第一章

第1話 出欠確認

 僕、鹿留枢ししどめすうは四月から私立光城こうじょう高校に通うことになった高校一年生だ。進学校であるということ以外はこれと言った特徴はない普通の高校である。


 そんな光城を選んだ理由としては、やはり家から近いことが大きなポイントになっている。ドア・トゥ・ドアで約十五分。始業のチャイムが鳴るのが八時半なので、例え八時に起きてしまったとしても何とか間に合う距離に僕の家はあった。


 僕は朝が大の苦手だ。いつも寝ていられる限界の時間に目覚まし時計をセットして、慌ただしく家を出る。高校に進学してからもこの生活は変わらなかった――いや、変わらないはずだった。


 ――高校入学初日。中学の頃と同様に遅刻するかしないかの時間に家を出ると、とある女の子に出会った。完全に一目ぼれだった。


 女の子は随分先を歩いていたため、しっかりと見ることはできなかったが、あれは間違いなく、俗に言うところの『美少女』。僕は確信していた。


 もう少し早く家を出ればもっと近くで見られるかも……後日、そう思い眠たい体にムチを打ってちょっとだけ早く家を出た。


 すると。するとだ。


 今度は違う女の子に遭遇したではないか。そしてこれもまた絶世の美少女と来た。早起きは三文の徳という言葉は本当だったらしい。


 ……じゃあ、もっと早く起きたら……?


 そんな淡くも濃厚な期待に胸を膨らませ、僕は更に登校する時間を早める。

ここから先は言う必要もないだろう。


 つまり、このようなサイクルを繰り返し、試行錯誤していった結果、僕はなんと五人の美少女たちに会いながら登校ができるようになったのだ。ああ、早起きは神。早起きは裏切らない。



 玄関を開け、外に出ると感じたのは朝の日光。とても気持ちの良い朝だった。


 五月八日、月曜日。五月の連休ゴールデンウィーク明けの今日、本来なら陰鬱とした気持ちで登校するはずなのだが、僕の心は晴れやかだった。当たり前だろう、なんせ彼女たちとはほぼ一週間ぶりの再会なのだから。


 さて、〝出欠〟取りますか!


 家を出て、右折。そこから伸びる一本の道が僕の通学路。この道沿いに光城高校があるので、奇跡的に一度も曲がることはない。


 そして、待ちに待った約十五分のショータイムが、幕を開けた。


 ちなみに、今僕の言った〝出欠〟とは、彼女たちが今日も元気に登校をしているのかを確認するために勝手に名付けたものである。なんだか先生になったような気がして気分が良い。


 僕の胸の高鳴りは最高潮に達した。この鼓動をブルートゥースで市内放送のスピーカーに接続出来たら、光城市は非常事態宣言でも出すんじゃないだろうか。


 そんなことを考えつつも、僕は通学路に足を踏み入れ、静かに前方を確認した。


 ……いた! ハイいた! いましたー!


 前方五十メートルの位置に! 他の生徒とは比べ物にならないレベルで輝きを放っている女の子が! 光城高校に向かって歩いていた! あー疲れ吹っ飛ぶ! どっか行っちゃう!


 通学路に出て一番初めにお目に掛かるのは――。


 僕は彼女のことを『モモちゃん』と呼んでいる。フリフリと魅惑のお尻をこれでもかと僕に見せつけながら歩く、カンペキ安産体型な女の子だ。


 通称? 何を疑問に思う必要があるのか。僕はモモちゃんとお話をしたことはない。つまり、名前なんて知るはずもないのだ。更に言うと、僕は彼女の後姿しか知らない。本当は回り込むなり、もっと登校時間を早めるなりしてお顔を見たいところなのだが、それをしてしまうと〝出欠確認〟に支障が出てしまう。うう、このジレンマ。


 だがあんなお尻、美少女でなければ困る。尻と顔の美しさは比例するものだ。異論は認めない。


 先に白状しておくと、これから遭遇するであろう残り四人の女の子も、僕はニックネームを付けて呼んでいる。誰一人として名前は知らないし、話もしたことはない。僕みたいな人間は遠くからひっそりと眺めているくらいが丁度いいのだと思う。

