逃亡


 目覚めから既に重たい身体を無理やり起こす。五分置きにスマホから鳴り響く陽気なメロディに苛つく。アラームなんて死んでしまえ。学校もバイトも消えてしまえ。私が疲れなきゃいけない世界なんて、滅亡してしまえ。いや、死ぬべきは私だ。きっと世界は正しく動いているのだ。適応出来ていないのは私だけだ。死のう。さっさと死んでしまおう。そうして枕を壁に叩きつけたところで、ようやく柳白君の顔が頭に浮かんで、すっと気が収まる。 

 食欲は無いけれど朝食を無理やり腹に流し込む。玄関を開けた時点で、ああ無理だな、と悟る。今日の空は雲が多い。足元が晴れたり陰ったりする。スマホの画面が見づらくて、ストレスが溜まる。自宅の最寄り駅はいつも閑散としているので、好きだ。電車に乗る。揺れと周りの雑音が心地よくて、ぼんやり憂鬱で眠い。完全に椅子に身体を預け、うつらうつらとし始めた頃、電車は学校の最寄り駅に到着する。同じ制服を着た若者達は続々と電車を降りていく。友人達と楽しそうに言葉を交わしながら向かう者。独りでイヤホンをしながら俯いている者。参考書片手に勉強熱心な者。私はその光景をただぼんやりと眺め、座っている。車両には私一人だけが残され、先程まで賑わっていた車内はがらんとした涼しい空気に包まれる。しばらく停車した後やがて扉は閉まり、電車は私を乗せたまま、学校を通り過ぎていく。

 進入禁止と掠れた文字で書かれた看板が根元から折れて倒れている。足で跨いで敷地に入る。手を繋ぎながら仲良さそうに笑い合う恋人が、私の目の前を歩いている。その姿を眺める。私と先輩も、傍から見ればこんな風に見えるのかしら。他人の目を通せば、幸福そうに見えるのかしら。もしかすると、今こうして幸せそうに笑い合っている彼らだって、心境では破綻寸前だったりするんじゃないかしら。そんな事を考えて、なんだか自分が惨めになって馬鹿馬鹿しくなる。古くなり穴が空いた木のベンチに座る。日陰は寒い。もう時期、桜は散ってしまうだろう。柳白君と出会ったあの始業式の日を思い出す。思い出しかけて、もしかしたら私、いつか柳白君と離れることになっても、その後も毎年毎年桜を見る度に彼を思い出す羽目になるんじゃないかしらと思う。そうなったら最悪だ。花って呪いみたいだなと思った。「別れる男には花の名前を教えておきなさい。花は毎年咲きます」と言っていたのは、誰だっただろうか。この場合、呪いにかけられたのは私の方なんだろうか。それなら柳白君は、何を見た時に私のことを思い出すのだろう。

 風が吹いて、足首が冷える。スマホを開くが、LINEの返信は無い。心配じゃなくても、怒りでも失望でも、何でも向けてくれればいいのに、このままだんまりを決め込むつもりか。腹立たしくなって、傍に落ちていた石を拾い上げて地面に叩き付ける。割れる。空になったジュースの缶をぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に乱暴に投げ入れる。眠い。眠い。毎日どうしてこんなに気分が悪いのか。どうして私は今寒空の下一人でいるんだろう。どうしてこんなことになったんだろう。何が原因なんだろう。そうして、また昔のことを振り返る。が、特に何も思い出せない。環境や好きな人が変わる度に記憶が上書き保存されてしまって、柳白君を知る以前の出来事がまるで前世の風景のように薄らぼんやり霞んで遠く感じる。唯でさえ刹那的な気分に任せて生きているんだから、思い入れのない出来事ばかりだ。どれもこれも、昨日の晩御飯みたいにどうでもいい。何ひとつ思い出せなくて当たり前だった。

 いつまでこの地獄が続くんだろう。もう長いこと、前も後ろも分からない真っ暗闇の中を無我夢中で走っているような気分でいる。それが何年も何年も続いている。一瞬、ようやく光が射したと思ったら、また消えて、思い込みだったり見間違いだったりして、いつだって明確なことが一つもない。周りが暗くて誰の顔も分からないから、誰の手を取ることも出来ず、宙ぶらりんで自分の直感だけを頼りにここまでやってきた。まるで朝の気だるさみたいな、重くて、眠くて、いつも不安で、大嫌いで、最悪で、死にそうな気持ちが死ぬまで続くのだ。地獄だ。可愛いコート、綺麗な花、優しい恋人、手の温もり。明るい友達、美味しいケーキ、楽しいパーティーへのお誘い。そのどれもが、私を救わない。ずっと続く楽しさなんてない。気を抜けば、すぐに憂鬱がやってくる。視力が悪いから色んな思い出がぼやけている。明瞭に思い出せない。適当に返事をするから、殆どのことに覚えが無くて、何も思い出せなくて、気味が悪い。見返した写真の中の自分が、全然知らない人間に見える。誰だ。お前は誰だ。何がおかしくてそんなに笑っている。面白くもないのに笑うな。悲しくもないのに悲しむな。この嘘つき。嘘つき。嘘つきなんて最低だ。私なんて、最低だ。ああ、こんな風に毎日苛々するのはきっと睡眠不足のせいだ。睡眠不足が私を狂わせているに違いない。私が眠れないのは、誰のせいだ。学校のせいだ。お金のせいだ。労働のせいだ。そうだ、柳白君のせいだ。全ての主導権を握っているのは貴方なのに、貴方はそれを分かっていない。いつでも私の人生を左右出来るということに気づいていない。破壊するも救済するも、何もかも貴方次第なのに、貴方は何もしてくれない。

 そうして、自分の心が傲慢になっていることに気がついて、ふと思考が止まる。違う。眠れないのも、毎日がこんなに最悪なのも、なにもかも全部私のせいじゃないか。早く死ぬべきは私の方だ。急に生きている意味が分からなくなって、このまま駆け出して崖に飛び降りようかと思った。川で死ぬのも悪くない。昔から水辺は好きだ。そうだ、そうしよう、そうすべきだ。重い腰を上げて立ち上がったところで、スマホの通知音が鳴った。

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