10 そして、ゆるしあう。
それから数秒たち、徐々に気持ちが落ち着いた頃に、同時に恥ずかしさが沸きあがってきた。
智希の方からそっと、身体を離す。
「……ありがとう。恥ずかしくなってきた」
「ふふっ、いつもの智希になった」
「ごめん。でも……救われた。もう、大丈夫」
光莉は向かい合ったまま、智希の頭をもう一度撫でた。
智希もおずおずと顔を上げる。
月明かりに浮かぶ智希の表情を見て、安心した様子で光莉は笑った。
「……フェアにしたいから、私も話す」
「えっ……?お、おう」
「話すのにエネルギーいるから、なんか美味しいスイーツ作って」
「ぷ、プリンでいい……?」
「最っ高」
光莉は親指をぐっと立てた。
話の展開は読めなかったが、光莉に言われるがまま『生成』でプリンを作る。
「うっっっっまぁ~~!!!」と声をあげる光莉に、さっき教科書でレシピを見ておいて良かったと心の中で思う。
「……よし」
プリンを食べ終え、光莉も覚悟を決めた様子で座り直した。
「あのね、結論から言うと…私も、もう元の世界には戻りたくないの」
「…それはなんとなくわかってたけど…なんで?」
イカダの上で向かい合ったまま、光莉は淡々と話し始める。
「私は、いわゆる宗教2世。
姉が生後間もなく亡くなって、それをきっかけに両親が宗教にハマった。
献金したり、集会に行ったり、変な儀式やお祈りをしたり、高い水やらなんやら買ったり……
でも私は生まれてからずっとその環境にいたから、それが普通なんだって思って生きてきた」
『光莉』という名前すらも、教団の教祖から名付けられたもの。
小学校以外は教団や家庭での生活が全てだったので、今となっては思う《おかしなこと》も、おかしいと思わず育ってきた。
「中学に上がる前くらいに、うちってオカシイんだって気付いて、同級生とかにもバカにされて…それから私は集会とかに参加するのを辞めた。
でもその頃には献金のせいでどんどん貧乏になっていって……
親は、信仰心を失った私は悪魔の子だ、悪魔のためにはお金は使えない、高校にも行かせないってなって」
献金をすれば幸せになれる、教えを信じれば幸せになれる。
そう言い聞かされて毎日お祈りを行っていた光莉だったが、同級生と違って自分はお小遣いもなく新しい服も買ってもらえない。
食べるものさえも我慢して、好きなピアノ教室すら辞めさせられて、幸せだと思うことなどひとつもなかった。
「その頃には自暴自棄で荒れてたけど、中学の先生たちが度々両親を説得してくれて…
合唱部の先生なんて、高校入学のためのお金まで貸してくれて。
お陰で無事、高校に入れたの」
今の自分があるのは、中学の教師のお陰だった。
ピアノを弾く場を失った光莉に、音楽室のピアノを弾かせてくれた。
そして光莉が高校に行けるよう、中学卒業後には養育費すら返還させようとしていた両親を説得してくれた先生。
そういう人が傍にいてくれたからこそ、生きてこられた。
「高校卒業したら、家を出て親も捨てて身元隠して生きていくって決めてた。
先生に借りたお金も全額返済したし、もうね、私は元の世界に思い残すことはひとつもないの」
元々、高校を卒業したらこれまで生きてきた全てを捨てるつもりだった。
繋がっていれば、両親は必ず光莉の総てを奪っていくとわかっていたから。
お金も、将来も、人生さえも。
いつも逃げ場を探していたからこそ、光莉にとってこの世界に来られたことは幸運以外の何物でもなかった。
「むしろ…元の世界でできなかったこととか我慢してきたことができて、今は毎日幸せ。
買い物したりご飯に行ったり、そういう普通のことができるのが嬉しい」
「……だから光莉は、元の世界にいる時より楽しそうなのか…?」
「うん、毎日解放感に満ち溢れてる!」
智希がなんとなく感じていた、光莉の変化。
高校やバイトで関わる光莉よりも、こちらに来てからの光莉の方が生き生きと楽しそうにしていると感じていた。
「特にね、美味しいごはんが…嬉しい。
お金がなくて、食べられないことも多かったから」
深くは語らず、思い返すように光莉が言う。
だから食事のたびに、光莉は泣いていたのかもしれない。
きっとそこには安堵の気持ちもあったのだろうと思うと、智希は胸が痛くなった。
「……でもね、引くでしょ。
宗教2世って、生まれてからずっと洗脳されてるようなものだから…引かれても仕方ないなって。
たまに自分でもね、思想が歪んでるんじゃないかって不安になることがある」
いつだって光莉の根底には、劣等感があった。
普通じゃない家に育った自分。普通じゃない思想を植え付けられた自分。
ボロボロになる自尊心、育てられる劣等感。
同級生の中にいても、ダイヤの原石に交じった欠陥品の石ころのような気分だった。
「それに、両親を捨てようとしてた冷たい女だってことも……
智希に軽蔑されても仕方ないって思ってる」
だけど、隠したまま智希と関わるのは嫌だった。智希が全てを見せてくれたからこそ、余計に。
智希は全てを聞き、ふっと優しく笑う。
「……そこは、光莉がこの前ロブルアーノさんに言ってた言葉、そのまんまだな」
「え?」
「『私たちに見捨てられるようなことする方が悪い』って言ってたろ?
