** 光莉 ー過去編①ー
私の『光莉(ひかり)』という名は、両親に与えられたものではない。
両親が信仰する教団によって、与えられた名だ。
私には2つ上の姉がいた。
生後1ヶ月もたたぬまに高熱により命を落とした。
両親は酷く嘆き、とある宗教を信仰し始めた。
宗教にのめり込むことで、両親はなんとか精神を保つことができたという。
母親は子どものできづらい身体だったが、奇跡的に再び妊娠した。
信仰のおかげだと、両親はますますのめり込んでいった。
「入信後に授かった子供は《祝福の子》です。
神がその子を慈しみ、守ってくれるでしょう」
良心は教団の教えを信じ、当然のように教団から与えられた名を娘に授けた。
教団から購入した《奇跡の水》でミルクを作り、私に与え育てた。
まさに私は、生まれながらに《教団の子》であった。
私の人生において教団の存在は全く異質なものではなく、本当に空気のように当たり前に存在するものだった。
当然のように教団の集会に参加し、教団内で友人もできた。
教団主催のコンサートでピアノを披露したこともあった。
教団の皆と旅行に行き、祈りを捧げ、それぞれの功績を称えあう。
それが普通なのだと思いながら生きていた。
両親とも裕福な家庭に生まれ育ち、父は大手企業で働いていたため幼少期はお金に困ったことはなかった。
しかし、そのお金はあっという間に教団に吸い上げられていった。
奇跡の水、奇跡の食品、祭壇、教本、パワーストーン、献金、献金、献金……教団に献金するたび、両親の教団での地位は高くなっていった。
その一方で、疑いもせず多額の献金をし続ける両親をどうすることもできず、親族は私たち家族と縁を切った。
当然のことながら、我が家はだんだん貧乏になっていった。
両親曰く、《つつましい生活》にシフトしていった。
都内のマンションから郊外のアパートに引っ越し、光熱費節約のためにテレビはなく、夜は蠟燭の灯りで過ごし、お風呂は週に2、3回しか入れなかった。
それでも両親は、教団への献金を辞めなかった。
献金をすればするほど教団の中では称えられ、この先の人生が幸福に満ち溢れると信じているからだ。
両親は、それを誇りに思っていた。
毎日の食事は母が仕事先から持ち帰る廃棄の弁当だったが、奇跡の水の購入は欠かさなかった。
その矛盾に誰も、気付かなかった。
教団の教えは様々だったが、一貫して教えられていたのは《私たちは教団を信仰しているから幸せであり、信仰のない者は不幸に生きている》ということだった。
つまり、万が一にも信仰を失えば不幸が待っている、悪魔に心臓を売り渡すのと同等だ、と本気で信じていた。
だからどんなに貧乏が辛くても、信仰心だけは失わないように、と口酸っぱく言われていた。
私がそれを《異質》と気付いたのは、3泊4日の小学校の修学旅行の時だった。
両親は私を修学旅行に行かせることを渋っていたが(当然お金もないので)、担任が説得してなんとか行かせてもらえることになった。
同じクラスに教団の子がいなかったので、教団以外の女子達とじっくり関わるのはこれが初めてだった。
クラスの女子は恐らく全員、なんの信仰心もなかった。
教団はもちろん、その他の宗教への信仰心も感じなかった。
だけど皆、幸せそうだった。
修学旅行のためにお小遣いをいくらもらったか、自慢大会が始まった。
私より少ない子は、一人もいなかった。
もらったお小遣いで、普段は買えないアクセサリーや文具を買ったり、家族へお土産を買っている子もいた。
私のお小遣いは、ほとんど食事代で消えてしまった。
(教団を信仰していない皆の方が、私より幸せそうじゃないか)
そう気付いた途端、今まで信じてきたもの、当然のようにそこにあったものが、地面からひっくり返ったような気分になった。
それからは少しずつ教団の集まりに行くのを辞め、クラスの女子と遊ぶようになった。
お小遣いのない私を嫌ったり、教団の子と知って親から遊ぶのを止められている子もいたけど、私を気遣って家に呼んでくれる子もいた。
ジリジリと自尊心が削られるのを感じていたけど、そうやってだんだん《普通》を知っていった。
両親は頭を抱えた。
