あの日の色彩を3

     (二)


 艶やかな貴婦人が鏡越しに俺を睨む。カレンに化粧を施され、ドレスに身を包んだ姿には男らしさが欠片もない。馬子にも衣装とはこのことかと思いながら、装着した長髪のウィッグを整えていく。


 一部分だけを編み込むと、三つ編みと後ろ髪を束ねて一纏めにし、右肩に流した。鏡台に置いていた薔薇の髪飾りを手に取って、適当に髪に挿す。レースと羽の装飾が鏡の中で揺れていた。


 バタフライナイフを二本、袖の内側に仕込んで、ロングコートを手に取った。豪奢なドレスをコートで隠し、酒場の外に出る。


 赤ら引いた斜陽に目を細めた。酒場のすぐ傍に馬車が二台停まっており、正装を纏ったマスターが御者と歓談している。俺に気付くと、彼はすぐに片腕を挙げて手招いた。


 パンプスの踵を高く鳴らして歩み寄っていく。ヒールに高さはないが、革靴よりも踵が細く不安定だ。歩きにくさに気色ばんで馬車に近付くと、彼が手を差し伸べてくる。誘掖されるままに馬車へ乗り込み、彼と向かい合って座った。


「エドナ、寒いのかい?」


 馬車の扉が閉まる。それに重なった呼称は耳に馴染まず、反応が遅れる。


 出発前の会話を喚想した。俺はマスターをリアムと呼ばなければならないし、彼は俺をエドナと呼ぶ。他人にはブライトマン夫人、とも呼ばれるかもしれない。マスターに偽名を使わなくていいのかと聞いたが、そもそもリアム・ブライトマンが偽名だから構わないと苦笑していた。


 揺れ始めた車内から窓へと視線を映す。彼の質問を思い返しながら、夜を湛えていく茜空に目をやった。


「寒くはない。この服が落ち着かないから、コートで隠したかっただけだ」


「そうか。降りる時に脱ぐんだよ。それと、他人がいる時は女性の声でしゃべってくれ。魔力を消耗するだろうからそんなに喋らなくて大丈夫だが」


「わかってる」


 妻役に決まってから数日、女性の声を出すイメージを固めて、魔法を使う練習をした。戦う時ほど魔力は消費しないし、思いのほか大した負担ではなかった。


 石畳に伸びる馬車の影を見下ろし、後方を走るもう一台を窺おうとしたが、流石に窓から見える範囲では捉えられなかった。椅子の中央に座り直してマスターを見上げる。


「ユニスは、別の馬車で大丈夫なのか?」


「乗せる時は私がエスコートしたし、降りる時も私が迎えに行くから大丈夫だよ。君と二人で話がしたくてね。ちょうどいい機会が出来て良かった」


「機会なんていくらでも作れるだろ。話って言うのは、カレンと俺を強引に付き合わせたことか。カレンから聞いた」


「あぁ……それも関係している。今回の事件についてだが、君は戦わなくていい。それと、この件を最後に、君には魔女狩りをやめてもらいたいと思ってる」


「は……?」


 彼の真剣な声差しに吐息だけを返してしまう。こちらを平視する眼睛に貫かれたまま身動ぎすら出来なかった。普段の笑みを消した面様が何を考えているのか分からない。夜の帳が下りていく幽闇の中で彼は苦笑いを浮かべた。


「カレンさんと一緒に静かに暮らしたらいい。これから先、君は普通に生きていいんだ」


「……待て、どうしてそんな話になってるんだ。普通に生きるなんて、今更……」


 温然な彼が得体の知れないものに見えてきて目を逸らした。家族を亡くしたあの日から、妹との再会と、復讐だけを考えて生きてきた。それを果たせたなら、後はもうどうでもよかった。全てが終わった後のことなど考えたこともない。


 彼の言う普通とは何か、考える。それはきっと、家族と過ごした過去のようなもので、コーデリアと夢見た未来のようなものだ。そして、ユニスと約束した未来も、そこにあるのだろう。