さあさあ、御託はこれくらいにしておいて、モモちゃんはっと……。


 何度も言っているが特筆すべきはあのお尻。膝上十センチほどのスカートが歩くたびにお尻に当たり、小気味良く揺れる。そして思わず鷲掴みにしたくなる太腿と腰。ああ、産まれたいことママの如し。光城の制服を着ているから、きっと学校のどこかで会えるのだろうけど、そんなことはどうでもいい。この通学路を、同じルートを歩いて、そして学校敷地内に一緒にいるというこの事実が、それだけで僕にはお腹いっぱいなことなのである。


 僕は腰を落として、モモちゃんのお尻に視線を合わせて歩く。大丈夫、これまでこの歩き方で呼び止められたことは一度もない。むしろ呼び止められるのはモモちゃんの方だ。素晴らしいお尻をしていますね、ってね。


 歩く速度は常に一定。距離を詰めるわけでもなければ、もちろん遠ざかるわけでもない。この距離感こそが、僕が彼女に近づける限界の距離。これより先は聖域サンクチュアリィ。何人たりとも侵入は許されな――。


 その時だった。僕の脳が、ぐらりと揺れたのである。


 右頬にフックでも喰らったのではないかと思ってしまった。倒れてしまいそうになった体を、ギリギリのところで踏みとどまる。


 あ、ああ! この香りは……!


 香りが、物理的に僕を殴ったたような気がした。それほど強烈なインパクトだった。


 この香りを例えるとすれば……難しい。難し過ぎる。女の子が生まれもってして持っている甘い香りに、更にシャンプーやリンスの清潔な香りが絶妙に混じって、男と言う生物を本気で篭絡しに掛かっているのではないか。そんな、酷く暴力的キュートな香り。


 彼女は僕の目の前を右から左に横切った。


 あの子は!


 彼女はいつも、まちのでんきやさん『小林電気』の脇道から姿を現し、僕の目の前を横切る。その際、先ほどの〝ヤバい〟香りがふわりと僕の鼻へと入り込むのだが、今回は連休ぶりの再会ということもあり、いつも以上にこの匂いがキマッてしまった。前方を歩くモモちゃんもこのような香りを振り撒きながら歩いているのだろうか。是非とも確認をしたいところなのだが、そういうわけにもいかない。


 僕は一瞬だけモモちゃんから視線を外し、この香りの主の方向へ視線を移した。


 ……ああ、やっぱりだ。間違いない。


 あの子は『デニ子』だ。


 僕が登校中に出会う二番目の女の子、デニ子。


 まるで誘っているかのような良い香りをさせて僕を横切り、綺麗な黒髪をたなびかせながら颯爽と歩く女の子。一瞬しか横顔を見ることができないが、まつ毛が長く、鼻の筋もスッと通っていて、一言で表すなら〝涼しい〟という言葉がぴったりだと僕は思う。


 すると引っかかるのは、ニックネームの『デニ子』とは、一体どこから来ているのか。


 察しの良い人間ならば容易に想像がつくとは思うが、僕は説明をする。デニ子の素晴らしさを再確認するためにも良い機会だ。


 デニ子とは『デニール』、すなわち彼女が履いているあの黒タイツが由来だ。

さあ、今から早口で説明するから全力でついてきてくれよ!


 デニールは繊維や糸の太さを表す単位で、タイツにおいては使われる繊維が細ければ色の薄いタイツ、太ければ色の濃いタイツとなる。


 二十デニール、四十デニールと、数字が大きくなるにつれて色の濃さも増していくわけだが、デニ子の履いている黒タイツは、『悪魔の六十デニール』なのだ。


 なぜ端から見ただけでわかってしまうのかって? 


 ならば逆に訊こう。なぜわからない? 


 なぜあの絶妙な濃さが六十デニールだとすぐに察しがつかない? しゃがむと淡く肌色に滲む膝小僧。ふくらはぎなど、生地の張っている部分からもうっすらと覗く彼女の肌。


 まるで擦りガラス越しに女性の裸体を拝んでいるような気分にはならないだろうか。


 見えるけど、鮮明には見えない。こんなにも男の想像力を駆り立たせる布があるだろうか。あれを六十デニールと呼ばずして何と呼ぶ。恐ろしいまでに計算された数字である。だから僕は敬意を込めて『悪魔の六十デニール』と呼んでいるわけだ。


 デニ子は僕と通う学校が違う。あの制服は光城東高校、通称『トン高』の制服。彼女とも同じ校舎内でスクールライフを送りたかったが、神様はそれを許してはくれなかった。


 気が付けばデニ子の姿は既に小さくなっており、僕は視線を前に戻した。


 背後から自転車で僕を追い抜く生徒、小学生の集団登校の姿など、通りは十人十色の朝の登校風景で溢れている。


 ……ん?


