茶番劇
「大丈夫だよ。じゃあ行こうか。もう予約は済ませてあるから」
寒空の下、待ち合わせに一時間程遅れて登場した私に、彼は優しく微笑みかけた。私は鳥肌が立った。この場所の気温が低く、寒いからでは無い。彼の対応が世にいう「待ち合わせに遅れた彼女に対する完璧な彼氏の返答」だったからである。続けて優しさの塊のみたいな定型文台詞を繰り出しながら、彼は私の手をとり、予約してあるという店へと歩き出した。彼の対応は実にスマートで、私の遅刻などまるで無かったかのようだ。実は怒っているのでは、と僅かな期待を込め、表情を横目で伺ってみるが、その顔は平然としており私の心には更に影が差してしまった。私の価値観がおかしいのだろうか?寒い中待たされていたのだから、流石の彼でも多少の苛立ちは覚える筈だ。いっそ清々しく非難してくれた方がこちらも気が楽だというのに、こういう時彼は私を絶対に責めたりしない。心が広いのか、単純に面倒臭がっているだけなのか。確かに、怒ることは生産的ではないし疲れる。そして面倒だ。それには私も同感する。だが、この場合の彼の対応は不自然だとすら思う。人間味が無くて不気味だ。それとも、少し責めただけで、欠点を指摘しただけで、直ぐさま涙ぐむような女だと思われているのだろうか?そんなに繊細な人間に、私は見られているのだろうか?何だか無性に腹が立ってきて、下を向く。お前は同じ土俵に立っていない、罪を指摘する資格も無いと言われているみたいだ。勿論私だって、彼がそんなつもりで話を逸らしたのでは無いと分かっている。ただ、彼のこういった優等生的な優しさには既にうんざりしているのだ。この際徹底的に言ってやりたい。生ぬるい王子様対応をするな、私を徹底的に否定しろ、お前の不満を一度くらいはっきり口にしてみろ、と。無論そんなことを言うつもりは毛頭無い。それを言ったところで何が変わる訳でもない。度胸が無く、口答え出来ない、全く優しくて全くつまらない人間であることは私も同じなのだ。そもそも、遅刻した私があれこれ文句を言う資格は無い。
「好きだったよね?タイ料理」
「うん。好き」
以前の私ならもっと相手を持ち上げ、大袈裟に喜んでみせただろう。私の好みを覚えていてくれてありがとう。私の好みに合わせてくれてありがとう。そう褒め称えた筈だった。今は媚びを売るどころか、丁寧に感謝を示すことすら面倒になってしまっている。彼にその手間をかけるだけの価値を感じられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます