第九話「瀬崎翔の苦悩」


 演者と観客は適度な距離感を保たなくては成立しない。


 昔の偉い人の誰かしらは、絶対そう言っているはずだ。

 同棲愛報道、結婚報告とかで幻滅する奴はファンを語る資格はないと断言できる。


 その分、僕らは運がよかった。

 本質にいち早く気づくことができたのだから。

 そんな過ちを犯した同志だった者たちに、僕は問いたい。


 本気で推しを応援したのか。

 失望という言葉、一つで片付けられるのか。

 本当に、積み重ねた想いを捨ててしまっていいのか……と。


「翔。今日お前、何時に登校した?」

「僕か? 僕は始発だな」

「始発だぁ? まさか、愛梨と一緒に夜を過ごして……」

「すまん。いま、集中してるから黙っててくれ」

「そ、そうかよ。が、がんばれなー」


 遅れて教室に入ってきた不満そうな中陳は、机の上で黙々とCDパッケージを縦に置く翔に話しかけたのち、後ずさるようにして、その場から離れていった。


「なあ、中陳……あれって」

「ああ、あいつな、時々ああやって心を清めてるんだよ。精神統一ってやつ」

「机にCDを縦に置くと、精神統一できるのか?」

「わからない。ただ集中してることは確かだから、邪魔しちゃまずそうだぜ」


 教室の隅で下の名前が思い出せない男子にコソコソと説明している友人の声が微かに聞こえてくる。

 説明感謝するよ中陳。これは、そんな単純なものじゃないけどな。


 ドミノ状に何十枚も立てられた縦置きCDの束。

 廊下側を向く、CD群の表紙を飾るジャケット写真は、僕の大好きな楽曲『リトルロックドリーム』のシングルリリース時のジャケットのみが並べられている。

 黒と赤が基調とされた衣装がなんとも映える、ロックな感じのジャケット。

 僕の一番のお気に入りで、累計所持枚数でもこの2ndシングル『リトルロックドリーム』が群を抜いて家に保管されているくらいだ。


 翔は、そんな大好きで埋め尽くされて残った最後の左隅の隙間にそーっとCDを立てると、横目でちらりと廊下側の方に視線をやった。


 これで注意を引けたら、一番手っ取り早いのだが、現実はそう甘くはない。


「なあ、中陳……あれって」

「ああ、さすがの人気だよな。神坂美成子」

「俺、朝から大変だったんだぜ……なんせ廊下に留まらず階段の方まで神坂美成子待ちの大行列からできてんだからよ」

「一週間……ずーっとこの調子だよな」

「バカ言え。転校初日は昇降口まで並んでたぞ」

「そうだったけか? まあ、なんにせよ新学期になってから、ただの学校じゃなくなったのは確かだよな」


 簡単に言えば、学校ではなくファン交流会の会場とでも言った方が早いだろう。

 男女構わず、全校生徒が僕らのクラスに毎日押し寄せてきていた。

 教室の窓や扉から一人一人が顔を出して、一目そのお顔を拝もうとしたり。

 サインや握手を求めて、長蛇の列を組んだり。

 学校は一種の祭り状態だ。生徒たちの社会的常識は麻痺しているといっていい。


 ファンとしては、神坂美成子の影響力に改めて誇りと自信を確信したのだが、これが毎日続くとなると、自慢げにうんうんと頷いているわけにもいかない。


 現に、神坂美成子がファンサービスを欠かさない人情味のある人間なために、恋美の考えた作戦とは別の、僕の考えた『僕って、実はあなたの結構コアなファンなんですよ~』あわよくば作戦が失敗に終わろうとしているのも事実だ。


 そのくらい、神坂美成子の転校は、僕ら一般人にとっては大きな出来事で。

 だからこそ、本人がこの状況を望んでいたのか、僕には理解しかねるのだ。


 え、ちなみに具体的な作戦内容は? って?

 そんなもの、クラスメイトの男子があるCDを大量に並べていて、そのCDがもし自分の曲だったら嬉しくなって、かなりの確率で話しかけてくれるはずだろ?


