出会い
このままでは嫌いになってしまうと思った。
また電話が鳴った。目をやる。見慣れた文字列がスマホの画面に並んでいる。簓木だ。憧れの先輩であり、大好きな恋人からの連絡。けれど私は、電話に出ない。気が付かないふりをして放置する。やがて着信音は黙り、次に通知音が連続で流れ始める。音が鬱陶しくて、私は音量をミュートにした。
正直なところ、私は先輩の事が煩わしくなっていた。毎朝毎晩連投されるメッセージ。言葉の節々にちらつくナルシスト気質。最初は少し強引な性格が好きだった。だが、結局のところ彼の正体は、私に無理に合わせようとしている自称サディストであり、誤魔化したところで素がつまらないので話にならなかった。空回る彼に私はひたすら呆れていた。その姿を滑稽だとすら思った。
それに、私がどこで何をしていようが、そんなものは私の勝手なのだ。そもそも私の行動を縛れる人間なんて、この世に一人だって居ていい筈が無い。いるとすれば、それは私自身だけだ。一体彼は何の分際で私の自由を制限しているんだろう。恋人だからといって一個人の貴重な時間を奪えるはずがないだろう。図々しいにも程がある。縛るのならそれ相応の対価を払うか、私をもっと夢中にさせて充分に満足させるべきだ。
整った顔も、毎日眺めていれば飽きる。そもそも、衝動的に結んだ関係は長続きする筈が無いのだった。
私がそうであるように、彼も私に飽きているのだろうか?だがそんな思案は今更どうでもいい。今の彼が私をどう思っていようが関係無い。既に私の方は飽きているので、どのみち私達は終わりだ。
夏。気怠い蒸し暑さ、アスファルトから照り返す熱気。白い日傘をさして、彼と色々な所へ出掛けた。私は夏が終わる頃には既に恋愛関係に飽きていたが、彼はずっと嬉しそうにしていた。花火を見た。夏祭りが終わったら別れを告げようと思っていたのに、結局言い出せなかった。
やがて冬になった。空気が冷えきって、人恋しくなる。今別れてはきっと私が寂しくなるだろうと、もう少しだけ関係を続けようと思った。次は別れよう、次こそ別れよう、と今にも切れそうな糸をだらだらと引き延ばしながら毎日を過ごしているうち、また桜の季節がやってきた。
始業式も終業式も、春休みも文化祭も音楽祭も学芸会もつまらない。たった一年で高校生活の全てに完全に飽ききってしまった私は、適当に話を合わせて作った友人達や、たいして好きでもない恋人達に囲まれながら堕落した学校生活を送っていた。
入学式だからといって張り切って早起きした自分は、とうの昔に死んでしまったようだった。式の時間から二時間遅刻して校門に現れた私は真っ直ぐ教室に向かうことなく、咲き誇る桜の木の下にただ立っていた。中庭は静かで、周りに人は誰も居ない。来たばかりだというのに気が重く退屈で、既に帰りたかった。先輩から何十件か新たに連絡がきていることに気がついたけれど、全て無視した。木の影に座り込んで、鞄を漁る。持参した飴を口に放り込み、空をぼう、と眺める。口の中でゆっくり溶ける優しい苺味が、少しだけ荒んだ心を和らげてくれる。
そうして何もせず、ただ空を眺め、十五分程経過した頃。もう帰ってしまおうかな、などと考えているところで、遠くから微かにピアノの音色が聴こえてきた。私は違和感を持った。今日は始業式なのだから、音楽の授業なんて無いはずなのに。部活動の時間はまだ始まっていないのだから、おかしい。一体誰が弾いているのだろう。どこからか聴こえてくる謎の音色に興味を惹かれ、私は辺りを散策することにした。
音色の主は、思いのほかすぐに見つかった。中庭の隅にビニールシートが敷かれており、その上にずしりと、大きなグランドピアノが置いてある。おそらく始業式に使ったものを音楽室まで移動させるため、一時的に外へ出していたのだろう。狭い廊下を圧迫させながら運ぶよりも、中庭を通過させるルートが最も簡単であり、早いからだ。
草の上、不自然にぽつりと置かれているグランドピアノは、遠くから見れば何だか孤独に見えた。楽器が寂しさを感じることはないだろうから、これは私の勝手な想像である。その孤独なピアノに向かって腰掛け、男子生徒が一人、音を奏でていた。その光景に、私は釘付けになった。音楽には詳しくないため、音の細かい善し悪しまでは分からない。だが、少年が一人、桜の木に囲まれ、演奏している姿は絵になると思った。高潔ささえ感じられた。
しばらく離れた場所で見つめていると、彼が気づいたのかハッとしてこちらを見やる。音がぴたりと止む。険しい顔で、じっとこちらを見ている。
「こんにちは」
精一杯の笑顔で私は挨拶した。返事は無い。警戒心剥き出しのその表情は、昔飼っていた猫を思い出させた。
「………誰ですか、貴女」
ようやく彼は立ち上がり、口を開いた。ピアノの前に立ったまま、鋭い視線を私に向けている。まだ警戒しているようだ。
「私は春森穂乃子。二年一組。貴方も始業式をサボったの?」
「………僕は」
言いかけて、彼は黙った。視線を逸らす。何か人に話したくない事情があるように見えた。言い出したいけど、どう言えばいいのか分からない。そんな顔をして口をもごもごさせている彼を見ていると、何だか無性に愛しい気持ちが込み上げてきた。私は自分が既に、彼のことをかなり気に入っていることに気がついた。それと同時に今この瞬間、これまで長く続いていた退屈に完全な終止符を打てるような気さえしていた。
「僕は…冬崎柳白。二年一組です」
「あれ、私と同じクラス?でも……」
