第2話 初めての学食
五百円玉を握りしめる右手が、小さく震える。
四限目までをそつなくこなし迎えた昼休み。僕の姿は学食の前にあった。普段なら母さんの作ってくれた弁当を教室でそそくさと食べる僕がなぜこんなところにいるのか。
理由は二つあった。まず一つ目は、単純に母さんが弁当を作ってくれなかったから。今日は早く会社に行かなければいけないらしく、僕が起きた時点で既に家を出る所だった。テーブルにお金置いといたから、それでなんとかして! とのこと。
そして二つ目は、購買のパンが売り切れていたから。四限目を終え、僕はお昼ご飯を買うために教室を出る。しかし、校内をよく知らない僕は購買の場所がわからない。あてもなく彷徨ってようやく見つけた時にはパンなどといった食べもの類は完売してしまっていた、という涙が出そうなオチだ。
結果、僕は学食に行かなければいけなくなった。高校生活の三年間、絶対に訪れることのないだろうと思っていた学食にだ。なぜかって? あんなリア充の巣窟、僕には縁遠い場所に決まっているじゃないか。
僕は学食の扉を前にして足がすくんでしまっていた。この扉の向こうはテーブルを囲んで楽しくご飯を食べている人たちでごったがえしているはずだ。そんな中に僕みたいな独り者が入る余地はあるのか。果たして、僕の席はあるのか、不安で仕方がなくなってくる。
それでも空腹というものは否応なしに襲ってくるわけで……ええい、うどん辺りをさっと食べて終わらせてしまおう。
僕は意を決して学食の扉に手を掛けた。
――予想通り、中は多くの生徒で盛況していた。仕切りのないだだっ広い空間は皆の声がよく響き、喧噪という名に相応しい様相を呈している。人々の熱気と厨房からの湯気で窓は結露しており、実に活気が溢れていた。
……狼狽えている場合じゃない。なにしろ僕は初めての学食だ。まずはこの空気に慣れないといけない。
僕は前方の生徒についていき、見よう見まねで券売機からきつねうどんを購入した。脇に積んであるお盆を手にして、そのまま流れるように厨房のカウンターに買った券を置く。止まった奴は置いていく。実に無駄のない、そして慈悲もないシステムだと思う。
「はーい、きつねうどんね~」
ほどなくして、きつねうどんが出てきた。あとは肝心の席取りなわけだが、空いているだろうか。
僕は出されたきつねうどんに手を伸ばす、が。
伸びた手がもう一本あったのだ。
「あっ」
僕と別に手を伸ばした人は同時に声を出し、手をひっこめた。
「あなたもきつねうどんを?」
見ればそれは、かなりの美少女だった。
「あ……はい。でも、僕の勘違いでした……」
きつねうどんなんてポピュラーなメニューを頼む人間はそれこそたくさんいる。まだ前に待っている人がいるというのに、きつねうどんと呼ばれただけで僕のものだと思ってしまった自分が情けない。学食には魔物が棲んでいる。それを実感した瞬間だった。
「いいのよ。お先にどうぞ」
すると女の子はやんわりと笑うと、僕にこのきつねうどんを譲ると言うのだ。
「え? そんな……先に並んだのに悪いですよ」
「お腹空いているんでしょう? うどんなんてすぐ出てくるから大丈夫。ほら、伸びちゃうよ」
「いや、でも」
「いいのっ」
女の子は言いながらどんぶりを無理矢理僕のお盆に乗せる。
「はーい、きつねうどんね~」
「えっ」
すると、もう一つのきつねうどんが出てきた。正真正銘これが僕のものだ。
「ね、すぐ出てくるでしょ。じゃあこれは私がもーらいっ」
女の子はにっこりとしながらうどんをお盆に乗せると、行ってしまった。
ぽかんとしながら、僕は彼女が乗せてくれたきつねうどんを見る。これはあの人が食べるはずだったものだ。そしてもう一方の僕が食べるはずだったきつねうどんは、彼女のお盆の上に。
……なんだ、この間接キスにも似た感情は。いや、どう考えても間接キスではないのに、変に意識をしてしまう。
僕は行ってしまった彼女の方を見る――というか、あれ?
その後ろ姿に見覚えがあった。むしろ、その後ろ姿にしか見覚えがなかったから、さっき話をしている時には気づきもしなかった。
あのお尻は間違いない。あれは……あれはモモちゃんだ!
僕はモモちゃんと会話をして、きつねうどんを交換してしまったのだ! こんなことがあっていいのか!
どうせなら近くで、と思い僕はモモちゃんを探そうとするが、彼女と思しき人物はそのまま、学食の混雑の中に消えてしまった。
もう食べている場合じゃない。このきつねうどん、一生大事にします!
僕は席を探すことも忘れ、感無量でその場に立ち尽くした。
……その後方で、待つ人の長蛇の列が形成されてしまっていたことは言うまでもない。
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