 その、唯一の失敗例が、『ファンサに夢中で気付かない』ということだったのだ。


 著名人にたかるニワカ共め。ちゃんとCDは買ったんだろうな……。


 なんでも、彼女のトレードマークであった黒髪ロングの女子生徒なら、だれでも神坂美成子だと思う輩もいるらしく、間違えられる生徒が少なからずいるらしい。

 もちろん噂程度の話だが、勘違いされる側はたまったもんじゃないだろう。


 勝手に期待させて、勝手にガッカリされる一部始終を目の当たりにするのだから。

 もし、そんな奴が本当にいるんだったら、僕が成敗してやる。


「なあ、中陳……俺たちって」

「同じクラスメイト、それだけでも誇りに思おうぜ」

「そ、そうだな。少し残念だけど廊下に並ぶ奴よりか心なしか上に思えるよ」

「あわよくば、お近づきになろうだなんて思わない方がいい。なんせ、彼女は――」


 高嶺の花……ってか。

 中陳の言うことに間違いはないな。


『一つに便乗作戦。定番は念のためでもやっておくべきっすよね』


 やっぱ、あいつの作戦、一つ目から無理そうだな……。

 愛垣恋美から言い渡された作戦は、三つあった。


『便乗つったって、僕は何をすれば……』

『クラスの流れに便乗するんすよ。ほら、転校初日のことを思い出してください』

『あの時はたしか、みんながみんな神坂美成子の席に張り付いていて……』

『賑わっていたことでしょうね。その言い分だと先輩はその盛り上がりに参加できなかったみたいっすけど』

『その日は硬直が解けなくて動けなかったんだよ。僕も身体さえ動いていれば……』

『石化でもされたんすか? それか寝てる間にセメントを靴の裏に塗りたくられたか』

『致死量の衝撃を一度に浴びると一定時間は意識が飛ぶだろ? よく使われる『床になった』と同じで、僕も『石になった』のかもしれないな……うんうん』

『頷いてるところ悪いすけど、先輩がさっきからなに言ってんのか全然わかんねーし、その言葉は流行らいないと思うっすよ』

『そうか? 推しへの意識が高いほどになりやすく、忠義を貫くが固いことを疎通なく、証明できると思ったんだけどなぁ……ホホホ』


 ・・・。


『まだ便乗できるのであれば便乗し得っすよ。きっかけはどうあれ、関係値が虚無ってるよりかは、はるかにマシっすから』

『関わりは、無理矢理にでも作れってか……』


 ゼロからはなにも生み出すことはできない。恋美の割にはまともな意見だ。


 だけど。嫌われてしまったら? マイナスになってしまったら……。

 ファンとしては、それが一番恐れていることなんだ。


『じゃ、じゃあ……もし、そのきっかけで躓いてしまったら?』


 翔はどこか弱気な様相で後輩に尋ねた。


『一歩進むか、一歩躓くかの違い。臆病な先輩はそう思っているわけっすね?』

『憧れの人に嫌われたくない。けど、ただの観衆でいるわけにはいかないんだ……』

『……ぷっ。もう答え出てるじゃないすか』


 恋美は燻る笑いを堪えるみたいに、微かに微笑んだ。


『僕、なにかおかしなこと言ったか?』

『言いましたよ。それも人前で』


 そう言うと、恋美は何かを思い出したみたいに、不意に椅子から立ち上がる。


『……?』


 恋美はまっすぐに視線を変えずに立ち止まったまま、一歩踏み込んだ。


 左足は前。

 右足は留まったまま。


 それが何を指し示すのか、不甲斐ない、意図が読み取れない空気がしばらく続くと、出題者は我慢ならなくなったのか、眉と顎を上げてこう告げた。


『正解は、一歩踏み出すか、足を動かさないかの違い。ここテストに出るっすよ』


『あ、そういうことか』

『まったく。先輩は恋美が出した船にも乗ろうとしない、恥知らずっすね』

『船? つーか、それどんなテストだよ』

『恋美主催のダメ男コンテストっす。先輩は優勝目指して頑張ってくださいね~』


 次の狙い時は、人が密集するであろう昼の購買部。

 僕には、もう足を止める理由はない――。


『つまり、足がになる前にを固く持ち、個人のを尊重するということだな』

『この回想シーン、もうカットしていいっすよ……』


 愛垣恋美の頑固さは、さながら石のように、頑丈なものだった。


 ダジャレはいいぞ、ダジャレ。スベっても場はなんとなく和むから。

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