三巻/プロローグ
sweet dreams
誰もいない広い食堂に僕は立っていた。木造りの長机、いくつも並ぶ空席、部屋の隅には小棚と花瓶。白い花は水やりを終えたばかりのようで、露が煌めいていた。
ここがどこであったか、すぐには思い出せない。ぼんやりとした頭のまま、カーテンの方へ歩み寄って、布帛の音を響かせる。開いた幕の向こうには、広々とした裏庭があった。陽だまりの中で、干された布団が風で踊っていた。どこからか、子供達の笑い声が聞こえた。
穏やかな時間が流れている。きっとはたから見れば、どこまでも穏やかな世界に、僕は立っていた。
ここが孤児院であることを想起したとき、同時に思い出す。孤独と虚しさだけが、僕の胸に居座っていることを。
「メイ」
鈴を転がすように、少女が僕を呼んだ。振り向けば、食堂の入り口に妹がいる。彼女、シャノンのオッドアイが、静かに僕を射抜いていた。
「外、行かないの? 遊ぶ時間だよ」
「……僕はいい。シャノンも、ここか部屋にいたらいい。また嫌なことを言われるよ」
唇が勝手に動く。思考が巡り、下らない悪口を思い返していた。『髪も肌も青白くて幽霊みたいだ』とシャノンを馬鹿にして、笑い合った少年達。彼らを殴ったおかげで、数刻前の僕は先生に怒られたのだ。
シャノンはそんな僕を馬鹿だと思っているのかもしれない。小さな溜息が微かに落ちて、緘黙を埋めていた。
「私は気にしてないよ。メイが気にしすぎなだけ」
「……村にいた頃は、あんなに気にしてたのに。お母さんが亡くなってからシャノン変わったよね」
お母さんが亡くなってから変わったのは、シャノンだけじゃない。僕も、自覚できるほど変わったと思う。シャノンまで失くすわけにはいかないから、些細な悪意からも彼女を守りたかった。そうすることでしか、お母さんを守れなかった僕を、許せそうになかった。
シャノンは大きな双眸を細めて、顔を逸らした。窓硝子と向き合った
お母さんが生きていた頃、いつも不安げに俯いていて、いつも泣き出しそうで、か弱かった妹。お母さんの死から数週間が経つが、彼女が伏し沈んだのはたった数日間のことだった。いつまでも罪悪感に足止めされている僕が、ひどく情けなく思えるほど、彼女は前を向いているように見えた。
遠くの空を見晴かしたまま、彼女の花唇が開いていく。
「違うよ、メイ。お母さんが亡くなったから変わったんじゃない。私は……全部メイに押し付けてたって、知ってしまったから。だから変わらなきゃって思ったんだよ」
己の顰め面が脱力していくのを、僕は感じていた。諦念じみた苦笑を象って俯伏していた。
お母さんが死んで、村人に咎められた日、シャノンは僕が犯してきた悪事を全て知った。人を殴って食料を奪ったことも、以前から窃盗をしていたことも、家族を守るために乱悪な行為を繰り返していたことも、それら全てを暴かれた。
ずっと、シャノンに軽蔑されたと思い続けていた。何も言えない僕のつむじに、慮外なほど優しい声が届く。
「メイ。私はか弱い妹のままでいたくないの。だって私達、同じ年の双子なんだよ。『お兄ちゃんだから自分が何かしなきゃ』って思うのやめてよ。私にも、背負わせてよ」
僕達は双子だ。だけど、同じ表情で向き合うこともあれば、正反対の顔をして遠ざかる日もある、別々の人間だ。それでも、心根は同じ色を宿していたのかもしれない。
まばたきをした。
床を絵取る僕の影は、僅かに青ばんだ。
長く伸びた草が
顔を上げると、目の前には花畑が広がっている。幼い頃、シャノンとよく花冠を作って遊んだ場所だ。懐かしい。けれどこんなに広かっただろうか。
果ての見えない色彩を掻き分けて、意味もなく前へと進む。蒼穹に目を凝らせば、誰かの後ろ姿が見えた。
「──シャノン?」
駆け寄った僕にシャノンが振り向く。真っ白な日輪に溶かされてしまいそうな皓白の少女。その明眸と、細腕を彩る赤い紐だけが、彼女に色を与えていた。
間隔は手を伸ばせば触れ合える程度。なのに、これ以上近付けそうにない。脚が棒になって縫い留められる。歩けない、と焦慮に駆られる僕の前で、シャノンが
「メイのせいだからね。メイが、私に何も背負わせてくれなかったから。だから私は、貴方の人生を背負っていこうと思ったの」
「何の話を……」
