第三章

第1話 呼び出し

 ――万引きはね、なかったんだよ、鹿留君。


 微睡みの中で、ここり先輩の言葉が聞こえた。


 昨日、僕の家からの帰り際、彼女はそんな意味深なことを言っていた。


 万引きはなかった。確かに僕にはそう聞こえた。あの距離で、更にあの短い言葉を聞き間違えることはないはずだから、そうなのだろう。


 それでは、ここ約一週間の校内の盛り上がりはどう説明するのか。万引きがあったからどこもかしこも犯人探しに躍起になっているのであって、初めからなかったのであればいつもと変わらない日常が広がっているはずだ。


 万引きはなかった。


 しかし、ないはずはないのだ。


「うーん、わからない……」


「一体何がわからないんだ?」


 頭上から声がしたことに気付いたのは、ちょっと間を置いてからだった。


 僕はハッとして突っ伏していた頭を起こす。


 ……突っ伏していた?


 辺りを見回すと、クラスメイトのみんながニヤニヤとしていたり、呆れた様子でこちらを見ていたりしている。


 そして目の前には、表情こそ変えないものの、眉間に皺を寄せた笹子先生のキレイなお顔。


「黒板の問題がわからないのであれば、先生が手取り足取り教えよう」


「あ……はは……」


 ――あだっ!?


 瞬間、視界に閃光が走る。笹子先生必殺のデコピンが額に炸裂したのだ。


「他の授業では好きにして構わんが、先生の国語で居眠りをするとは、なかなか肝が据わっているじゃないか、鹿留」


「……すいません!」


「放課後、職員室に来るように」


「はい……」


 さすがの僕も、これをご褒美と思うことはできなかった。はあ……。





 最後に万引きが発生してから、五日が経過していた。


 五月十四日。放課後の廊下を、僕は非常に足取り重く歩を進める。罰を受けるために職員室に向かっているんだ。ルンルン気分なわけないでしょうに。


 ――七日に渡って続いた万引き騒動はそれ以降ぱったりと収まり、この五日間は特に何もなく、これといった進展を見せていない。


 校内の浮付いた雰囲気も幾分か落ち着きを取り戻しつつある。きっと日を追うごとに皆の記憶から薄れ、いずれなくなってしまうんだろうなぁ。


 思えばGWが明けてから、毎日が慌ただしく過ぎていったような感覚があった。


 絶対にお近づきになんてなれないと思っていた女の子たちと、何らかの形で接触しちゃったり、挙句の果てにはワオチューブ活動のサポートなんかに参加することになっちゃったり。実は僕は夢でも見ていて、そのうち前触れもなく覚めちゃうんじゃないかって変な不安に駆られたりもする。でも、笹子先生にお見舞いされたあのデコピンは、煙でも出たんじゃないかってくらいの痛みがあった。うん、夢じゃない。


 今日はどんなことがあるんだろう、明日は……こんなことを考えるようなった自分がいることにかなり驚いている。自分からは動かず、向こうからイベントがやって来るのを待っているだけの性格は変わっていないけど。


 一応、万引き騒動は下火になりつつある。誰が犯人だったのかがわからずに。もともと知るつもりはなかったんだ。今もないに等しい。みんながワイワイやっているのを端から眺めているスタンスに変わりはない。


 変わりはないけど。


 ――万引きはね、なかったんだよ、鹿留君。


 この言葉が僕の後ろをついて離れないのはどうしてだ。


 ここり先輩は僕に言った。私の容疑を晴らす手伝いをしてほしいと。でもその直後に万引きなんてなかったと言い切っている。これはなんだ。


 僕の頭を何度も巡るのは、万引きがなかったのであれば、こんなお祭り騒ぎには発展していなかったじゃないかということ。それでも彼女はなかったと言った。この自信が僕にはわからなかった。


「……待てよ」


 ならば彼女の自信はどこから来る。光城において万引き犯の最たる容疑者である彼女が、全力でそれを否定できる要素はなんだ。


「…………あ」


 あるじゃないか。ここり先輩にしかない強みが。


 そうそう、あの鎖骨! もし彼女が自分の鎖骨から発するフェロモンを自覚して制服を着崩しているのであれば、相当なやり手――。


 ……違う。そうじゃない。真面目にやれよ。


 ここり先輩は、ハギノの関係者じゃないか。


 彼女はハギノでアルバイトをしている。万引きがあった七日間の間、同じく七連勤をこなしていた。これによって多くの生徒から先輩が犯人なのではないかという疑いを掛けられるハメになった。このことが頭にありすぎて、僕は肝心なことを見落としていたんだ。


 バイトをしていたということは、ハギノ社員の話を身近に聞くことができる。つまりここり先輩があそこまではっきりと言える理由は、ハギノの社員辺りが、万引きなんて起きていないと言っていたから。


 じゃあなぜそれをそのまま他の生徒に言わなかったか。そんなもの、光城高校はアルバイトが禁止だからに決まっている。言ってしまえば最後、私はアルバイトをしていますと宣言するようなものだ。


 なかったものに対して、なかったと言えないもどかしさ。僕はここり先輩が感じている憤りを理解できた気がした。


 このまま万引き事件がみんなの記憶から薄れていっても、結局のところ、あの事件の容疑者はここり先輩のまま一生残り続けてしまう。ここり先輩も、それを薄々感じているはずだ。そんな悲しいこと、あってたまるか。


 見つけないといけない。この騒動を引き起こした人物を。


 腹が決まった気がした。僕は小さく息を吐いて、歩幅を気持ち大きくした。


 ……とりあえず、怒られに行きますか。

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