渋々一番端の席に移動する。隣は……ハッパさんだ。
「き……昨日、ぶりですわね」
「こんにちは……」
コンビニに六席あったイートインコーナーの椅子は、気づけばこれで五席が埋まった。美少女四人と冴えない男が占拠しているイートインコーナーは異様そのもの。夜のオトナのお店ってこんな感じなんだろうか。
「両手に花で何を話していましたの?」
「……花、ですか」
そうだ。彼女たちは僕なんかが触れていいものではない。花は花でも、遥か天空に咲き誇る高嶺の花なのだ。それなのに、どうして僕はこんなところに座っているんだろうか。僕が彼女たちと一緒にいて良い資格なんて、あるのだろうか。半ば強引に連れてこられてしまったが、考えれば考えるほど場違いな感じが否めない。
「なんだかこの間とは様子が違いますわね。しおらしいというか」
「……」
「――ふうむ」
ハッパさんは僕を見かねて一つ鼻を鳴らすと、
「ねえ。これ、あなたに言われてやってみたんだけど、どうかしら」
「僕に? ――あ」
言われて、僕はハッパさんを見る。パッと見ではわからなかったが、昨日会った彼女とは違うところがあった。
きっちりと留められていたワイシャツのボタンが、上二つ開いていたのだ。
たったそれだけのことなのに、ちょっとだけ見惚れてしまった。
「――良いと思います。それくらい力抜いたほうが楽じゃないでしょうか」
「ふふ、そうですわね。まだこれくらいしか出来てないけれど、いくぶんか息苦しさはなくなりましたわ」
「なら、良かったです……」
……。
「――ねえあなた、名前はなんて言うのかしら。昨日ものすごい速さで逃げるんですもの。聞きそびれましたわ」
ああ、またそうやって。僕と関わりを持とうとする。
「なんで僕の名前なんて」
聞いたって、面白くもないだろう。
「なんでってあなたね――」
ハッパさんは膝に載せていた拳をぎゅっと握り、
「お友達から始めましょう、って言ってますの!」
目を閉じ、そう叫んだ。
「え、なになに。交際前提の友達宣言が聞こえたんだけど」
耳ざとくこれを拾った大月先輩。というか、この場にいた全員が聞こえたと思う。
「そっ……そういう意味じゃないですわ! お友達になるには、名前を聞くのは普通のことでしょう!?」
「なんだか下心が見えるんだけどなぁ」
「それはっ……」
「鹿留、です」
「えっ」
なんで自分から言う気になったのかはよくわからない。
「鹿留枢です」
嬉しい。憧れの人にこんなことを言われて、嬉しくないわけがない。でも、どうして僕なんだろうとつくづく思ってしまうのだ。
「鹿留、枢くん……」
そして、丁寧に、噛み締めるように復唱をする彼女が不思議でならない。もっと他に訊く人がいるだろうに。
……それでも、ハッパさんは僕に名前を訊いてきた。彼女自らがそう選択して。自分で言うのも憚られるが、かなり緊張しているように見える。
彼女もまた、自分の『今』を少しでも変えるために一石を投じたんだ。ワイシャツのボタンを外したりとか、ほんの些細なことでも行動に移した。それだけは確かだ。トロアちゃんと過ごした夜のハギノを思い出しながら、そう思った。
「あらら……この顔は完全に……てことは君たち、ほんとに付き合ってないの?」
「……そう言ったでしょ」
大月先輩がトロアちゃんに何かを言っている。
「あ、あああ……超お盛ん……めっちゃお盛んじゃん……!」
「ちょ、ここり!? なに目回してんのよ!」
また蒸気が噴出したみたいな音も聞こえた気がする。
「賑やかですわね……」
「そんなに知り合いってわけでもないんですけどね……」
「望むところですわよ」
「望む……え?」
ハッパさんは一度目を閉じ、そしてゆっくりと開く。
「――
新倉、ひばり……さん。
「あの……はい。よろしくお願いします」
「学校で会った時は気軽にお声掛けくださいな」
「努力します……」
照れながら、そう言った。
バケツをひっくり返したような雨が降り出したのはそんな時。確かに空は曇っていたけど、突然の豪雨に僕たち五人は一緒に空を見上げることしかできなかった。
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