第5話 鹿留枢、理解する

「何よこんな時間に。しかもあんたの方から呼び出すなんて。お母さん言いくるめるの大変だったんだからね」


 午後九時を丁度回った頃、僕はトロアちゃんをハギノに呼び出した。メッセージが返って来るか不安だったが、存外レスポンスは早かった。


 ハギノの入り口傍にある外の自販機コーナー、そこのベンチにトロアちゃんはちょこんと座った。前髪をヘアゴムで束ね、眼鏡を掛けている姿はさながらトロアちゃんと根ツイ先輩のハイブリッドバージョンと言ったところか。かわいい。


 とりあえず何か飲むものを買おう。ええと、確かトロアちゃんはコーヒーがダメだったよな。だったら……。


「また勝手に選ぼうとしてるでしょ」


「え」


「……はぁ、奢ってくれようとするのはありがたいけどね、私にも好みってのがあるの。あんたの博打で選ぶより、正解を訊いた方が確実でしょうに」


「う……すいません」


「…………くそばか」


 前回の反省を全く活かせていない自分が情けなくなった。コーヒーがダメなら違うのを選べばいい。そんな安易な考えだから色んな人にあらぬ誤解を植え付けてしまうのだ。


「そしたら、何が飲みたいですか?」


「コーヒー」


「え」


「コーヒーが飲みたい」


「いや、だってこの間……」


「……あはは! だから言ったでしょ。正解を訊くのが確実だって。ここで枢がまた自分の独断で選んでたらハズレだったわけね」


「まさかコーヒーが飲みたいなんて思うはずがないじゃないですか……」


「ほら、四の五の言わずに早く買いなさい!」


 トロアちゃんはしてやったりといった様子で足を組み、僕に催促した。言われるがままに缶コーヒーを二つ買い、トロアちゃんに手渡す。


「……それじゃ、いくわよ」


 プルタブに指を掛け、トロアちゃんは緊張した面持ちで缶コーヒーと対峙する。


 カシュ、という音が周囲に響き渡った。


「……ん」


 そして一口、飲んだ。僕はなぜかごくりと喉を鳴らしてしまった。


「…………んぺぇ、やっぱ苦い」


 トロアちゃんは舌を出し、顔をしかめていた。


「……ぷっ」


「あ! 笑ったわね!」


「すっ、すいません……でも可笑しくて……あはは」


「んもう! つくづくこれの美味しさがわからないわ。何が良くてこんなの買うのかしら」


「コーヒーの動画を撮ってみるのも面白いかもしれないですね」


「ええ……罰ゲームじゃない」


「激辛カップ焼きそばよりはいいんじゃないですか?」


「そうそう! あれは酷いもんだったわよ! 粉を麺に混ぜた瞬間凄い色になってね――」


 それから僕たちは最近の動画について互いの意見を言い合った。思えばトロアちゃんとまともに会話をするのは久しぶりだ。毎度毎度、僕が罵倒されるだけでちゃんと話をしてくれないし、いつもこうだったら嬉しいんだけど――。


 ――そうじゃない。そうじゃないんだ。トロアちゃんと楽しく話をしたいと思っている僕が、なぜ楽しく話をできないか。それは、僕が話をしないからだ。


 常に相手の出方を窺って、話してくることにだけ受け答えをする。それ以上のことは話さない。こんなの、会話とは到底言えないだろう。それなのに当の本人は、ひたすらに受け身の態度を取り続けている。


「――でね、真っ赤になった私の顔を見たお母さんが血相を」


「トロア、ちゃんは」


「変えて――ん? どしたのよ」


「……トロアちゃんは、僕みたいな奴と話をしてて、どうですか」


 目を輝かせながら話していたトロアちゃんは、突然のことに首を傾げた。


「と、突拍子もないことを訊くわね」


「自分でもわかるんです。僕は人と話をすることが得意じゃなければ、聞き上手でもない。いつもみんなについていくだけで、自分からは動こうとしない。こんなのと一緒にいて楽しいのかなって」


 言っている最中で、僕はまた自分が空気を読んでいないことに気が付いた。駄目だ。喋るごとに心がどんどん沈んでいく。僕は一体何がしたいんだ。こんなことを言って、トロアちゃんのどんな言葉を期待しているのか。自分でもさっぱりわからない。


