第6話 余韻
ビデオカメラを持っていた右手が、握った形のまま固まってしまっていた。それくらい力を入れて撮影に臨まないと、またいつ言うことを聞かなくなってしまうかわからなかったからだ。
僕はそんな右手を見つめながら、自分の部屋で大きな達成感に包まれていた。
そう。撮影はトラブルなく、極めてつつがなく成功裏に終了したのだ。
――僕たちはオープニングシーンを撮影した後、ハギノのお客様よろしく店内に潜入した。行き交う人々の視線をちらちらと感じていたものの、特に声を掛けられることもなく僕たちは歩を進める。
スナック菓子、ジュース、激辛カップ焼きそばに文房具、日焼け止めクリームと、ゴールデンウィークの五日間に発生したとされる、万引きされた商品のコーナーを、一筆書きのように手際よく見て回る。トロアちゃん、事前に下見でもしてきたんだろうか。どこに何が置いてあるのかを熟知しているかのような、しっかりとした足取りに僕は付いていくのがやっとだった。
極力迷惑は掛けないように。各コーナーでの滞在時間は最小限に。元気っ子が売りのトロアちゃんには申し訳ないけど、声のボリュームも抑え気味でお願いしていた。
そうして見るものを見た僕たちはハギノを後にした。最後にオープニングを撮った場所で感想とエンディングシーンを撮影して終了。時計を見ると時刻は八時。滞在時間にして約二十分のささやかな冒険はこうして全工程を完了したのだった。
――帰り際、僕はトロアちゃんからビデオカメラのSDカードを渡され、
「今日はありがとね。編集、楽しみにしてるわ」
自然な笑顔で、僕にそう言ってくれた。
こうして、僕は現在に至る。
いつまでも固まりっぱなしというわけにもいかないので、僕は右手をゆっくりと閉じたり開いたりしてみる。
余韻に浸るって、こういうことを言うんだろうなぁ。
僕はデスクに突っ伏し、先ほどまでのことを思い出しながら、悶絶していた。我慢していた反動が、ここにきてやってきたのだ。
あああああああああああああ可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い! 何あの歩き方! 仕草! 真剣に商品の棚を見つめる眼差し! あんなムーヴされたら追わない理由なんて微塵もないでしょう! 早くまた会いたい! 今すぐ会いたいよトロアちゃああん!!
……はい。落ち着こう。
僕はデスクの片隅に置いたSDカードを見て少しだけ我に返った。僕はトロアちゃんのファンであってファンではない。トロアチャンネルを作っていく一人のスタッフなんだ。だからトロアちゃんは僕にSDカードを託した。
僕はこれから、先ほど撮影した動画を見やすいように、そして面白く編集していく仕事があるのだ。トロアちゃんの他の動画と同様に、大体十分くらいの内容に収めるつもりだ。この十分って長さも個人的には絶妙で、短すぎると動画を視聴したという満足感が得られず、長すぎると再生ボタンを押す前に構えないといけなくなるため、腰が重たくなってしまう。短すぎず長すぎず。視聴者に負担の掛からない完ぺきな時間の設定だと思う。
――とまあ、僕の個人的な意見はいいとして、早速編集作業に取り掛かりたいところなんだけど。
時刻は夜の九時半を回る手前。撮影に気合を入れ過ぎたせいか、僕の体はえらく重たくなっていた。今から作業に取り掛かったところでトロアちゃんの望む良い作品はできないだろうと考え、今日はやめておこうと思った。何より僕は編集作業というものをしたことがない。素人なりに色々と調べてから始めた方がいいだろうとも思った。
そうと決まれば今日はもう撮影した動画を一通り見て、風呂に入って寝るとしよう。僕はSDカードをパソコンに差し込んで、読み込まれるのを待つ。
SDカードの中には三つの動画が保存されていた。オープニングシーンに店内、エンディングシーン……間違いなく先ほど撮ったものだ。よしよし。ちゃんと撮れていたみたい。
僕は少々緊張しながらも、始めのオープニングシーンを撮った動画の再生ボタンに手を掛けた。
『……やほほー! 元気してるぅー? トロアだよー!』
…………………………はぁ、可愛い。
一番の難所とされていたオープニングシーンは僕の発作のせいで所々ブレてしまっていたが、そこはご愛敬でお願いしますとしか言えなかった。
『――トロアちゃんねる~……スタートっ!』
