失えない


 それでも失うことが出来ない。

 

 一人の夜が好きだ。でも、二人でいる夜も嫌いじゃない。誰かと一緒に過ごすのは煩わしい。でも最後に一人で死ぬのだけは寂しいから嫌だ。

 昔からずっと中途半端だった。特段賢い訳でもなく、かといって馬鹿にもなりきれない。一人で生きることも、誰かと生きることも出来ない。陽キャも陰キャも、どちらのことも嫌いだ。けれど、もしかすると、意外と世の中はそういう人ばかりなのかもしれない。皆どこかで上手く折り合いをつけて、グレーゾーンに溶け込んで上手くやっているんだろう。私だけ、あるいは、私によく似た見知らぬそっくりさん達だけは極端に振り切れていて、丁度いい中間で留まることが出来ずに苦しみ続けているのだろう。例えばそう、冬崎柳白くん。いつも不機嫌な彼の仏頂面が思い浮かび、自然と頬が緩んだ。私の心の安寧は今、彼によって調和がとれている。彼と出会っていなかったら、今頃私は燃やされて骨になっているか、誰にも見つけてもらえず静かに海の底に沈んでいるだろう。

 手持ち無沙汰になり、SNSを流し見る。様々な格言や人生のお説教が目につく。そのどれもが、私を救わない。コメント欄に、その投稿に感銘を受けた人間達の感謝の言葉や自分語り、もはや全く関係ない美談が並んでいる。更に下へスクロールすれば、あらゆる事に批判を飛ばしていないと気が済まないというような捻くれ者達の言葉も並ぶ。そのどちらにも共感を覚えられず、ただ馬鹿馬鹿しいなと思う。何もかもが白々しくて、興味が無くて、何故だか少し腹が立つ。自分はどのコミュニティにも混ざれない気がして、虚しい。こうして内心孤立する事には、もう抵抗すらしなくなっているけれど。

 本屋をぶらつく。人気の棚を端から端まで眺める。『マーケティング戦略』『自信の作り方』『これからの日本に必要な○○』『大丈夫!絶対元気が出る魔法のエッセイ』『モテる人の共通点』『婚活スタート入門』『自分を信じるチカラ』

 ああもう、目眩がしそうな文字列だ。様々な系統の、様々な界隈の、その数だけ存在する熱量を一身に感じて反吐が出そうになる。こんな本を手に取る人間の気が知れない。これが現在の人気書籍の一端だと言うのだから、うんざりしてしまう。これらの著者にではない。世の流行から知らぬ間に省かれている自分自身に辟易しているのだ。

 自己啓発本や政治本を無視して、気を落ち着かせるために小説の棚へ進む。ファンタジーは良い。凄惨な現実とは関係が無いし、そして何より没頭しやすい。所詮は作者の個人的な妄想でしかないから好きだ。

 幼い頃、私は小説家になりたかった。世の中で実際に起きている出来事にはまるで興味がなく、架空の物語を書くのが好きな空想癖のある子供だった。いつか自分の本が本屋に並ぶ日を思い浮かべていた。両親にさえ打ち明けたことはなかったけれど、密かな夢だった。けれど中学に入ったばかりのある日、こんな風に何気無く本屋を歩いていた時だ。棚にみっちりと敷き詰められた大量の本を遠くから眺めていた私は、突然絶望的な発想に取り憑かれてしまったのだ。仮に将来、自分が本を出版したとして、このずらりと並ぶ羅列の中に、自分の考えたタイトルがぽつんと紛れていたとしよう。一体、誰に気づいてもらえるのだろう。何人がそれを手に取るのだろう。誰の得にもならない、こんな圧倒的な個人史を、どこの誰が好きになってくれるのだろう。ふと、そんなことを考えた。浮かれた夢から目が覚めて、白けた現実が飛び込んできたような、そんな朝の絶望感によく似た昼下がりだった。その日から小説家になりたいという夢は徐々に薄れていき、やがて完全に諦めた。誰にも知られずに朽ちた夢だったけれど、書くこと自体はやめなかった。一人で生産しているだけなら別に誰の損にもならないだろうと思った。

 ただ、こうして公に堂々とタイトルを連ねている他人の作品達を眺めていると、妬ましいという気持ちが生じるのも事実である。嫉妬は醜い。誰かを妬み、羨むことは私の美学に反する。これに対抗するには、相手と同じ土俵に立つしかない。これは個人的な解釈だが、嫉妬は敵視と同義だ。自分でも叶えられるはずだ、その気になれば追い抜ける筈だと思うからこそ、悔しいという感情が生まれるのだ。それを分かっていながら、既に諦めたことだから、と割り切ったつもりで未だ割り切れず、一歩も動けずにいるのだから私は馬鹿だ。自分で自分を窮屈な状況に追い込んでいる、私のような中途半端な人間が一番愚かで見苦しい。悔やむこと自体が無駄な足掻きだ。いっそポジティブな方へ振り切れば苦しまずに済むものを、要らぬプライドが邪魔をする。たちが悪い。いつになれば、こういった自分の悲観的な面と上手く接していけるようになるんだろう。今更抗うつ薬数粒でどうにかなるような事態でないことは、薄々自分でも分かっていた。