 僕は一通り言い終えると、深く俯いた。今すぐこの場から消えてしまいたい気分だ。


「……ん~、初めから辛気臭い男だとは思っていたけど、今日はいつにも増して酷いわね」


 呆れ気味に溜息をつくトロアちゃんの声が聞こえる。トロアちゃんだって自分よりも年上で、しかも男の後ろ向きな発言なんて聞きたくないに決まって――。


「ああもう! おもてを上げろ! 鹿留枢っ!」


「んむう!?」


 トロアちゃんは下を向いていた僕の顔を、ほっぺたを掴んで無理矢理前に向かせたのだ。


「確かにあんたは人とコミュニケーションを取らないで、きっとそうだろう、こうなったらいいな、って勝手にやっちゃうところはあるし、私が話をしても言葉のキャッチボールが続かないことだってざらにあるわ!」


「は、はひ……」


「でもね! それを私が嫌だと思ったりしたことなんてないっ! 今のところ!」


 ……ああ。


「生きている人間の数だけ、性格は存在するの! 私は枢のその陰気な性格もしっかりとしたアイデンティティだと思ってる!」


 たぶん僕は今、泣きそうになっている。


「私は別にそれもいいかなぁなんて思ってたんだけど、あんたはそれを変えたいと思った! それに気付けたことはとても幸せで、そんでもってそういう人間は、絶対に強くなれるわ!」


 僕の頬を掴んでいた小さな手はいつしか、優しく添えるだけになっていた。


「だから私はあんたの卑屈な問いにこう答えるわ」


 動画でも見ることがなかった温かな微笑みで、彼女は言う。


「……楽しいに決まってるじゃない。このくそばか」


 ――うわ、やられた。


 心を打ち抜かれた。それ以外の言葉が全く浮かばなかった。


 自販機の稼働音、車まで押していくカートの音、店内から漏れる気の抜けた音楽。いつもは気にも留めない音たちが、妙に耳に入り込んでくる。


 僕の歩く通学路には、五人の美少女が存在する。僕はこの女の子たちが大好きだ。みんなに会うついでに学校へ行っているんじゃないかって感覚の方が強い。


 しかし僕にとって彼女たちは可憐な高嶺の花。簡単に触れられないし、触れるべきでないとも思っている。遠巻きからひっそりと見守るのが僕にできる最大限のことだと思っていた。


 何度でも言う。僕はこの女の子たちが大好きだ。誰も分け隔てなく、平等に大好きなはずなんだ。


 でも、僕が今トロアちゃんに抱いているこの感情は何なんだろう。


 ――何もできず、遠くから見ることしかできない。


 ――ただただ自分には憧れることしかできない。


 ――程遠い。


 この子にだけは、そんなの絶対に嫌だと思ってしまっている。


 何か力になってあげたいし!


 できれば頼りにされたい!


 近くにいたい!


 そんなワガママみたいな気持ちといっしょに『好き』とは違う何かが僕の体内に流れ込んでくるのだ。心臓をレモン絞り器で捻り潰されているかのような、締め付けられる胸の苦しさ。


 いや、違う。僕は大きな勘違いをしていた。僕が今まで五人に対して抱いていたものは、恋愛感情ではなかったのかもしれない。


 つまり、僕は――。


「……変わってますね、トロアちゃんは」


「あ、また笑って! 人がせっかく励ましてやってるのに!」


「でも、ありがとうございました。なんだか気持ちが楽になったような気がします」


「でなきゃ困るわよ。励まし損じゃない」


「ですね」


「じゃあ要件はこれでおしまいかしら。また明日から頑張りましょ。動画編集、期待してるからね」


 トロアちゃんはやれやれと苦笑すると、立ち上がって言った。


「ええ、また明日……」


 ……ちょっと待て。僕はこの為にトロアちゃんを呼んだわけではない。なんで手なんて振って別れようとしているんだ。


 向こうに歩いていくトロアちゃんの背中が小さくなっていく。


 これではいけない。そんなことはわかっている。僕はもっと別の理由でトロアちゃんに来てもらったんだから。


 どうしても訊かなければいけないことがあったんだ。でも僕の頭の中では、このことを訊かずにいれば、明日からまた変わらないいつもの日常が待っていて、むしろもっと楽しい日々を送れる気さえしていた。


 もっとトロアちゃんの近くにいたい。傍にいて、たくさんサポートをしてあげたい。でも僕がこのことを言えば、それが叶わなくなってしまうのではという不安も大きい。


「また……明日……」


 ――駄目だッ!


「……あの!」


 変わるんだ、僕は。


 道を踏み外そうとしている彼女を、助けないといけない。

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