オープニングとエンディングは店の外で撮ったし、何も問題はなさそうだ。
続いては今回のメイン、店内撮影の様子だ。さてさて、うまく撮れててくれよ……。
『ふーん、こんな感じなんだねぇ。見たカンジ普通のスーパーだね』
トロアちゃんはきょろきょろと辺りを見渡しながら前に進む。
『あ、パンの良い匂いがする! まだ私晩御飯食べてないんだよねぇ。撮影終わったら買っていこっかな』
入り口付近からはパン屋さんの良い香りがした。トロアちゃんの足取りが若干パン屋さんに向かいかけたが、僕は必死に首を横に振って前に行くように促していた気がする。
一番初めに向かった先は日焼け止めクリームが盗まれたとされる日用品コーナー。
『ん~、こうやって見てみると、レジとの距離も近いし盗むには無理があるような気がするけど……』
トロアちゃんはしゃがみながら、神妙な面持ちで日焼け止めクリームの棚を見つめる。
そうなのだ。ハギノの日用品コーナーはレジと近い距離にある。夜の七時くらいともなるとどのレジにも列ができ、周辺はかなりの人で溢れ返る。そんな中、モノを盗むことは容易なことではない。
『でも万引きされたことは確かなんだよね。不思議だなぁ』
トロアちゃんは少々腑に落ちなさそうにしながらも、次のコーナーに向かって歩き出した。
文房具、激辛カップ焼きそばにジュース……実際に現場を見てみるとわかるのは、どこのコーナーも混雑していたということ。万引き犯は夕方から夜にかけて犯行に及んでいたらしいが、こんな時間帯は当然ながらどのコーナーも誰かしらが歩いている。加えて上を見上げてみると、天井にはいたるところに防犯カメラの目が光っており、とてもじゃないけど万引きなんてできるような状況ではなかった。
『ふむふむ……』
そうして最後に、スナック菓子が盗まれたとされるお菓子コーナーのチェックが終わり、
『……とりあえず、全部見てみたけど……これ、ムリじゃない!?』
トロアちゃんはカメラに寄りながら、首を傾げた。
『どこのコーナーもお客さんがいるし、防犯カメラには見られてるし……やっぱりただの噂なんじゃないかなぁ……』
トロアちゃんは頭を抱えてみたり、人差し指をピンと立ててみたりと、コミカルに動いてみせた。僕はそれが危なっかしくて、もう見るものも見たし外に出ようとジェスチャーを送る。
ここで店内撮影の動画は終わっていた。
……うん。ちゃんと撮れているんじゃないか、これは。各コーナーごとにトロアちゃんのコメントが入り、お客さんの混雑具合や防犯設備もしっかりしていることもわかるし、主役であるトロアちゃんの色んな表情も問題なし。及第点と言って良いと思う。撮れ高があったかと言われるとないんだけど。
僕は考えながらエンディングシーンを撮った動画を再生する。
『――ふう。潜入捜査しゅうりょー! すんごいドキドキしちゃった! 今回はお部屋を飛び出して外に出てみたけど、どうだったかな? 万引きがあったってことでお店を見てみたけど、正直私はそんなことしてる余裕はないかなぁって思った! ほんと、ただの噂だったらいいんだけど……それじゃ、今日はこのへんでおしまいにするね! この動画が気に入った人はイイネボタンをプッシュ! チャンネル登録がまだって人は、押してくれると嬉しいな! またね~!』
満面の笑みで手を振るトロアちゃんが手を振り、動画はここで終了した。
……うん。ただただ可愛い。撮れ高とかもうどうでもいい気がする。トロアちゃんファンはきっと、トロアちゃんが外に飛び出して、歩いて動いている姿を見られただけで大満足だと思う。僕がそう思うんだからそうに決まっている。
「……いけないいけない」
僕は自分がまたトロアちゃんのただのファンになっている気がして、慌てて姿勢を正した。僕にはこれから動画編集という作業が待っているんだ。トロアちゃんがバッシングを受けないように、しっかりとチェックをせねば。
僕は立ち上がると、大きく伸びをした。とても長い一日だった気がする。慣れないことをして疲れちゃったし、風呂に入ってたまには早く寝るとしよう。
しかし、実際に撮影をしてみて感じたのは、許可を取っていないお客さんがカメラに入り込んじゃうのって、やっぱり気まずいんだなぁってこと。モザイク対策は大正解だ。
僕はそんなことをしみじみと感じながら、タンスから下着を取り出し、風呂に入るため部屋を出ようとした。すると。
…………ん?