彼とは初対面のはずだ。この一年間のうち、一度も見たことがない。けれど、冬崎という苗字には聞き覚えがあった。
「一年の時は居なかったよね。もしかして、転校生とか?」
「…いえ違います」
そこまで話して、ようやく思い出した。自分のクラスの名簿に、冬崎の名前があったことを。彼はずっと、同じクラスだったはずなのだ。誰も話題に上げなかったから、忘れかけていたけれど。
「…ずっと学校、来てなかったの?」
「ええ、入学式初日に事故に遭い…しばらく入院していました」
あまりに不運すぎる。私は彼のことを可哀想に思った。
「そうなんだ。だけど…無事でよかったよね」
私は笑顔で言った。何気無い労いの言葉をかけたつもりだった。だが、彼はそれを聞くなり暗い目をして俯いてしまう。しまった、と思った。彼の反応を見る限り、私は何か悪いことを言ってしまったのだと悟る。ただ、その理由が何なのかはまだ私には分からない。だが、ここは深追いすべきではないだろう。気を取り直して私は彼に向き直った。
「冬崎くんは、どうしてここでピアノを弾いていたの?」
「…教室に、入る気になれなくて。校舎の中をぶらぶら歩いていると、窓からピアノが見えたので…つい」
「それで弾いてたんだ。ピアノが好きなんだね」
「……そう、ですね」
しばらく話していて気がついた。彼は私からずっと目を逸らしている。視線が合わないのだ。まるで、人と深く関わることを避けているような。相手の感情を知るのを恐れているような、そんな瞳をしている。その不器用な態度を、私は可愛らしいと思った。
「あのね、私も冬崎君と同じで、教室に入りたくなくてさ。ずっとあの木の影に隠れてたんだ」
「桜の木ですか…」
確かにあそこなら見つからなさそうですね、と彼はぼやけた返答をする。声色に疲れが感じられる。
「大丈夫?久々の登校で疲れたんじゃない?」
「そんなわけが…まだ教室に入ってすらいないのに」
「でも、なんだか様子が…」
「…貴女が話しかけてくるから、疲れているんですよ。身内以外と話したのは久しぶりなんですから…僕は」
彼は迷惑そうな表情を作ってみせる。それを聞いて、私は合点がいった。彼がずっと挙動不審なのはそのせいだ。そもそも他人との会話に慣れていないのだろう。私は彼のことをますます気に入ってしまい、もっと深く知りたいと思った。
「ねえ、二人で学校サボっちゃおうよ。行きたくないんでしょ?」
「どうして僕まで…貴女一人で休めばいいじゃないですか」
「えー、だって私だけじゃ退屈なんだもの」
「なんですか、それ…」
それに、どうせ行けないでしょう? そう言いかけて、流石にやめた。彼がもう、教室に入る気力を失っているのは何となく察していた。顔色が悪いし、今にも逃げたそうにしている。私と少し会話しただけでこんなに疲れ果てているというのに、あんな人が多いところに一人で行けるわけがない。
「お願い、一緒に来て!二人でサボればきっと怖くないわよ」
「でも、僕は…」
「……だめ?」
「…………」
彼は大きく溜息をつき、鞄を持ち上げる。どうやら一緒に来てくれるらしい。渋々というような表情をしているが、どこかほっとした様子も伺える。
「やった!ありがとう」
「仕方ないですね…」
私が察するに、彼はそこそこプライドが高いようだ。自分の意思で欠席を決意することは出来ないだろう。このままではずっとこの中庭で立ち尽くしてしまうだろうと思った。そこで、こちらからお願いをするというスタンスに切り替えたのだが…まさか、こんな簡単に誘導に成功するとは思わなかった。
「冬崎君って可愛いね」
「はあ…?いきなり何を言い出すんです」
まずい、つい声に出してしまった、とハッとして口を抑えると彼は呆れ顔でこちらを一瞥した後、また溜め息をついた。なんで僕がこんな変な女と…とブツブツ漏らしている。
「…それで、今から何処へ行くつもりなんですか?」
「何も考えてないよ」
「は…?」
「行きたいところがある訳じゃなくて、とりあえずあの場所から逃げたかっただけだもん。ねえ、冬崎君はどこに行きたい?」
「…そんな事だろうとは思いましたけど。強いていうなら僕はもう家に帰りたいですね。疲れきってしまったので」
「でも、家に帰ったらきっと親御さんが心配するわ。どうして帰ってきたのか、詳しく理由を聞かれたりしない?」
「……………」
彼は黙ってしまった。図星だったのだろうか。
「そういえば、この間駅前の店舗で新しいドリンクが発売したって蜜柑ちゃんが言ってたっけ。ねえ、一緒に飲みに行かない?」
「………そうですね。どうせ他に行くところもないですし」
「甘いもの、好き?」
「嫌いでは無いです」
抵抗せず着いてくる辺り、結構好きなんだろうな、と思った。表情が綻んでいる。
「私、冬崎君と仲良くなりたい。まずは友達一人目ってことで、どうかな」
「いつから僕らは友達になったんですかね…」
「一緒にいけないことしたんだから、もう友達じゃない?」
「その基準はどうかと思いますが…」
私が半歩先を歩き、彼は少しだけ後ろに隠れて歩いている。すれ違う通行人が怖いのか、それとも、事故の傷がまだ完治していないのか。気になったが、尋ねるのは止めておいた。ぽつぽつとくだらない会話を繰り広げているうちに、自分が今朝の退屈とは程遠い気分に変わっていることに気がつく。先輩の存在などはとっくに忘れて、私はこの謎多き不登校少年に夢中になっていた。
灰色だった桜並木を今日、初めて美しいと思った。
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