 平日休日など関係無く、この辺一帯はいつも人で溢れ返っている。ふらふらと繁華街を歩いていると、こじんまりとした喫茶店を見かける。ここに入って時間を潰そうか、それとも家に帰ってしまおうか、とぼんやり考えていると、突然スマホに通知が入る。見ると、冬崎柳白からだった。僅かに心臓が跳ねるのを感じる。ちなみに私は彼以外からの通知音を全てオフにしている。浅い付き合いの知り合いが多すぎて、スマホから常時音が鳴っているのが煩わしいからだ。柳白からのメッセージにはこんな一言が書かれていた。

 『一週間分の食料をお願いします。お金は後で払います。』

 内容だけ見ると、なんだか遭難している人みたいだな、と少し面白くなる。ところで、いつから私は彼専用のウーバーイーツになったんだろう。まあいいか、と近くのスーパーに即座に向かった。他に行きたい場所がある訳でもない。

 それにしても、あまりにざっくりした要望だ。ちょっと横暴すぎやしないかと思う。一週間分といっても、彼がいつもどの程度食事を摂るのか知らないし、私は彼の好き嫌いにも詳しくない。強いていえば甘党だという事を知っている位だ。後で難癖をつけられても困る為、先に苦手な食べ物が無いか聞いてみることにした。電話マークをタッチし、応答を待つ。

 『─おかけになった電話番号は───』

 ……出ない。

 文章での返事はすぐに返ってくるので、寝ているわけではなさそうだ。何故なのだろう。

 もしかすると、私は試されているのだろうか。どんな物を買ってくるかで今後の付き合いを判断されたりしたらどうしよう。イタズラで一週間分のお菓子をカゴいっぱいに買って持っていったら、怒るかしら。なんてことを考えながら、とりあえず調理不要なお弁当や冷凍食品を適当に買い物カゴに入れていく。本当は手作りを食べさせたいところだけれど、いつどこで私が野垂れ死にするとも限らない。彼の両親がすぐに帰って来られない今は、長持ちしそうな調理済みの物を持っていくのが無難だろう。

 ピンク色のハートのポップが散りばめられた可愛らしい一角を見つける。それを目にして初めて、もうすぐバレンタインだという事を思い出す。

 「甘いのがいいからミルクにしようよ!」

 「でもレシピにはビターって書いてたじゃん!」

 などと言い合いながら和気あいあいと板チョコを選んでいる小学生達に紛れ、適当なチョコを取りカゴに入れる。彼にバレンタインチョコだと称して渡してみたいと思った。どんな反応をするのか、気になる。高校生にもなってそんなイベントに乗っかるなんて、馬鹿馬鹿しいですねと呆れられるだろうか。チョコが手作りでないことに文句を言ってくるだろうか。いや、そもそも彼は受け取ってくれるのだろうか。受け取ってくれたら嬉しいし、拒まれても…まあ、それはそれで嬉しいかもしれない。

 柳白の家に到着する頃には、もう夕日が沈みかけていた。彼の自宅のリビングは相変わらず薄暗く、何故電気をつけないのだろうと私はいつも不思議に思う。私が独断で選んだ食糧の数々を机に並べてみせると、彼はそれらを見るなり、有難うございますと丁寧に礼を述べ、すぐに財布を取りだした。

 「別にいいよ、最初から奢るつもりだったし。この間ご両親からの仕送り、あんまり残ってないって話してたじゃない」

 「いいえ、四の五の言わずに受け取ってください。僕はできるだけ他人に借りを作りたくないんです」

 …既に私には借りを作りまくっている気がするけれど、あえて触れないでおこう。冷たいけれど、彼のこういう入る隙を見せようとしないところが私は好きだ。正直貰わなくても困らないが、一応代金を受け取ることにした。

 「…分かったよ。そういうことなら有難く貰っておくね」

 「全部で幾らでしたか」

 「あ。レシート捨てちゃった。多分5000円くらいだったかな?」

 本当の合計は8000円とちょっとだ。

 彼は自分で買い物をしないから合計の値段なんて予測がつかないだろう。そんな風に鷹を括っていると、予想外の返答がかえってきた。

 「それ、嘘ですよね。本当はもっと高いんじゃないですか」

 「…え、なんで分かったの?」

 「なんとなく。最近君の嘘が見抜けるようになってきたんですよ」

 「………どうやって?」

 「法則性に気づいたんですよ。いつも自分が損をする方を選ぶ傾向にありますよね。やめた方がいいですよ、大抵の相手は君の優しさには気づかずに、ただ調子に乗るだけなんですから」

 彼はそう言って、1万円を手渡してきた。

 「………貰いすぎだよ」

 「配送料込みです」

 じゃあ、僕は寝るので、と部屋に戻ろうとする彼を慌てて引き留める。──正直、私は今とても狼狽えている。嘘を一発で見抜かれたこと、いつの間にか私の性質がバレていたこと、それを優しさだと都合よく勘違いしてくれていること、その全てが嬉しくて、なんだか悔しくて耐えられない。私は翻弄する側なのだから、彼が上手では困るのだ。どうにかして驚かせられないだろうかと考えを巡らせ、先程買ったチョコレートのことを思い出す。