彼女の言葉が、胸間を穿刺する。それなのに、その声遣いは甘く柔らかい。わけがわからなくて心臓が跳ねていた。血潮がどくどくと鼓膜を打つ。凝然と立ち尽くすことしか出来ない僕に反して、彼女の腕は軽やかに持ち上がる。
赤い紐が、伸ばされた白皙にまとわりついていた。たなびく赤に、どうしてか泣き出したくなった。紐は彼女の上腕部に直接縫い付けられていて、赤く腫れた雪膚が痛ましい。
彼女の指先は僕の吐息に触れる。体温は伝わらない。薄い酸素の膜が僕達を触れ合わせない。
「私ね、助けてって、手を伸ばした時……メイが血を吐いているのを見た。私よりも、メイの方が苦しそうで、メイの身体はもたないと思った。でも私だけが助かるのは嫌だった。メイはずっと、私の為に色んなことを我慢してくれたのに、私は最後まで貴方に報いることが出来ないなんて、嫌だった」
シャノンの柔和な目笑をじっと視一視しているのに、眼界が明滅する。彼女の言葉だけを聴いているのに、誰かの悲鳴が頭蓋で反響する。震えた唇が隙間を生んだが、声を出せない。
真っ白な繊指が垂下していった。あかいオッドアイは長い睫毛に隠された。
「生きて欲しかったんだよ、メイに。メイを助けてって強く願った。私の身体なら生きていられる。だから引き込んだの。私は貴方に、あんな風に終わって欲しくなかったから」
僕もそうだ、と、叫びたかった。
今の状況を把捉できないのに、ただ一つのことだけを回想していた。
ただ一つ、僕はどうなってもいいから──僕の全てを渡すから、妹を助けてと、神に祈ったことを。
開いたままの唇が渇いていく。震えた息が溢れた。身動ぎすら出来ない僕に、シャノンが近付いた。僕が破れなかった隔たりの膜を簡単に壊して、その細腕は僕の胸倉を掴み上げる。
互いの睫毛が触れそうになる。目の前に、彼女の心火が赤々と灯る。僕の影は赤い瞳孔と溶け合っていた。そのまま吸い込まれて溺死してしまいそうなくらい、赤に縛られる。
シャノンにしては低めの声が、僕の耳朶を突き刺した。
「ねえ、メイ。このまま終わっていいの? 私の身体はそんなにヤワじゃない。まだ足掻けるでしょ。会いたい人がいるんでしょ。思い出して」
胸元を押し飛ばされて、背中が傾いていく。遠ざかった体が浮遊感を覚える。ゆるやかに倒れていく僕は、咄嗟にシャノンの紐を掴んだ。彼女の腕に縫いつけられていた紐は、すんなりと僕の手に収まった。
強風が花弁を舞い上げていた。揺らぐ紐の先に──妹はいなかった。
足元が崩れて落ちていく。このまま死ぬのか、と思った。真っ青な中空で藻掻き、水を失った魚の如く無意味に開口と閉口を繰り返す。
助けを求めて叫んだ『あの人』の名前は、甲高く響いて天心に飲み込まれていった。
「っ……」
固く瞑っていた目を開けると、自身の爪が、シーツに深い皺を刻んでいた。赤い紐は掌中になく、僕の腕に縫いつけられている。軽く引っ張れば痛みが広がって、これが現実なのだと理解する。
「……夢、か……」
自嘲が零れていた。シャノンが幻想だったことに納得した。僕はずっと、シャノンに許されたかったから。自分の理想が夢となって脳を侵したのだ。
体を起こして見回した風景は知らない内装をしていた。僕が寝ていたのは天蓋付きの広いベッドで、右手側のカーテンも豪奢な装飾が施されている。左手側に首を動かしたら、目の前にティーカップを差し出されて肩が跳ねた。
「おはよう、メイちゃん」
白い湯気が上って柑橘じみた薫香を漂わせる。アールグレイの湖面を一瞥してから男の微笑を睨めかけた。リアム・ブライトマンという偽名を持つ男は、何事もなかったかのように笑う。けれど、ひたすらに炯眼を突き刺してやれば次第にうそ笑みが崩れていく。
「オッサン」
「エドウィンじゃなくて私で済まないね」
「どういう意味だ」
「魘されてるな、と思ったら、さっきエドウィンのことを呼んでいたからさ」
ばつの悪そうな苦笑いから目を逸らした。柔らかな布団を払いのけて自身の身体を見下ろしていく。生地の薄い質素な──というよりも病衣に近い──ワンピースだけが肌を包んでいる。片膝を立ててマットレスを踏みしめ、指先の感触を確かめる。
意識を失う前、僕は固い寝台に縛り付けられて両足を切り落とされた。見知らぬ人間に囲まれて刃物を向けられるのは、妹と縫い繋がれたあの日みたいだった。
陶器の擦過音が響く。オッサンは僕が紅茶を飲まないと判断したようで、ティーカップをワゴンの上に片付けていた。退室する気はないらしく、ベッドの傍に置かれた椅子へ座り直している。
「足、痛かっただろう。私の魔法で繋げたから、もう痛みもないはずだが……どこか悪い所はあるかい?」
「……機嫌が悪い」
「……まあ、そう、だよね」
彼の小息に、僕は大げさな大息を重ねてやる。先日、彼と共にパーティへ赴いていたエドウィン達は、無事なのだろうか。二人は僕のことも、彼の身分のことも知らされていないのだろうか。
口を開けばのべつ幕なしに無数の質問を投げつけそうだった。唇を噛み締めて己の血を飲む。冷静になってから吐き捨てた槍声は、自分でも分かるくらい冷静ではなかった。
「オッサンは僕とエドウィンの敵ってことでいいんだよね。王子様なんだって? 最初から僕達を騙してた、そういうことだろクソ野郎」
「……メイちゃんの言っていることは、間違っていない。だけど私も、敵対したくはなかった」
「はぁ? エドウィンとユニスは? 二人は無事なのか」
「二人は何も知らないよ。私とメイちゃんがどこかに出かけたまま帰ってこない、そう思っているだろう」
獰猛な獣さながらの唸りが、延々と僕の口を衝いて出る。オッサンは淡々と、だけど申し訳なさそうに眉を顰めて喋り続けた。
「王族といえど、私と兄、父では、意見と目的が異なっていてね。兄と私は魔女の実験に反対している。『これ以上魔女を生まないようにする』、それが私達の目的だ」
「成功作の魔女である僕を捕らえて、解剖みたいなことをしておいて……何を言ってるんだ」
「君の言いたいことは分かる。信じられないのも分かる。だけど信じてくれ。私は君を死なせはしない。ここに留まってもらっているのも、一時的にだよ」
近付いた彼の衣香が、紅茶の幽香を忘れさせる。煙草と香水が混ざり合った、苦手な香りに
「話を戻すが、魔女を消したい我々と違って、国王は魔女を必要としているんだ。魔女を生む行為をどれだけ非難しても、『人間よりも強く利用価値があるから』と聞き入れてはくれない。だから私達は、魔女に利用価値がないことを証明しようとしている」
「……どうやって?」
「国王に納得していただけるよう、まずは君が正真正銘『成功作の魔女』であることを解剖によって明らかにし、『成功作の魔女を量産することは出来ない』と決定付ける実験結果を出す。その上で、君がただの人間と変わらない、或いは劣っていることを国王に見せつける。そうして魔女という存在に落胆させる──その為に協力して欲しいんだ。命は奪わない」
一文字に唇を結んだ彼は、僕の返事を待ち
信じられるわけがないだろ。そんな風に
思議している間、無意識下で拳を握りしめていたようだ。手の平に、ぶつりと爪が刺さって、痛みで思考が止まる。翻した己の手を睨視し、生命線に滲み出した血色を指で隠した。
「……協力したら、帰らせてくれるのか。僕はエドウィンに話さなきゃならないことがある。こんなところで死ねない」
目界の端で影が動く。頭を上げた彼の方に、僕が向き直ることはない。長い白髪を揺らしてカーテンを見遣った。閉め切られたそれは眇たる光すら通さなかった。天蓋で室内光も届きにくく、薄暗い闇に包まれている。
シャノンと過ごした孤児院に似ている。子供騙しの牢獄だ。先生達の言葉は全て嘘だった。だからこの男の言葉も、一切信用したくない。
それなのに突き飛ばせないのは、僕がエドウィン達と過ごした日々の中で、変わったからだろう。信じたいのだ。この男が僕達を──僕の大切な人を、傷つけないと。
「君を少しでも早く解放出来るよう、私も兄に話しておくから。しばらく我慢してくれ」
首肯だけを返すと、椅子が床を擦った。革靴がワゴンの車輪と合奏しながら遠ざかる。
「また後でくるよ。もし喉が乾いたりしたら外に呼びかけて。使用人が必ず待機しているからね」
扉の開閉音を聞き届け、僕は糸が切れた人形みたくベッドに倒れ込んだ。オッサンが座っていた椅子の背もたれには、ストールが掛かっている。それは元々僕が羽織っていたもので、エドウィンからもらった大切なものだった。
シーツを這って、伸びをしながらストールを手繰り寄せる。柔らかな生地を抱きしめると、胎児のごとく丸まった。
「……二人とも、心配してるかな」
会いたい、というささめきの余韻は、嘆息に攫われた。
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