第十三話「過去と現在」


 外の換気扇からスパイスの独特な香りが漂う。


「あの……穴場の飲食店をご存知なんですか?」

「ここのカレー、スパイスが効いてて美味いんすよ」


 どこか表情も言動も固い神坂美成子を連れてきた場所は、ひとけの少ない路地裏に位置するインド人が経営するインドカレー屋。

 だが、店内に入ると、そんな彼女の表情にも陽が灯る。


 薄暗いオレンジ色の灯りに、雰囲気作りのそれっぽい形象文字で描かれた模様の壁、極めつけには鼻につくスパイシーな香辛料の香り……

 店の様式を理解させるには十分な材料がそこにはあった。


「イラッシャイネ。セカンドピーポー?」


 店に入るなり、オレンジ色のターバンを巻いた中年の男性店主が二人を出迎えた。


「はい。テーブル席で」

「カシコマリマシタネ。ショショお待ちを」


 店主はそう言うと、僕らを案内するわけでもなく、来店した客を入り口に置き去りにして、キッチンへと足早に戻っていった。


「大丈夫かな……。僕ら、立たされたままだけど」


 店主の日本語は片言で聞き取りづらいことこの上ないが、近隣住民の話によると


「タビールさんの発音は聞き取りづらいけど、日本語の原理は理解している」


 という話らしい。


「不思議な方、ですね」

「日本に留学してまだ時期が浅いらしいっすよ。ちなみに日本に初めて来て驚いたことは、荷物を駅に置き忘れても、スリに遭うことなく、親切に返されたことらしいです」

「物騒な世界、なんですね」

「いや、運が良かっただけだと思いますけど……」


 普通、盗まれてもおかしくない。それも人が紛れる都会なら尚更。

 そうこう言ってるうちに、店主がキッチンから顔をぴょこりと出して戻ってきた。


「ギュニクのテール、一つお持ち帰りね~」

「テールじゃなくて、テーブル!」


 やっぱり勘違いしてたらしい。

 ナイロン製のビニール袋を両手に持つ店主は悲しそうな顔をしてもう一度尋ねた。


「オゥ……。テール、イラナイ?」

「イエス。ノーセンキュー」


 翔は、両腕でバツ印を強めに主張して拒否する姿勢を示した。


「ソデスカ。じゃあ、カモニクは……?」

「ノーセンキュー! 早く案内をしてくれ」


 そんな悲しそうな上目遣いで言われても困る。

 大体どう調理しろっていうんだよ。生だろそれ。


「オー。ソーリーソーリー。コチラニどぞ」


 店主はわざとらしく頭を抱えた後に、重い腰を上げるようにやっと案内を始めた。


「わるい。前来た時はもっとスムーズだったんだがな……」

「ふふ……。面白い方、だと思います」


 クスッと微笑むと、美成子は愛想よくして、そう言った。


 翔は背筋を伸ばして、美成子と同じように愛想よく

 そうですね! でも、僕の方が面白いですよ。と謎に店主と張り合う……


「ただ、面倒なだけだろ」


 そんなふうに張り合うこともなく、翔は無愛想に答えた。




「ご馳走様でした~」


 外に出ると店内の独特な匂いから解放されたみたいに、空気が清々しく感じた。


「どうでした? ナン」

「ナンっすか? まあ……美味しかったっすよ。もちもちしてて」


 先に訊かれてしまった。それを言うのは僕の予定だったのに。


「お餅みたいでしたよね。また行きたい、と思いました」

「そっすか」


 まあ、満足してくれたのなら何よりだ。


「腹ごしらえもしたし、次はどこ行きます?」


 予定は一応立ててあるが、それとなく訊いておく。


「えーっと、そうですね……」


 彼女は思いのほか、熟考する。

 頭上までフリフリしたポニーテール姿の彼女は、熟考する。

 カレーを食べた後だというのに、何の汚れも見当たらない真っ白なワンピースを纏った可愛らしい彼女は、熟考する。


『はい。貴方が思い描く神坂美成子はもう、死にました』


 ダメだ……全然だめだ。

 顎に指をあてて悩んでいる姿ですら、僕には演技に見えてしまうようだった。


「少し、適当にぶらつきません?」


 悩んでいた彼女をリードするように、翔は提案した。


「ぶらつく?」

「はい。この街を知るにはまず中心である駅から。駅にはいろんなお店がありますから、適当かつ、気ままにぶらつくのもありかなと思ったんです」


 僕自身、駅前をぶらついたことなんて数えるほどしかないけど。


「いろんな……というと?」

「それは……まあ、着いてからのお楽しみということで」


 なんて言ってみたけど、特に思いついてるわけではない。


「…………」


 ただ。


「不満、ですか?」


 そんななんでもない提案に対して、腑に落ちない顔をして黙りこくる彼女が少しだけ、気になった。


「いえ、それでも構わないです。人混みに紛れることができるなら、それで……」

「人混み?」

「いえ、こちらの事情なので気になさらないでください」

「そうですか」


 僕には関係ないからな。


「けど、それで貴方は満足しますか……?」

「え」


 質問に質問で返した美成子はどこか不安げで、眉を困らせてこちらを見つめた。


「満足、ですか?」


 翔はその言葉を確かめるように、口にしてみる。


「はい。そこだけが不安で……」


 彼女が危惧している理由が、翔にはピンと来ていなかった。

 ハッキリと分かるのは、何度、目にしたか分からない、透明で透き通った涼しい瞳がまるで灯篭みたいに、静かに揺れていたってことくらいで。


 僕は過去の自分を辿るように、こう言うんだ。


「僕は満足しますよ。憧れの神坂美成子と二人で出かけることができるなんて、夢にまで思っていませんでしたから」


 少し前の僕なら、そう断言してた。十中八九、間違いなく。


「それなら良かったです。私もそれを望んでいましたから」

「……じゃあ、行きましょうか」