 そんな群像の中に、僕たち光城生とは真反対……つまり正面から歩いてくる人がいた。


 何を隠そう、あれは三人目の女の子。名前を『根ツイ先輩』と言う。


 あ、根ツイ先輩だ。先輩だけとは昨日ぶりのご対面ですね。


 恐らく僕が出会う五人の女の子たちの中で、彼女が一番近距離で見ることができる女の子だと思う。なんてったって徐々に僕に向かって近づいてくるのだ。ワクワクが止まらないだろう。


 根ツイ。それは頭の根っこから生えたツインテール。すなわち、『おさげ』だ。


 ツインテールは元来耳より上の位置で髪の毛を結んだヘアスタイルのことを言う。こちらはどこか元気な子といったイメージが僕には強い。ヘアスタイルとは本当に不思議なもので、この髪の毛を結ぶ位置が変わるだけで、その人に対するイメージはがらりと変わってしまう。


 根ツイ先輩はこのツインテールというヘアスタイルの中の『おさげ』という分類に属していた。おさげは耳よりも下の位置で髪の毛を結ぶ。三つ編みにする人が多いが、根ツイ先輩はただ結んでいるだけだった。首の近く。頭の根っこ。根ツイ。おわかり頂けただろうか。


 つまりは清楚。僕の中での彼女のイメージは大方これだ。掛けている太めの黒縁眼鏡も根ツイ先輩の清楚具合に拍車を掛けており、文庫本でも読みながら歩いていたら間違いなく文学少女の称号を与えられていただろう。僕に。


 でも、あれはどこの高校の制服だろう。根ツイ先輩の制服は、この辺では見かけない高校のものだった。きっとどこかの女子高で、「ごきげんよう、お嬢様」とか言いながら登校する清楚な学校なのかもしれない。


 そして僕が言った昨日ぶりという言葉。なんと昨晩、僕は根ツイ先輩にお会いしていたのだ。正確には一方的に僕がそう思っているだけなのだが。


 昨日――つまりGW最終日。スーパーに買出しに出かけたその帰り道。大きいビニール袋を抱えた彼女を見かけているのだ。当然声などは掛けていない。


 なにはともあれ、今はこの通学路を満喫するとしよう。


 根ツイ先輩との距離は一歩、一歩と狭くなってきており、それと比例するように僕の鼓動も高鳴りを増していた。


 彼女のおしとやかな顔が近くなってくる。ふわりふわりとおさげが歩くたびに揺れる。彼女はいつも僕と視線を合わせようとしないので(赤の他人なのだから当たり前か)、僕はいつも彼女の顔をしっかり目に焼き付けるようにするのだが。


 え?


 前方五メートル辺りで、なんと今日は、目が合ってしまったのだ。


 突然のことに、僕の思考は停止する。こちらから視線を外してしまいたいが、変な後ろめたさも後押しをして、それができない。


 そしてなぜが、根ツイ先輩も視線を外そうとしないのだ。これは一体何のチキンレースだろうか。


 三メートル、二メートルと、いよいよすれ違う寸前。何か挨拶の一つでもすべきなのだろうが、僕にそんな大胆なことができるわけがない。


 こうして、ああでもないこうでもないと、思考を巡らせていた時だった。

根ツイ先輩のきょとんとした表情が、徐々に変わってきたのだ。


 彼女は驚いていた。それはもう驚愕という名に相応しい表情で。もともと白かった肌は血の気の引いた薄い青。黒縁眼鏡もちょっとだけずれているように見える。


 え? 何? 僕が何かしましたか!?


