第2話 体調不良と姉
「どうしたの?飲めるなら、飲んでいいのよ?」
レモン丸ごとジュースのパックを握りしめながら聡が俯く。
「……はい、あの……ここの匂いが強くって……出来るなら、屋上で飲みたいです……多分駄目だと思うけど」
保健室特有の消毒と薬品の匂いが聡には堪えた。教室にも独特な匂いが充満している。
「え。屋上かよ……あ、だから最近昼メシはよく屋上で食べてたのか?」
「あー、そういやあそうだな。ええ?それも姉ちゃんと同じかあ?もしかしたら教室が臭かった?」
友人たちが察するように、教室内は食べ物の香りが漂っていて聡には耐えられなかったのだ。
「……うん……実はそう」
今も早く
「神崎くん、お姉さんは出産するまでつわりが酷かったの?」
佐々山が記録日誌をめくりながら何かを探している。
「そうなんですよ。姉ちゃんは例の毎月のアレん時も酷いらしくて、月イチで吐いてましたねー」
「毎月のアレ……?」
「なんだよ、橋本にだって姉ちゃんがいるんだろ?そんくらい分かるべ?」
聡はムッとした表情になった。
「姉、って言ったって……双子だし……僕は中等部から寮生活だから……そんなの知らないよ」
佐々山の日誌をめくる手が止まった。
「ちょっと待って、橋本くん、双子のお姉さんがいるんだっけ?」
「……はい。先生、僕もうここから出てもいいですか……。ちょっと、匂いが……」
再び気持ち悪さがこみ上げて来そうな聡は、座っていたベッドから立ち上がる。ふらつきがないことを確かめて、ビニール袋に紙パックジュースを入れた。
道晃や武至は、顔を見合わせた。
「先生、まだ学校にいても大丈夫なんだよね?一応下校時間はいつもと同じだろ?それとも早め?」
寮に戻っても、退寮する生徒たちでごった返していて体を休めないと知っている二人は、少しでも聡を休ませてやりたいと思っている。
佐々山は「うーん」と考えて日誌を閉じた。
「分かった。もう生徒さんも
「勿論、行きます」
二人は自分と聡の荷物を持って、聡はジュース類の入ったビニール袋を、佐々山は日誌とその他の用具を携えて屋上へ向かった。
「ん~!久しぶりに屋上に出たわ~!凄い気持ちいいわね!空気が美味しい!」
「先生、そうでしょう?変な匂いがあまりしないんですよ、あっちよりもこっち側は特に」
聡は向かい側の移動教室専用棟の屋上を指して、佐々山からも距離を置いた。そして風上に立つ。養護教諭らしい香りからも遠ざかりたかった。
「なんか悪いわね。私までごちそうになっちゃって。後でお金を返すからね。酸っぱ……」
全員で酸味のあるジュースを仲良く飲んでいる。
「そんなのいいですよ。それより、次に保健室のお世話になるときに優しさをプラスしてもらえれば。っと、いつもよりも多めって意味で。ってホント効くわこれ。梅干しクラスだよな」
佐々山と武至はレモン百パーセントジュースを飲んでいる。武至の希望はスルーされた模様だ。
「……美味しいこれ。初めて飲んだ」
「……青臭くないか?それさ、鍋用に姉貴が間違って買って来た時は何じゃこれ、って舐めたくらいだったけど……まさかそのまま飲むヤツ二人目を見る日が来ようとは……完全ポン酢オンリーだぞ……」
レモン汁ではなくてポン酢とひとくちに呼ばれる柑橘類のみの瓶を選んだ聡は、美味しそうにごくごくと飲み干した。用意はしたが、武至はまさかこれを飲むとは思いもしなかった。
「ああ、サッパリして美味しかった!青臭くなかったよ。香りが鼻につかなかったな……ごちそうさま、武至」
「まったく姉ちゃんとシンクロしてるんだよなあ……」
「それが美味しいなんて感じるのは聡と武至姉だけだと思うが、これは普通に旨い」
道晃はグレープフルーツジュースをチョイスした。
佐々山は再び日誌に目を通すと、妙な距離を取っている聡に向き直った。
みな、屋上のフェンスまでは乗り越えずに、安全なその手前のコンクリート製の壁に一列に横並びして、もたれかかって立っている。日差しがあまり強くないのでコンクリートも熱くはなっていない。
「ねえ、橋本くん」
「……はい?」
「先生ね、ちょっと調べてみたのだけど……橋本くんが具合が悪くなって、保健室に来るようになったのが高等部に上がってから、なのよね?」
「……あれ。そうかな……そうかもしれません」
「五月あたりからじゃなかったか?」
「その辺だよ、確か」
道晃が言うと、武至が頷いた。
「そうね。保健室の利用記録を見たら、ゴールデンウィーク明けからね。そして、利用する日は長くて三日。一日だけの月もある。それがだいたい四週間おきに……」
聡は佐々山が何を言いたいのかが分からずに、ただ黙って聞いていた。
が、武至は何か気付いたようだった。
「先生、それって……まさか、だよね?」
「武至?まさか……?」
道晃も薄々感づいていた。道晃には妹がいる。
