** 智希 ー過去編ー
ごく普通の家庭の歯車が狂い始めたのは、母親が男を作って出ていってからだった。
母は美人な人だった。
父との結婚は、それぞれの父親同士の計らいで決まったと聞いた。
俺たちの両親の時代は、まだそういう結婚も多かったようだ。
恋愛結婚ではなかったが父は母を好いているようだったし、母も俺たちに愛情を注いでくれていた。
しかし、俺が小5、兄が中1の頃、母は俺たちを置いて出ていった。
父は憔悴した。仕事も休みがちになり、夜は飲めない酒を浴びるように飲んだ。
酒を飲むと気が大きくなるのか、兄や俺への暴言や暴力は日に日に増していった。
そして酔いが覚めるといつも言う。
「ごめんな」と。
同じ頃、兄は中学で同級生からいじめられるようになった。
ボロボロの姿で帰宅する兄に、俺はなにも言えなかった。
そうして次第に、学校に行かなくなった。
学校に行かない兄を、父は酷く叱った。
兄は何も言い返さず黙っていたので、父の怒りはエスカレートする一方だった。
家にいるのが嫌で、俺は所属していた野球チームで毎日のように居残り練習をして帰っていた。
野球をしている時は、苦しいことから逃れられた。
母に捨てられたことも、父から浴びせられる暴言も暴力も、学校に行けない兄のことも、頭の隅に置いておくことができた。
「智希、お前、野球だけは辞めるなよ」
当時のコーチが俺に、口酸っぱく言った言葉だった。
それは俺が決められることじゃないよ、と心の中で返事をした。
中学に上がった。
お金がかかるから野球部には入らないつもりだったし、父もそれで納得していた。
しかし、小学校時代のコーチや中学の野球部顧問がわざわざ父を尋ねて説得し、そこまで言うなら…と父も頷いてしまった。
奮起したのか、父は以前のように働き始めた。
酒を飲んで暴れることは変わらなかったが、父が働き続けるためのストレス発散なのだと受け容れるしかなかった。
兄は出席日数のために再び学校に行き始めたが、休みがちなことに変わりはなかった。
俺も父も自分の生活で手一杯で、兄のいじめに気付いていながらも手助けはできずにいた。
その日は突然、訪れた。
兄はなんとか高校に進学し、俺は中2になった。
中学の同級生が少ない高校を選んだおかげか、兄は高校には休まず通っていた。
俺は中2の総体で順調に勝ち上がり、全国大会まで進んだが結局初戦で敗れた。
試合を終え学校に戻り、各自解散となった。
家路につこうと自転車に跨ると、顧問が血相を変えて俺の元へ走ってきた。
顧問は言葉を選びながら、言った。
「お兄さんが……亡くなった、らしい」
理解が追いつかず、言葉は出なかった。
顧問の車で、警察署へ向かった。
病院ではなく、警察署だった。
警察署のソファには、抜け殻のようになった父が座っていた。
警官が、淡々と言葉を並べた。
兄は中学の同級生をナイフで刺した。
兄は逃げ出し、橋の欄干から川へ飛び込んだ。2時間後に発見されたが、すでに亡くなっていた。
刺された同級生は軽傷ですが、傷害罪として取り扱うことになります。
何も言えなかった。
そうですか、というような言葉を発した気がするが、そこに感情はなかった。
兄が刺した同級生は、いじめの加害者だった。
別の高校に通っていたが、それでも兄は地元でたびたび彼から暴行などのいじめを受けていたようだった。
メディアにセンセーショナルに取り上げられたことで、中学から続いたいじめの証拠が続々と集まった。
兄への訴えはすぐに取り下げられ、今度は被害者であるはずの同級生が責められる構図にすり替わった。
同級生は地元にいられなくなり、一家で遠方に引っ越した。
あとから聞いた話だが、兄をいじめていた同級生の父親こそが、俺たちの母親の不倫相手だった。
彼は俺たちの母親が自分の家庭を壊したと兄を逆恨みして、粘着的ないじめを続けていたようだった。
父は、母が出ていった時以上に憔悴し、精神を病み身体を壊した。
食事もろくに摂れなくなり、兄が亡くなって半年もたたないうちに病状が悪化し亡くなった。
俺は、兄の事件が明るみになってからは中学に通い続けるのが難しくなり、転校し父の弟の家に身を寄せることになった。
元々疎遠だったこともあり叔母や従姉妹は俺に冷たかったが、叔父は優しかった。
新しい中学では同級生や教師から心無い言葉を浴びせられることも多かったが、遠方の高校に通い始めるとそういうことは少なくなった。
感情を持てば、消えてしまいそうだった。だからいつも、感情を捨てて生きていた。
誰が悪かったのか、といつも考える。
兄は3年近くいじめに耐えていた。
いじめの証拠は、家族としては目にするのも辛いほどの内容だった。
それでも頑張って高校に入学したのに、最後に大きな仕返しをしてしまった。
そしてその始末は、自殺という形で終わらせてしまった。
父からの暴力は辛かったが、父だって被害者だ。
愛する妻が出ていったあの日から、すべてが狂いだしてしまった。
そんな状況の中、よく子ども2人を育て生き抜いたと思う。
では母が悪の根源かと言われると、それも難しい。
父との結婚前から、母は不倫相手である男と恋仲だったと聞いた。しかし親の言いつけで泣く泣く、父との結婚を決めたのだという。
母にとって父、兄、俺は、自分が思い描く最上の幸せとはなり得なかったのだろう。
その母の不倫相手である男の、息子はどうか。
兄のいじめの、加害者。兄に刺された、被害者。
仲睦まじい家族だったようだが、突然父親が同級生の母親と不倫し家族を捨て出ていってしまった。
彼にとっても、全てが狂い始めるきっかけとなった。
しかし恨むべき父にも不倫相手の女にも手は出せないので、不倫相手の息子を傷つけることで気持ちを発散させていた。
俺は、その全てを傍観していた。
関係あるのに、自分には関係ない、どうにもできないと口をつぐんでいた。
俺が、もっと兄や父の苦しみを聞いてあげられれば。
少しは、なにか、変わったんだろうか。
悔いても、日々は戻らない。
残された時間、ただ前を向いて歩くだけ。
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