 「ま、待って!あのね、柳白くんに渡したい物があるんだけど」

 「なんですか」

 「ほら、もうすぐバレンタインでしょ?だから渡したくて」

 「何を」

 「……チョコ」

 そう言うと、彼はわずかに驚いたような顔をしてこちらに向き直る。私は自分の鞄から先程購入した市販の完成品を取り出す。

 「……好きでもない男に軽々しく配らない方がいいんじゃないですか?そういうの」

 「何言ってるの、これが本命に決まってるじゃない」

 手作りじゃなくてごめんね、と言って手渡すと、彼はしばらく黙った後、それを丁寧に受け取った。

 彼はどんな顔をしているのだろうと、私はワクワクしながら反応を窺った。部屋が暗く、俯いているので表情が見えない。

 「…今、返事しないと駄目ですか?」

 彼は恐る恐る聞いてきた。私は、一瞬なんのことか分からなかった。けれど多分これは、この告白の返事を今すべきか、ということだろう。正直、私はこれを正式な告白という認識で渡したわけではなかったので驚いてしまった。確かに、こんな分かりやすい形で好きだと伝えたことは無かったが…今までにも告白紛いの言葉は何度も口にしてきたつもりだったので、何を今更、という感じだった。

 私が認識の違いに気づき、どうしたものかと考えているうちにも、彼は本気で返答を悩んでいるようだった。困り顔で視線を泳がせている。そうそう、この可愛い反応が見たかった! と、もはや返事などどうでもいいほどに私は大変満足してしまっていた。

 「そんな重く受け止めなくても大丈夫だよ。返事はいつでもいいから」

 「いや、でもハッキリさせておかないと、待たせるのは申し訳ないというか…有耶無耶にはしたくないので、今考えます」

 「でも私、柳白くんと恋人になりたい訳じゃないし」

 「……は?」

 「柳白くんのこと好きだけど、嫌なら強要はしたくないっていうか…別に一緒にいられるなら、お友達でも、食料配達員でも、お部屋の掃除係でも何でもいいんだよね」

 彼は驚いたような、若干不満そうな顔でこちらを見ている。

 「別に、僕は嫌だとは言ってないじゃないですか」

 「じゃあ、柳白くんは私と付き合いたいの?」

 「………」

 「今みたいに、名前のない関係のままじゃだめかな」

 「……いや…はい、そうですね。僕もその方が、助かります」

 「なんでそんな渋々な感じなの?」

 「…どうして貴女はそうやってすぐ詰めてくるんですか?」

 これは最近気づいたことだが、彼は何か答えたくないことがある時、質問を質問で返して返事を濁す癖がある。逃げ腰で可愛いと思うけど、狡いな、とも思う。つまり「はい」とも「いいえ」とも言いたくないのだろう。

 「ごめんね。柳白君、反応が可愛いからついからかいたくなっちゃうんだよ」

 「じゃあ、これもからかわれてるだけだってことですか」

 「ううん。さっきのは本気だよ」

 「…はぁ」

 私と彼の関係は、所謂利害の一致でしかない。そもそも、部屋で二人きりになったり自宅を出入りしている時点で普通の恋人と距離感はそう変わらないのだ。彼の性格上、今の立場で易々とOKするとは思えない。かといって、告白を断れば唯一の命綱である私を失う可能性がある。お互い、今はこの微妙な距離感を保ちたいところだ。柳白にとってもきっと、その方が良い筈だ。多分。

 

 「じゃあ、これからも今まで通りってことでいいかな」

 「…なんでチョコを渡された僕が振られたみたいになってるんだろう…」

 「なんで振られたと思ってるの?」

 「……別にそういうわけではないですけど」

 

 私に返事を遮られたことがとりあえず気に食わないらしい。不満そうに眉を顰めているのが可愛いけれど、ここで攻めると更に意地になって二度とハイと言わなくなるかもしれないので私は堪える。

 「じゃあ、そろそろ帰るね。ちゃんとご飯食べるんだよ」

 「わざわざすみません」

 そういえば、と思い出し尋ねてみる。

  「昼間、なんで電話出なかったの?」

 彼はしばらく黙って、それから気まずそうに呟いた。

 「………電話で、人と話すのが、苦手なんですよ。というか、すごく、嫌いです」

 彼は目を伏せる。その時、ああこの人のことが好きだな、と思った。

 私には柳白くんしかいない。やっぱり直ぐにでも欲しい。多少誘導してでも、肯定的な返事をさせるよう仕向ければよかった…と私は少しだけ後悔した。

 柳白に、かつての私が書いた本を読ませたら一体どんな反応をするのだろう。つまらない、駄作だと罵られるだろうか。それとも、どこかに共感してくれるだろうか。多分それがどんな反応でも嬉しい。身近な人間に、自分の文章を読んでほしいと思ったのは、これが初めてのことだった。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る