 毎朝、すれ違うだけのはずの平行線が一本、その流れを壊しに来た。


 根ツイ先輩は血相を変えて、真っ直ぐ僕に向かって歩いてきたのだ。


 それはすれ違う為、というよりは、僕と話をする為に歩いてきているようだった。


 そして。


「ねえ、ちょっと!」


 やはり、僕は声を掛けられてしまった。普通だったら喜ぶところなのだろうが、状況が状況だ。根ツイ先輩は、明らかに動揺した様子で僕を呼び止めた。


 だがしかし、初めて聞いた彼女の声は、どこか慣れ親しんだような、高めの聞き取りやすい声だった。


「は……なんでしょう……か」


 僕は肩をすぼめて様子を窺う。


「……あんた、誰にも言ってないでしょうね!?」


「…………僕、が……?」


 あんたと言われて、僕にはそれが自分のことを指しているのだと理解するのに少々の時間を要した。


 ――あんた、誰にも言ってないでしょうね。これはどういうことだろう。


 あんた――これは僕のことだ。


 誰にも――これは僕以外の人間のことだ。


 言ってないでしょうね――そしてこれはたぶん、言ったらぶっ殺されるということだ。


 根ツイ先輩のこの言葉から感じ取れるニュアンスは、僕は彼女の何かしらの秘密を握ってしまった。そんな風に聞き取ることができる。


 だが僕は、彼女とコミュニケーションを取ったのは今日が初めて。秘密も何もあったものではない。


「どうなのよ!」


 根ツイ先輩はカリカリとしながら僕に詰め寄る。あれ? 僕の脳内に構える『清楚』の二文字に亀裂が入りかけているぞ。


「え……あ……何の話だか……」


 僕はあたふたと首を振り、何も知らないことを伝える。


「…………え、もしかして、気づいてないの」


 僕の反応に、根ツイ先輩は思案を始めた。


「やだ……だとしたら私、とんだボケツ掘っちゃった……?」


 彼女の頬が紅潮したのがわかった。すると、キッと僕に向き直って、


「忘れろっ! くそばかっ!」


 ただ一言、そう言い捨てて走り去ってしまったのだった。


 疾風のように行ってしまった根ツイ先輩を、僕はただただぽかんと見送ることしかできなかった。


 とりあえず、理解が追い付かない。


 朝、いつものように登校していたら突然いわれのないイチャモンを付けられて、挙句の果てには一言、「クソ馬鹿」って。言葉の一方通行もいいところじゃないか。


 人違いか何かだろう。とりあえず、大好きな女の子に声を掛けられた。それだけは確かだ。ポジティヴに考えよう。そうしよう。


 僕は気を取り直して歩き出そうとするも、


「でも……」


 たった一歩足を前にしただけで、また考えてしまった。


 もしも、彼女の言葉が人違いなどではなく、本当に僕だったとしたら、僕は一体根ツイ先輩の何を見て(もしくは知って?)しまったのだろうか。


 ……というか、いつ?


 そう言えば根ツイ先輩は「誰にも言ってないでしょうね!?」としか言っておらず、これでは正確な日時がわからない。ここ最近? それとも遥か昔? ……いや、少なくとも昔ということはないだろう。かれこれこの通学路を利用し始めて一カ月が経つわけだけど、こんなイベントは今朝が初めてだったのだから。


「……ゴールデンウィーク、か」


 自ずとそういう結論にたどり着く。僕はゴールデンウィークの数日間のうちに、根ツイ先輩の秘密か何かを握ってしまった。だが、それに僕自体は気づいていない。昨晩に彼女を見かけてはいるものの、別に見られて困るようなものでもなかったと思うし。なにより根ツイ先輩が僕の存在に気づいていた素振りはなかった。


 ……ん? 気づいていないのなら、別にいいんじゃないか?


「あ、だからあの時、墓穴って……」


 なるほど、ようやく理解した。しかし、理解したはいいものの、僕にはそれ以上の思考が巡らなかった。だって、そもそも気づいていないじゃないか。


 僕は少しだけスッキリしながら、今度は止まることなく歩みを進めた。しかし根ツイ先輩、あの容姿からは想像もつかない暴言を繰り出してきたな……。


 人は見かけによらないものだ、と僕は苦笑しながら本来の目的を思い出す。さてさて、元気よく行こうじゃないか。僕の出欠確認はまだ終わっていな――。


「………………あ」


 僕は辺りを見回す。


「いない」


 そして瞬時に腕時計に目を落とした。


 八時十五分。これは……これはまさか……!


 なんということだ! 『ハッパさん』は!? 『サコちゃん』は!?


 考えれば当然である。五人の美少女を一度に拝むため、僕の登校における時間配分は計算し尽くされていた。それはもう数分のズレも許されないほどに。


 つまり、僕は残り二人の美少女の行方を、完全に見失っていたのだ。


 ええと、根ツイ先輩に足止めを喰らってから僕が再び歩き出すまで……ああ、十分が経過していたことになる。これは致命的なタイムロスだ。


 いやいや、足止めだなんて滅相もない。驚いたけど、嬉しかったことは確かじゃないか。


「だけど……はぁ」


 嬉しいやら悲しいやら、僕は大きく溜息をついて、学校を目指したのだった。

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