第二十六話「祭りの後で」
「ふああああ~」
「めずらしく、眠そうですね。先輩」
オーディションも終わり、休み明けの怒涛の平日を乗り越えた花の金曜日の夕方。
夕方勤務中に口を開いただけで注意してくる、憎たらしい声が耳に入ってきた。
「あくび=眠い、とは限らないだろ。それに今のはお前のあくびが移っただけだ」
「恋美、あくびなんかしてないっすよ。人のせいにしないでくださーい」
「じゃあ、恋美が使ってる目薬貸してくれ。眠くないけどそれでチャラにしてやる」
「最初から、そう素直に言えばいいのに」
「違う。恋美が入ってきてから瞼を開くのが格段に重くなった。だから、責任取れ」
「はいはい……ってちょっと」
恋美のポケットから差し出された目薬を翔は半強引的に奪うと、例のごとく顔を天井に向けて、両目から液体が溢れる寸前まで差し込む。
「今度は自分で買ってくださいよー。先輩が使うとすぐなくなるんすよ」
「後輩は先輩のために役に立つことをするべきだろ。目薬が一滴かそこらなくなったくらいでグチグチ言うなよ」
「だから、先輩の場合は一滴どころかその十倍は持ってかれるんすって」
「眠いのは仕方ないだろ。今週は特に忙しかったんだから」
「今週は特に何にもなかったっすよね?」
「いや、あっただろ。えーと……」
「エーデルサイド主催のボーカルオーディションとかっすかね」
「それは先週な。あ、クラス対抗アイス早食い競争とか」
「あー、先輩出てましたね。やっぱり本物は抜擢されちゃうんすね~」
「本物って言い方やめろ。僕だって、出たくて出たわけじゃないんだよ」
昼休みに突然クラス長に中庭に呼ばれたと思ったら、テーブルにずらりと並べられたアイスを全部食えって言われるんだもん。しかも、スティック棒のアイスならともかく、カップのアイスまで丸ごと食わされるなんて思ってもいなかった。
「生徒会もよくやりますよね~」
「ああいうくだらない企画考えるのが今期の生徒会の悪いところだよ」
前期の生徒会のクラス対抗カブトムシ大会よりはマシかもしれないが。
「文句たらたらな先輩っすけど、順位は下から数えた方が早かったっすね」
「食堂で激辛チゲ鍋ラーメン食った直後だったから、コンディションが悪かったんだよ」
「ああ、どおりで唇がたらこみたいに腫れぼったかったわけっすね」
「そういうこと。だから、翌日に貼り紙で三年五組惨敗って写真付きで新聞部に書かれる所以はないのー」
新聞部の野郎、僕が神坂美成子の布教を行っている時から目をつけやがって……。
というか新聞部っているか? 今一度、新聞部の存在価値を問いたいところだよ。
「にしても、それが今日の睡眠不足の理由にはならないっすよね」
「頭がキンキンに冷えたおかげで、五時間目は保健室でぐったり寝込んでたけど」
「会場もキンキンに冷えてたっすよね」
「会場が冷えることはないだろ。中庭だし」
「炎上の裏で神坂美成子はあれから一度も学校に姿を現さず、愛梨先輩と話してる様子もない。現状でなにか恋美に言い訳があるなら訊いてあげてもいいっすけどネ」
「お前、新聞部に入ったらどうだ。向いてるぞたぶん」
「断固拒否っす」
あーあ。全部ぶちまけてくれて助かるよ。
学校では狡猾な性格に蓋をするように猫を被って持て囃されて、将来のことなんて漠然としか考えてなさそうな脳無し娘にどうして、こうも鋭く本質を見抜かれるのだろう……
などと思いつつ、情報を漏らすわけにもいかないので否定の姿勢に入る。
「神坂美成子は仕事の後始末だろ。それに一般人が入る隙間はない」
「ボーカルオーディションっすよね。あれは酷かったっすね。ネットは大荒れでしたよ」
「会場は大盛り上がりだったよ」
「嘘っすね。恋美は配信をリアルタイムで見てたんで知ってるんすよ。一人、また一人と落とされていくたびに沈んでいく、あの地獄みたいな会場の雰囲気を」
翔の逆張りをもろともせずに恋美は自我を持って言葉を吐いた。
「配信、見てたのか」
「はい。先輩からの連絡が来たので仕方なくっすけど」
「僕、連絡してたっけか」
「してました。『この後、神坂美成子が半年ぶりに出るから見ろ』と期待の口調で」
ああ、身近な知り合いほぼ全員には、そんなようなメッセージは送ったな。
「どうだったよ?」
「さっき言った通りです。あんなことするなら、恋美の休日を返してほしいっす」
「まるで、応援していたチームが命運を賭けた大事な試合で、自陣にオウンゴールしたときみたいな批判ようだな」
「恋美はたとえ仕事でも、あの場にいたくないと心の底から思いましたけど」