実際俺にとって…光莉って、良心の塊っていうか、良心の象徴って感じなんだよ」
智希の言葉を、光莉は黙って聞いている。
「その光莉が縁を切ろうとまで思うって、相当…つらい経験をさせられたんだろうから。
人の親に言うことじゃないとは思うけど…光莉に見捨てられるようなことをした親が悪い。…と俺は思う。
俺は、光莉の選んだ方を信じるよ」
光莉は俯いたまま、うるうると目に涙を溜める。
智希は目を細めて、控えめに尋ねる。
「……つらかった?」
「つらかった……!!!」
ぽろぽろと止めどなく涙が溢れてきた。
初めて人につらいと言えたことに気付いて、また涙が溢れてきた。
「つらくて、つらくて……死んでしまいたい、時も……う、あっ……あった……」
「つらかったよな。そうだよな」
親の期待に応えなくなると、親にとって光莉は邪魔で醜い存在となり、最後にはまるで存在しない物のように扱われた。
暴力や罵りさえも無くなった時、本当の意味で両親に切り捨てられたんだと感じた。
気味の悪いものを見るような同級生の目も、同情の目も。
生きる気力をじわじわと奪っていった。
もっと辛い人はいる。生きていれば楽しいこともある。
そう思うから生きていた。
きっと私は恵まれていた方だ。
合唱部という逃げ場があり、先生に恵まれ、高校にも行かせてもらえた。
それでも、一度ボロボロになった自尊心と植え付けられた劣等感は、元に戻らなかった。
「つらかったの。
つらかった、わかってほしかったけど…言えなくて、ずっと…ずっと1人だって感じてた…!」
「そっか。いま、言えて良かった。本当に良かった」
何がつらかったのか、言葉にすることさえもつらかった。
悲しい記憶、傷付いた記憶は心の底を漂っていて。
言葉にすることでもう一度傷付いてしまいそうだったから、今も心に蓋をしたままだった。
ぐしゃぐしゃになった顔を上げるのが恥ずかしくて、光莉は下を向いていた。
智希は光莉の痛ましい姿に自分の姿を重ねてしまい、光莉の頭を撫でながらも泣いてしまいそうだった。
つらいと言えない苦しみを、痛いほど知っていた。
胸が痛くて、唇を噛んだ。
「……俺もきっと歪んでるから、何が普通とかはわかんないけど。
少なくとも俺は、今の光莉にすげー助けられてる。
…それに、見習わないといけないって思うこと、いっぱいある」
「そんなの…ある?」
光莉が安心できるように、智希は涙をこらえて穏やかに言葉を紡ぐ。光莉は目をうるうるさせたまま、顔を上げる。
「いっぱいあるよ。
とにかく、優しい。考えるより先に、人を想う行動ができるのが…すごいって思うし、ありがたい。
特に、誰かを助ける時の判断力。人を助けるってことに迷いがない。
それは横で見てて…俺も見習いたいって心底思ってる」
「えー!同じこと、私も思ってるよ」
「だとしたら、光莉を見て俺が変わったんだと思う。
俺、元々そういうタイプじゃないもん」
「そう、なのかなぁ……?」
自信がなく事なかれ主義で面倒なことはスルーしがちな智希が、この世界でここまで動けるのは光莉の影響が大きい。
光莉が傍にいて、肩を並べて同じ方向を向いてくれるからこそ、智希は自信を持って前に進めるのだ。
「光莉の生い立ちとか関係なく、俺は今の光莉を尊敬してるよ。
親でも宗教でもなく、光莉はちゃんと自分で、自分の性格とか考え方を形成したんだよ」
智希が言うと、光莉はぽろぽろと涙を零した。
「う~………うえーーーん。嬉しい、ありがとうー……」
声を上げて泣く光莉を、智希は控えめに腕を回し抱き締めた。
揺れる肩を抱き、頭を撫でるうちに、徐々に光莉も落ち着いてきたようだった。
「……抱き締められるのって、照れるね」
「な。でも落ち着かない?」
「……すごく落ち着く」
智希に抱き締められたまま、光莉はくすくすと笑った。
智希の顔を見上げ、光莉が尋ねる。
「ね、逆に私の嫌いなとことか…直して欲しいとこってどんなとこ?」
「なにその質問?」
「既に変なとことか、普通じゃないとことかあるなら、早めに直したいから」
「う~ん……??」
真面目に聞いてきているようなので、智希も真剣に考える。
数秒思案したのち、結論が出る。
「…………ないなぁ」
「え、うそ」
「ないよ。好きなとこしかないから、そのまんまでいてほしい」
智希が言うと、光莉は一気に体温が上昇するのを感じる。
智希の腕の中から、よじよじと身体を動かし光莉が出てくる。
「……もう、智希はほんとずるい」
「……?
あ、俺の嫌いなとこってこと?」
「ちがうっ!いいのもう……ありがと」
「え、うん」
訳は分からないが、光莉は納得したようなので智希はそれ以上は何も言わなかった。
「私も、智希の嫌いなとこ言おうか?」
「いや、普通に傷つきそうだから聞きたくない」
「ふふっ、じゃあ好きなとこ言う?」
「……恥ずかしいからいい」
「あははっ」
いつもと変わらない空気に、2人はほっとしていた。
自分の中の一番核となる部分を晒せたこと、そしてそれを受け容れてもらえたことは、互いの信頼をより厚く強固なものにした。
他には代え難い相手ができたことで、ようやく未来が拓けたような気がした。
「でも、智希は十分すぎるくらい素敵な人だよ。私も智希のいいところしか浮かばないもん。
だから、自信を持って」
「……ありがとう」
光莉の言葉にまた、智希の心の鎖が解けていくのを感じた。
智希にとって光莉は、これまで以上にかけがえのない存在となった。
カクヨムコン8参加中です。
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