「そうなのよ。みんな保健体育でも習ったと思うけど。女の子が将来赤ちゃんを迎える準備をするようになるでしょう?大人の体の仕組みとして避けられないことなの。人によっては体調を崩したり、寝込んだりする人もいるの。先生みたいに殆ど何ともない人だっているけどね……まあ、腰や背中が重くなるくらいかな?」
佐々山は月経とも呼ばれる生理について、軽く説明を始めた。
聡はだんだん怪訝そうな顔つきになった。それと自分の体調と何の関係があるのだ?と。
「……分かった?だからね。女の子はいつでもデリケートな部分があることを頭に入れておいて欲しいな。彼女から更に奥さんになって、赤ちゃんを産むわけだからね.みんなには良いパパになって欲しいし」
「えっ?聡、お前女の子だったってこと!?」
「はあ?道、何を馬鹿なことを」
他の三名が真剣な眼差しで聡を見ている。冗談にしては笑えない。
「うーん……橋本くんがお母さんのお腹の中で双子だったけど、結果橋本くんしか生まれてこなかったら、その可能性があったかな?違うかな?先生、随分昔の勉強なんで忘れちゃった。それよりも……『双子』に引っかかるの」
聡がピクッと肩を動かした。自分でも変だと思ってはいたのだ。具合が悪くなっても数日後にはきれいさっぱり元に戻る。が、それがまた翌月にはぶり返すのだ。何かがおかしい。
「何、センセー、双子がなんかあるの?」
武至は飲み終えたゴミを回収しながら、残りを聡のバッグに勝手にしまった。マメな性格なのだ。
「ほら、よく言わないかな。遠く離れていても、双子って何か感じ取るものがある、って」
「あ、聞いたことありますねそれ。腕を負傷したら、離れて暮らしているもうひとりが同じところに痛みを感じた、とかですよね?」
道晃が聡の腕を触ると、聡は止めろ、と振り払った。
「ええ……じゃあ、僕のこれ、は?それと同じだってこと?」
姉の体調不良を自分が感じ取っていると?と考えて、聡は赤面した後で顔色が次第に青ざめる。
もしかしたら、萌波が具合が悪い時はずっとこれが続く、という話?と気付いたのだ。
「これは推測、ううん憶測に過ぎないから違うかもしれないわよ。橋本くん、その気持ち悪い他に何か症状はない?」
「他の……?そう言われると、腰から下が怠いのと、立ちくらみが少し、かな……」
武至が佐々山とアイコンタクトを取る。間違いない、と言わんばかりだ。
「……違うとは思うけど、念の為にその双子のお姉さんに今の様子を聞いてみたほうがいいみたいね……」
「え……」
「まあ、そのほうがいいと言えばそうなのよね……そうでないと、この状態が続くようなら保護者のかたにご連絡して……精密検査を受けて下さいとお願いしなくちゃならないの。本当は夏休み前にそうしたかったんだけど、今月は大丈夫だったかなー?なんて安心していたらこれ、でしょ?文書形態では間に合わないけど、ご両親にご連絡するかもしれないから、そのつもりでいてね」
「えっ、聡、実家に帰るんだっけ?」
聡は更に顔色が青ざめた。
「先生……僕は寮の工事中は家には帰らないんです。保護者代わりの人の家に泊めてもらうことになってて」
心配をかけそうな妙な連絡はされたくはない。寮生活を選んだ意味がなくなってしまう。
「えっ、あ、緊急連絡先になっているお宅のこと?」
日誌には利用者の情報が少しだけ記載されている。状況により職員室のパソコンからデータを拾って来るよりは、連絡先だけでも書いてあったほうが早くて助かるからだ。
「はい。二週間だけだと言われたので……」
「じゃあ、その保護者代わりのかたにお話出来るかな?」
聡は慌てて首を振った。
「先生、もしも……萌波、あ、あの、姉に聞いてみて、同じ体調だったら検査とか受けなくてもいいんですか?」
「マジ、聡、姉ちゃんに聞くのか?度胸あるな!」
「体のほうはいいのかよ?もし違ってたらどうする?」
「そうよ。もし、何か病気でも潜んでいたらどうするの?こんなに続いているのよ?」
……二、三日で治ってしまうけど。とは続けられない養護教諭の立場である。
「うん……その時は先生に報告する。相談します。学校に電話すればいいですか?」
「……うーん……私は当番出勤になってしまうからね。あ、じゃあ当番のスケジュールを教えるから、その日に連絡してくれる?もし、橋本くんから連絡がなかった場合は、双子のミラクル話であったことだと理解します」
そう話は落ち着いて、四名は屋上をあとにした。
聡は気が重かった。
どうやって、姉に聞き出せばいいのか。内容が内容だけに、辛かった。今の自分の体調と同じであれば、尚更神経がすり減っているはずだ。
イライラしているかもしれない。
今の自分と同様に。
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