「ご丁寧に感想どうも。それは運営に伝えてな」
「もう伝えました。恋美の休日を返してくださいって」
「うわ、迷惑な奴」
だいたいエーデルサイドへの問い合わせって電話対応しかなかったよな、確か。
「四度目から着信拒否設定にされたっす」
「そりゃそうなるだろ」
やっぱ何回も電話したのか……無料配信だというのにとんでもないクレーマーだ。
「で、結局のところ、恋美は何が言いたいんだ」
開き直って翔は恋美のことをじっと見つめた。
時間を無駄にされて文句を言いたげな不満顔。
だけど、僕が真摯に向き合おうとすると、やっぱり目線を合わせてくれなくなる。
「……これは冗談っすけど」
「ああ」
「恋美は先輩が思っているよりも、先輩のことを信頼してるっす」
「突然の告白どうも」
「だから、彼女が、人の努力を嘲笑うような冷たい人間だとは思わなかったです」
「それは……」
恋美にしては軽くない一言一言に、沸々と脳内に湧き出てくるやるせない言い訳。
けれど、恋美の顔を見たら、否定する気には到底なれなかった。
「もういいだろ。そんなに言わなくても」
苦い顔をする翔を予想していなかったのか、恋美は狼狽しながらも口を閉じない。
「愛梨先輩はどうするんすか? 神坂美成子の影武者なんすよね?」
「状況が状況だから、愛梨にはこのままの関係性でいてほしいと僕が頼んだ」
「それで済むとは恋美は思わないっす。炎上が火種となって特定されることも……」
「だから、僕と愛梨は距離を置くべきだろ。それが今できる最善の選択だ」
「…………そっすか」
幸い、まだ愛梨に実害は出ていない……はず。
ネットに埋もれているあやふやで不確定な情報でも、胃もたれする程の執念を持った人間が世の中にはいることを忘れてはならない。狂気じみた愛と宣う犯罪者がいることを。
「これで話は終いな。ほら、客も湧いてきた」
「先輩は、それでいいんすか」
それでいい……か。
「上手くやってくよ。今度は失敗しないように」
翔は前向きに、だけど、投げやりにそう言ってその場から立ち去った。
「先輩は……」
恋美が最後に発した言葉には耳も傾けず、仕事に戻った。
※ ※ ※
翌日。
翔は土日休みをめずらしくもらったので、ゆっくりと部屋で休日を過ごしていた。
ゆっくり過ごすといっても、翔の場合は本当にベッドで横になって、次第に意識が遠のいていき、ゆっくりと昼寝をしているのがオチだ。
だが、これが幸福感とその後に来る罪悪感で押しつぶされて、もうたまらん。
だからといって、休日に家で息子がゴロゴロしているだけなのに掃除をしろだの、洗濯回してだの、昼飯を作ってだの、母に家事を任せられる謂れはないのだが……。
「今日は来ないな……」
そろそろ昼飯をせがまれてもおかしくない正午になっても、部屋の扉一枚挟んだリビングからは物音もせず、呼び出しを食らうこともなかった。
これはおかしい。母はキビキビとした几帳面な性格で暇な時間が少しでもあると、腕のあちこちが痒くなってしまうくらいに重症者だったはず……。
不審そうにリビングに向かうと思った通り無人。だが、机の上には張り紙が置かれていた。
『暇なら夕方五時に駅まで来てください』
「はっ? 暇じゃないし」
思わず、普段母に使う反抗的な言葉を反射的に誰もいないリビングで言い放つ。
土日はいつもバイトばかりでロクに休めないんだ。たまには休んでもいいだろ。
そういう気概で翔は自室に戻ろうとすると、張り紙の下から、こっそりと覗かせたもう一枚のメモ用紙を見つける。
『アラーム』
翔はハッとして、慌てて自室の目覚まし時計を確認しに行く。
ベッドに乗り込み、棚に置いてあった目覚まし時計の裏側を手探りで確認する。
スイッチのボタンは……左側。
つまり、目覚まし時計のアラーム設定がそもそも『オフ』になっていた。
「やらかした……」
アラーム設定がオフだったということは、すなわち、昼の一時に設定していたアラーム用短針は意味を為さないことになる。母はこの事実を確実に知っているだろう。
「いつまで家にいたのかは知らないけど、言い訳は厳しい……か」
バレてしまっては断り様がない。
『どこに集合?』
翔はケータイが不慣れな母に電話ではなく、メールを送り付けた。
時代遅れな母を怒らせるとシャレにならないことを、息子は知っていた。
「夕食抜きとか言われたらたまったもんじゃないからな」
着いて早々、風刺することもなく皮肉を言ってみたら、母からは軽口を叩かれた。