 こうして、翔は街を案内ついでにぶらつくという名目のもと、美成子の冷たくて華奢な腕を取って駅前を散策した。


 休日で家族連れやらカップルやらで人が溢れかえる駅前。

 ショッピングセンターにオシャレな服屋、ゲームセンターなんかに行ったりして、

 それはもう、最高の時間を過ごしたはずだ。


「次はどこに行かれるのです?」


 最後は、八時間コースであそこ……だよな。


「んーと、どうしよっかな……」

「次行くところは既に決まっているのでは? 歩くスピードからするに」


 その言い方だと、僕が前もって準備してたみたいじゃないか。


「勘違いしないでくださいよ。僕は街の案内ついでに適当に連れ添っただけですから。だいたい女の子とロクに出かけたこともない僕がそんな用意周到に見えます?」


 自分の口が意図しない浮ついた口調で会話を進めた。

 なんだか居心地の悪い訊き方。


 それでいて、意地が悪い。


「たしかに、用意周到という言葉には反していると、私も思います。スマホをチラチラと見たり、時間を過剰なほど気にしたりと、異性に対して失礼と思われても仕方ない振る舞いがなかったとは言えません」

「え、そんなに酷かった?」

「そして、不自然、だとも思います」

「……その心は?」

「ファンを語る人間であるならば、下心を見せてもおかしくないでしょう?」


 それは……。

 なんて、考える余地も自身に与えることは許されないと、翔は自負していた。


「僕らは、ただの同級生じゃないですか。下心もなにもないですよ」

「ただの同級生……それは、そうですね」

「はい。そうです」


 下心。

 その欲求は、決して卑しい気持ちのものだけではないことを僕は知っていた。


「けれど、仮にもし、この回答が腑に落ちていないのなら……」

「……いないのなら?」

「この後、カラオケに行きませんか? 僕、歌いたい曲があるんすよ」


 心の奥底に眠る本心だけは、欺くことはできない。


 ※ ※  ※


「いや~。ありがとうございました」

「いえ、満足したならよかったです……」


 時はちょっとだけ流れて午後八時。

 つまり、彼女にとってはちょっとだけではないかもしれないカラオケ終わりの帰り道。

 翔は視線を四方八方にばらまきながら、浮ついた口調でぶしつけに訊いた。


「どうでした? 僕のリトルロックドリームは」

「お上手、だと思いますよ」

「ほんとですか⁉」

「はい。まさか、こんな長時間になるとは思いませんでしたけど……」


 翔の熱意に押されたのか、自分の曲に飽きを覚えたのか、美成子は顔を手で覆う。


「それはそうですよ。今日の案内を一任されたのは僕ですから」


 翔はカラオケ終わりで馴染みの深い勲章ものの枯れた声で堂々と言い張る。


「自分の喉を痛めつけるのも程々にした方がいいと思いますけどね」

「一ヶ月に二回のペースなので、これくらい大丈夫ですよ」

「それでも、です。急激な喉への刺激は声帯を潰す原因にもなりますので」

「そういうことが身近であったんですか?」

「単にそういう話を聞いたことがある、というだけです」

「その人もカラオケで喉を潰してしまって?」

「詳細は知りませんが、必ずしも直接的なダメージというわけではない、と思います」

「というのは?」

「間接的……つまり精神的なダメージからくるものもあるというわけです」

「……一応、心に留めておきます」


 冗談交じりの会話のつもりが重い話になってしまった。

 まあ、僕の場合は

『六時間もの間、僕しかマイクを握ってなかった』という明確な原因があるが。


「ところで。今日、僕を誘った理由って改めて訊いてもいいですか?」

「貴方の言う通り、街案内をしてもらうためですよ」

「半分以上は僕の熱唱を聴いてるだけだったと思うんですけど」

「半分ではなく、三分の二以上だと思います」

「あー、そうでした?」


 結構、根に持ってたりするんじゃないだろうか。しかも自分の曲だし。


「気にしなくて大丈夫です。私は貴方が満足していただければそれで構わないので」


 やっぱり、根に持ってそうだ。

 今から訊くことも他人であってほしいことなんだけど。


「コンドームの件、隠して欲しいんですよね?」


 尻尾を引っ張られたみたいに美成子はキュッと立ち止まる。


「……直球で訊かれるとは思いませんでした」


 美成子は諦めるみたいに、あっさりと白状した。


「僕の前で使用宣言までしたのは、どこのどなたでしたっけ」

「あれは……その、その場のノリでつい……」

「あー、そうですか。そうですか。わかりましたよ」


 翔は両手で耳を塞ぐ素振りをしながら、会話をさっさと進めようとする。


 その場のノリでつい……ね。

 そんな軽い言葉、僕は聞きたくなかったよ。


「無口で無愛想、今日は最悪なデートをしている気分でしたよ」


 翔は燻る苛立ちに任せて、そのままの感想を言い放った。

 それも、容赦することなく、紛れもない本音を。


「……満足していただけなかった、と?」

「はい。満足には程遠かった」

「それは、残念です」

「なので、貴方にはまだ付き合ってもらいます」


 翔は、強引に美成子の華奢な腕を握る。


「……何処に行かれるおつもりですか?」


 掴んだ腕は、小刻みに震えていた。


「夜はまだ長いですから、歩きながらどこに行くか考えませんか?」

「……分かりました」


 美成子はまるで覚悟を決めたみたいに、重たい表情を見せた。

 そんな姿を前にして、ファンである僕は……慈悲を与えない。


「先に言っておきますけど、満足な答えを得られるまでは帰らせませんから」


 それは、たぶん、今も昔も変わらない。

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