娘が信仰を失ってしまう、教団にどう伝えれば良いのか、自分たちの地位はどうなるのか。
そのことで両親から暴言を吐かれ、暴力を振るわれることもあった。
そのたびに私の心は教団からも両親からも離れていったが、生きるためには両親のもとにいるしかなかった。
中学の頃、仲の良い友人ができた。
よく家に呼んでくれて、自分が持っている漫画を読ませてくれた。
お母さんも優しく、夕食をご馳走してくれることもあった。
それを知った両親が、友人の親に電話をした。
「教育の方針が違うので娘に関わらないでほしい」と。
申し訳なさそうに話す友人の姿に、情けなさと、悲しさと、色んな感情が入り混じり、私はその時初めて両親のことで泣いた。
何が辛かったのか、未だにうまく言葉にはできないが、こんなに優しい友人と友人のお母さんに迷惑をかけてしまったことが、心底苦しかった。
それから私は、要領よく生きることを覚えた。
人と関わりすぎず、両親が口を出す口実を与えないように生きることを心掛けた。
元々人との関わりが嫌いだったわけじゃないから、私1人だけガチャガチャの透明カプセルに包まれたまま生きているような、周囲から隔絶された生き方をするのは苦しかった。
心無い噂話に苦しむこともあった。
一度も話したことのないような子に、「朝倉さんちって宗教一家なんでしょ。なんか気持ち悪い」と言われたこともあった。
黙ってやり過ごすこともあれば、きちんと「自分は違う」と否定することもあった。
両親にばれないように、絶縁した親族にも連絡をとっていた。
親族として私の状況にある程度の責任を感じるのか、それでも関わりたくないという思いからか、「お金に困ったらこっそりおいで」と私にお小遣いを渡してくれた。
もらったお金で遊べるようになると、だんだん友達も増えてきた。
私は少しずつ、《教団の子》ではない自分を手に入れている気分だった。
私の逃げ場のひとつが、ピアノだった。
裕福な頃はピアノ教室に通っていたが、献金が増えるにつれ教室に行けなくなり、いつの間にか家にあったピアノは売りに出されてしまった。
それでもピアノが弾きたくて、しょっちゅう音楽室に出入りしていた。
それなりに技術もあったので、合唱部の先生から「合唱の伴奏してくれるならいつ弾きにきてもいいよ」と言ってもらった。
私は毎日、音楽室に入り浸った。
「朝倉さんは、おうちが嫌いなの?」
閉校時間ギリギリまで音楽室にいる私に、先生が聞いてきた。
「嫌い」
それだけ、答えた。
先生は、そっか…と小さく零した。
「先生に、できることがあったら言ってね」
先生は優しかったけど、きっと先生には何もできないだろうな、と思った。
根拠はなかったけど、今の私のこの状況を救える人がいるとは思えなかった。
ただただ、時間が過ぎるのを待つしかないと、思っていた。
当然両親は合唱部の伴奏を行うことにも反対し、学校に乗り込んできた。
…が、どうやったのかは知らないが、合唱部の先生がそれを跳ねのけてくれたらしい。先生意外とやるじゃん、と思った。
正式に入部が許されたおかげで、私は合唱部という居場所を手に入れた。
合唱部の部員は10人くらいしかいなかったので、夏が近づくと他の部からヘルプ要員を20人近くかき集めるのが通例となっていた。
夏の大会に向け30人近い生徒が毎日集まり、ひとつの作品を完成に近づけていくその空間が、私に少しずつ《普通》を与えてくれた。
私が完全に信仰心を失ったことで両親は更に躍起になって献金を行い、借金をし、絶縁状態だった親族にまで金を借りようとする始末だった。
高校にも行かせない、働いて自立しなさい、と言われてしまった。
高校に行けないと思ったら、中学に通うのも馬鹿らしくなった。
不良メンバーとつるみ、学校をサボるようになった。
伴奏者が休むと迷惑がかかるから、合唱部にだけは毎日通った。
「授業サボって部活だけ出るなんて許されん!」と生徒指導の先生は怒ったが、合唱部の先生がなんとか説得し「朝倉さんが来てくれないと困るから」と言ってくれた。
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