母に連れられて、やって来たのはいつものスーパー。
こんなことだろうと思った。母の饒舌な舌によると、今日は米がお得な日らしい。
つまり、僕はその米を持つ荷物係というわけだ。
「僕、さきにレジで待ってるから。早く買ってきてよ」
母が特大セールなんて言葉が大好物なことを僕は知っている。貧乏性っていうんだろうか。そこは似なくてよかった。だから、僕は連れ回される前にそう言って、母と別れた。人の少ない場所に行きたくて、母と別れた。
母と買い物に来たのは久しぶりだったが、それほど懐かしいとは感じなかった。
なんせ、数年前は毎日のように塾帰りに今日みたいな待ち合わせをして……
「え、神坂美成子ってここら辺に住んでるの?」
「しっ。ここだけの話ね。目撃情報があるみたいだよ」
路上ライブをする彼女と出逢ったのも、その帰り道だった。
『わるい。ちょっとトイレ行ってる』
って、送ってみたはいいものの、メールは見方が分からないからダメなんだっけか。でも、大便器の中で電話ってのも……
「なあ、さっきの話。訊いたか?」
「ああ、小耳に挟んだくらいだけどな」
「あれが本当なら、俺、今度会ったら文句言っとくよ」
「おいおい、やめとけって。俺は会ったら、あわよくばも考えてるけどな」
「お前、最低だな」
あの時は、ほんっと、苦しくて。
何のためにベッドから起き上がればいいのか、それすらも分からなかった。
きっかけは、大したことない些細な人間関係のもつれだったと思う。
分からないけど。
多感な時期だから、なんて先生は誤魔化したけど、それだけじゃなかったと思う。
分からないけど。
道草を食って、暇つぶしをして、不良のフリをした。それが不良なのかどうかは、
分からないけど。
だけど。
音楽に疎い僕でも、彼女の歌に魅了されたってことだけは分かったんだよ。
『ごめん。僕、さきに帰ってる』
着信……ケータイのバイブレーションが胸ポケットの中でブルブルと振動した。
着メロなんてケータイを買ったときから、一度も変えたことはない。
課金なんてしたのもあれが初めてだ。彼女に金が行くんならなんでもいいけどさ。
「さっき便所で訊いちゃったんだけどさ……」
「嘘、マジ? アタシこの前まではファンだったんだよね」
「俺も。でもさ、この前のはさすがにないよな。そういうキャラづくりしてんのか知らないけど」
「キャラづくり? ウケる。金に目がくらんでんじゃん」
いいや、流してやろうかな。
たぶん、間違ったことはしてないだろうし……
この街が彼女を嫌うなら、僕は彼女を産んだこの街を嫌うよ。
「なんでも、男ができてから変わったらしいよ」
翔の足は、途端に止まる。
「男?」
「高校の同級生。画像も上がってる、ほら」
「嘘、マジじゃん。うわー、しらけるわ……」
「ほんとにな。たぶん、欲が満たされちまったんだろうよ」
「それって、まさか……」
「ああ、そういうことに思っていいだろうよ」
ああ、そうかもしれない。
こういうミーハーでニワカな人間が、世間を悪く盛り上げているのかもしれない。
「お前ら、いい加減にしないと――」
翔が、貯め込んでいた苛立ちを爆発させる寸前。
何者かのケータイから、1分21秒あたりの『リトルロックドリーム』が会話を遮るくらいの大音量かつ、耳元で流れ始めた。
爆音ケータイの持ち主は胸の感触から瞬時に自分のものだと気付いた。音量はなにかの拍子でMAXになっていたとしても、設定は端末側面にあるボタンでバイブレーションにしていたはず。慌てて胸ポケットに手を当てるもやはり、もぬけの殻。
肩から伸びてきた後ろにいる何者かの手によって、翔のケータイは捕まっていた。
「ちょっと、返してくださ……」
「いくら好きだからって、公衆の面前で恥ずかしげもなく、大音量で流すなよー」
つまむように持たれたケータイは、溢れ出るノイズ(音楽)と共にパッと地面に落下していき、翔はかろうじて地面に落ちる前にキャッチをした。
「落ちちゃえば、よかったのに」
余裕げで鼻につく感じの聞き覚えのある声。翔は膝をつきながらも、後ろにいる人間を明確に睨んだ。
憎たらしく、呪われてしまえと願うくらいにガンをつけて。
「ふん。自分は嫌いだから、流すなら、せめてベッドの中でな。少年」
オレンジ色のサングラスから眉を生意気そうに歪め、くしゃくしゃに笑みを浮かべるその人とは。
空気を読むことを知らない、スカウトマンの綾沖浩司という男だった。
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