突然、頭の中に引っ掛かりを覚えたのだ。なんだ、このモヤモヤした感じは。
握っていたドアノブから手を離し、僕は思案する。
動画は良く撮れていたと思う。ああ、何も問題はなかったのだ。では、普通ならば晴れやかな気持ちで風呂に向かうはずの僕が、なぜこうもなんとも言えない、何者かに服の裾を引っ張られているような気持ちになっているのだろうか。
「……」
僕は何か居心地の悪さを覚えながら、もう一度椅子に座り、パソコン画面を見つめる。先ほどの動画をもう一度確認しないと気が済まなかった。
まさか、ね。
オープニングとエンディングはトロアちゃんしか映っていないため、特に思うことはないはずだ。となると本編――店内撮影中に見逃してはならない何かが映り込んでしまっていた可能性がある。僕はそれが目に入ってしまったが、気にすることなくそのまま視聴を続けた。そんな気がしたのだ。
僕はトロアちゃんに注視していた一度目の視聴とは視点を変え、彼女以外を見るようにした。
入り口付近のパン屋さん、陳列する商品、行き交うお客さん……停止しては時間を戻し、変な所はないかチェックしていく。
そうして最後にトロアちゃんと見たお菓子コーナーに差し掛かったところで。
「……ここだ」
僕は今までのモヤモヤした気持ちが、このお菓子コーナーを撮影したシーンの中にあると確信した。どこだ。どこにあるんだ。
『……とりあえず全部見てみたけど……これ、ムリじゃない!?』
一通りチェックを終えて首を傾げるトロアちゃん。
そして彼女がカメラに寄ったところで、それは映り込んだ。
大きくアップで映し出されるトロアちゃんの愛らしいお顔。その画面右上の隅を一瞬だけだが横切った人物がいたのだ。
だが時刻は夜の七時半過ぎ、混雑する店内にはたくさんのお客さんがおり、ここに来るまでも多くのお客さんがカメラに入り込んできた。そんなものは当然である。
僕はシークバーを戻してもう一度再生をし、その人物が横切るのを待つ。
「――今っ!」
カチ、とマウスのクリック音が部屋に響く。それと同時に僕の心音もうるさいくらいに体の中で速く鳴っていた。
「そんな」
停止された画面には、よく見知った人物が映っていた。
僕が毎朝時間を見計らって、その子をお目に掛かるために行動しているのだ。見間違うはずがなかった。
更に、僕は今日、その子の顔を初めて見た。今までは後ろ姿しか見たことがなかったから、あの時、あのタイミングで出会っていなければ、このシーンは確実に見逃していただろう。
「……モモ、ちゃんだ」
カメラにはお菓子コーナーの背後、突き当たりの通路に構える惣菜コーナーを横切る人混みの中に、モモちゃんがいた。
な……なんでモモちゃんがこんなところに……いや、買い物くらい誰だってするだろう。このハギノにいる数百人のお客さんの一人にたまたま、たまたまモモちゃんがいただけの話だ。なにを狼狽える必要があるんだ僕は。でも――。
僕はまじまじとパソコンの画面を見つめる。そこに映っているのは紛れもなく僕の知っているモモちゃんそのもの。どうしても考えてはいけない想像をしてしまう。
そんな時だった。
「ひっ……!」
部屋のどこからか、電子音が鳴ったのだ。余りのタイミングの悪さに僕は情けなく肩を震わせてしまう。
音の主は僕のスマフォだった。音色からして、誰かからメッセージが届いたらしい。
「なんだ……?」
僕がここまで怪訝になるのには訳がある。
僕は友達がいない。いないに等しい。あ、いや厳密にはいるのだけど高校に上がってから仲の良かった奴らは別の学校にいってしまって連絡を取り合うことが激減したというか……なぁ、そろそろ飯でも誘ってくれたっていいじゃんか……。
……なんだか別の意味で恐ろしくなってきてしまった。今はそんなことを考えている場合じゃない。要は、僕はこんな時間に気さくにメッセージを送ってくるような友
人に心当たりが無いのだ。
僕は恐る恐るスマフォを手にして、メッセージを確認した。
そこには。
『トロアに近づくな』
ただ一文、簡潔にそんなことが書かれていたのだ。
これだけでも十分に怪文書なのだが、
上暮地薄荷
この送信主にも全く心当たりがなかったのだ。現に画面には『登録されていないユーザーです』の文字。というか、これはそもそも人の名前なのかということさえも僕にはわからない。カミクレチハッカとでも読むのだろうか。
眠気なんぞとっくに消え去ってしまっていた。今はこの……上暮地?(今はそう呼ぶことにしよう)という人間に返信をするか否かで頭の中が一杯だった。ここで厄介なのは僕がこのメッセージに目を通したことが相手にも伝わっているということ。無視することもできるが、この上暮地という人物は僕の連絡先を一体どこで仕入れたのだろうか。もしかすると既に僕の個人情報を調べ上げている可能性だってある。下手に無視してしまったら僕の身に危険が……さすがにそれは考え過ぎかもしれないけれど。ただ、自己紹介もなしにこんな脅迫じみたメッセージを送って来る奴だ。何をしでかすかわかったもんじゃない。
ああでもないこうでもないと考えた末、僕はメッセージを返す決断をした。
「……どういうことですか。あなたは誰ですか……っと」
文字を打つ指に力が入らない。気味の悪い文章って、本当に気味が悪いんだ。
「…………送信」
一呼吸置いて、送信ボタンを押した。
相手が読んだことを知らせる既読のマークが表示されたのは、それとほぼ同時だった。
――待ってたんだ。僕が返信するのを。
「なんだよ……!」
こうなってくるといよいよ身の毛がよだつ。僕は怖くなってスマフォの画面を消灯するとベッドに放り投げ、風呂に走った。
ずっと誰かに見られているような気がして、シャワーもそこそこに風呂を出て、そのまま布団に潜りこんだ。
枕元に置いたスマフォは絶対に見たくなかった。既読マークが付いてるかわからないけど、メッセージの着信が来る前に寝てしまおう。いや、電源を切ってしまえばいいのか。
そう考え、僕はスマフォの電源を落とすと目を閉じた。いつまで経っても眠れなくて、夜がとても長かったように感じた。
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