理解者
わたしは柳白くんのことを、まだ何も知らない。
蝉の声がけたたましく響き渡る蒸し暑い日。買ったばかりの清涼飲料水を片手に、私は日陰探して歩いていた。せめて木漏れ日程度の影でもあれば。少しでも涼しい場所を探しながら公園を歩く。アスファルトから照り返す熱気が鬱陶しい。頭から爪先まで蒸し上がってしまいそうな程暑い。今すぐ引き返して冷たく快適な部屋へ戻りたいところだが、今日はそういう訳にはいかない。冬崎柳白との約束がある。私が彼との約束を破ったことは今までに一度もない。意図的でもない限り、私は好きな人との約束は守る。ただ、彼が私との待ち合わせ場所に現れたことは一度もない。
そもそも彼は、余程の用事でもない限り家から出ない。出られないのだ。そのため、私が自ら迎えに行かなければいけない。彼からしてみれば、自分を外へ連れ出したいのならそれくらいのことはして然るべきだという考えらしい。けれど私は、その傲慢さを迷惑だとは思わない。私が一緒に出掛けたくて、無理に彼のことを連れ出しているのだから、それ相応の努力はすべきだと思う。
彼の家は質素な一戸建てだ。一人暮らしにしてはかなり広い。元々は父親と二人暮らしだったらしいのだが、彼の父は出張が多いため殆ど家には帰らない。母親は海外での音楽活動に勤しんでいるらしい。単身赴任のような状態なのだろう。母と同行することを拒否した彼は日本に残され、一人この家に住んでいる。寂しくないかと聞いてみたが、「他人が居ない方が楽だ」と冷たく返されてしまった。彼の人嫌いは身内以外に限らないらしい。
玄関はぐるりと庭に囲まれている。両親が残したであろう花がいくつか植えられているが、その殆どは枯れてしまっている。彼が植物の手入れなどを積極的にする筈がなかった。白い薔薇は萎れ、首を傾げるようにして項垂れている。アイビーの蔓は伸び、フェンスを覆い尽くしている。荒れ放題の庭を横目に、私はインターホンを鳴らす。リーンと響く音。返事は無い。私は鞄から鍵を取りだし、ガチャリと音を立てて開いた。彼が一人暮らしなのだと教えてもらったその日、「もし柳白くんがこのまま堕落した生活を続けてどこにも出掛けず、何も食べず、誰にも気付かれずに一人死んでしまったら、私は悲しくて自殺してしまう」とひたすら駄々を捏ねて入手した合鍵だ。彼は、近くに住んでいる親戚以外に頼れる知人がいない。何かあれば私がすぐに駆けつけるという口実でスペアを譲ってもらったのだ。彼は渋々といった様子だったが、私としてはいつでも彼の家に侵入出来るようになったので好都合だった。
扉を開くと、中は暗い。カーテンは締め切られており、隙間から光が漏れている。
「やしろくん、どこ~…?」
小声で呼んでみるが、返事はない。リビングを抜けて、彼の自室に入る。暗い部屋の隅に布団が不自然に丸まってるのを見つける。がしりと掴み思い切り引き剥がすと、蹲った柳白がそこに居た。
「柳白くん見つけた!おはよう!約束の時間だよ!」
「うるっさいな…早く帰ってください………」
「どうして?今日は頑張って外に出るって約束したじゃない」
「そんなものは無効です…今日の僕は駄目だ……」
顔を手で覆うようにして丸まっている。
「どうしたの?体調悪いの…?」
「いや…そういう訳ではないですが」
むくりと起き上がり、彼は私に向き直る。髪がボサボサ乱れている。完全に寝起きなのだろう。その髪を撫でて整えながら、私は聞く。
「おそと出たくないの?」
「はい」
「どうしても?」
「はい」
「私が傍に着いてても無理?」
「はい」
まだ開ききらない目で彼はコクコク頷く。多分頭がまだ回っていないのだろう。焦点が定まっていない。私は軽く溜息をついて、立ち上がった。
「じゃあ…お腹空いてない?何か作ってあげるよ」
「…食欲ないです」
「そう」
とはいっても、何も食べさせない訳にはいかない。私は台所に向かい棚を漁る。柳白は料理を全くしないのだが、時折帰ってくる彼の父親が残した食材がいくつか置いてあるはずだ。
「ねえねえ柳白くん、冷凍うどんの麺を見つけたんだけど。冷たいものなら食べられそうじゃない?どう?」
「勝手にしてください…」
彼はいつの間にか布団の中に戻ってしまっている。
「うーんと、茹で時間は3分…ざるは何処かしら」
私がガサガサと棚を漁っていると、くるまった布団から顔を出してこちらを見ている。
「あの…水を…ください…」
「ふふ、砂漠で野垂れ死にそうな人みたいになってるよ。やしろくん」
「………」
水をコップに入れ差し出すと、彼はそれを黙って受け取り一気に飲み干した。そのまま起き上がりリビングまでゆっくり歩いてくる。私は鍋にお湯を沸かした後、彼と並んでソファに腰掛ける。
「元気ないね。どうしたの?」
「僕が元気じゃないのはいつもの事ですけどね」
「まあ、それはそうだけどさ…」
「………」
彼はテレビを眺めながら、頭を抑えている。痛むのだろうか。
「ねえ…もしかして、怖い夢でも見た?」
「…………」
「ええと…どんな夢だったのか聞いても大丈夫?」
彼は私と目を合わせない。俯いたまま、静かに口を開いた。
「……昔、ピアノ教室が一緒だった女の子がいたんです」
「ピアノ教室?」
「その子が…、……」
彼は黙ってしまった。それ以上は話したくなさそうだ。彼の様子を見る限り、あまり思い出したくないような内容らしい。それよりも私は、彼が口にした『女の子』という部分が引っ掛かっていた。今この時、私よりも柳白くんの脳内を占めている女がこの世のどこかにいるというのだ。嫉妬よりも怒りに近い感情が胸の奥でふつふつと湧き上がるのを抑えながら、私は笑顔で言った。
「でも…夢は夢だもの。そんなに気にすることないわ」
「…そうですよね」
彼はそう言って口の端を上げてみせる。それが作り笑いであることは容易に分かった。私はなんだか不安になって、彼を抱き締めた。彼の体調を心配しているのではない。今、私よりもその女のことを考えているのだと思い途端に憎らしくなったのだ。
「あの……苦しいんですけど」
「あ。ごめんね、つい」
パッと身体を離すと、彼は少し照れながらそっぽを向いてしまった。その不慣れな反応を私は可愛らしいと思った。
「あ、お湯湧いてる。ちょっと行ってくるね」
「どうぞ…」
「ねえ、今日は外に行かずに家でゆっくりしようか。君もその方がいいでしょ」
「…この間した約束は、いいんですか」
「そんなのいいよ。柳白くんが一緒じゃなきゃ出かける意味もないもの」
「………そうですか」
彼はどこかほっとした様子だ。私は考えていた。夢に出てきただけであれほど彼を動揺させてしまう女。昔の事だというのに未だに引きずる程の相手。一体どんな人物なのだろう。私は彼のことを、冬崎柳白のことをまだ何も知らない。過去に何があったのか、何故登校出来なくなってしまったのか。いつも無愛想を決め込んでいるのは、何故なのか。
出掛けるはずだったその日は、ずっと家で映画を観ていた。適当に選んだ邦画をBGM代わりに垂れ流す。どれもこれも陳腐な内容と演技ばかりだが、退屈を紛らわせてくれるので私はつまらない映画をただ見ているのが好きだ。彼はソファに寝そべりながら「このシーンは流れがおかしい」「全く理屈が通っていない」などしばらく文句を言っていたが、何だかんだ最後まで観ていた。
夢の話が今朝から頭に引っかかっていた私は、彼が映画に夢中になっている隙に部屋に忍び込み、そして彼の昔のアルバムを数冊盗んだ。
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