 殺し殺されかける現状とは無縁で、穏やかな日々。想像は出来る。手を伸ばすことも出来る。そんな日々が続くわけがないと、伸ばした手は悲観の渦に沈んだ。


 けれど、そもそもまだ、終わっていないのだ。魔女研究施設を壊し尽くすことも、魔女が生まれないように研究者を誅殺することも、叶っていない。


 手の平に爪を突き立てていたら、マスターは穏やかに続けた。


「故郷を失くした君に、私は戦い方と殺し方を教えた。人を殺せるように、心の殺し方も教えた。『君自身が望んだから』なんて言葉を免罪符に、私は君を引き込んだ。だけど君は、ちゃんと心を保ったまま生きてる。まだ戻れるんだよ。魔法を使わず、平和に身を委ねて生きたっていいんだ」


「……あんたは、どうして急に、そんなことを」


「君の故郷に行ったとき……いや、気になったのは列車で君の手当てをした時だ。魔女に貫かれただけにしては、内臓の内部がひどく爛れて見えた。君が昔に比べて食べ物を食べられなくなっているのは、君の体が内側から壊れていっているからだと思った。エドウィン、君自身も気付いてるんじゃないか。もう、長くないって」


 長くない。


 彼の言葉を唇の裏で繰り返して、自嘲が口角を引き攣らせた。まるで糾罪されているみたいだった。返す言葉に迷って視線を彷徨わせる。


 夜降よぐたちが車内を掻き暗す。隘路に差し掛かった馬車は蒼然たる影を引き込んだ。顔を上げれば、千草色の諸目が俺を射抜く。彼の目に、こちらの瞳はどう映っているのだろう。眼窩にはまだ紅い燭花が宿っているはずだ。


 この命が風前の灯であることは、誰よりも知っている。だからこそ、まだどうにか生きていられるのも、自分で分かっている。


 自身の胸に手を伸ばした。コートに皺を刻んで、拍動を確かめる。布越しに皮膚へ爪を突き立て、指が動くことを確かめる。息衝いているという証を感取して彼に炯眼を突き付けた。


 まだ、足掻いていたかった。


「俺は……ッ」


「何が君の体を蝕んでいるのか考えた。魔法を使う頻度だろうかと思いながら、君の故郷で調べたよ。魔力は魔法を使う時、熱を帯びる。ただそれは短時間だけで、静電気みたいなものだ。体に悪影響が出るほどじゃない。けれど、君の場合魔法を使う時間は一瞬じゃない。常に魔法を使い続けるということは、常に君の内部で魔力が熱を持って巡っているということだ。君の肉体は、内側から爛壊らんえしていってる」


 台本を考えてきたように喋々する彼が、言葉に迷っている俺から声を奪う。目を逸らし続けていたことを現前に突き付けられるのは快いものではなかった。彼は滔々と、車輪の音に声を重ねていた。


「内腑が爛れるまで魔法を使い続けることは、普通の魔力量であれば出来ないそうだ。そうなる前に魔力不足になって、耳鳴りと喀血が起こるからブレーキが掛けられる。けど、君は異常なほど高い魔力を保持しているから、魔力不足に陥るまで時間がかかる。だから無自覚にその体を灼き続けていたんだろう」


「……リアム、もういい。俺の話を聞いてくれ」


「君が無茶を続けるって言う話なら聞けないな。君は、自分の体について、自分の魔力について、どこまで知っている? 何も知らないんじゃないか?『魔力の花』という言葉に聞き覚えは?」


 彼は彼のペースを崩さない。魔女狩りをやめろというのは、提案ではなく命令に近いものなのだろう。切歯したまま、彼の話を噛み砕いて、聞き覚えのない単語に首を振った。


 煙草とライターを取り出した彼がほの暗い車内に夜燭を灯す。一炷の紫煙を燻らせてから彼は説いた。


「古い書物に書かれていたよ。本来魔力は知覚出来ないものだ。だけど人間の心臓に宿る魔力の種が開花すると、その花の魔力が肉体から滲み出す。溢れた魔力に反応して、人はその存在を恐れ、或いは惹きつけられる。『魔力の花』が生まれたら、魔法を使わせてはいけないそうだ。異常な魔力に焼かれて早死にしてしまうから。成人するまで大事に守って、成人したらその心臓を神に捧げるよう書かれていた」


「なんだ、それ……」


 魔法を、使ってはいけない。僅かな痛みにつられて、額を押さえた。村では、成人するまで魔法を使ってはいけない決まりがあった。母に、そう教えられた。それは本当に、村での決まりだったのだろうか。


 幼い頃、母が俺に言い聞かせていたのは、魔法を使うなということだったのかもしれない。


 俺の魔力が高いというのは、昔からよく言われていた。他人の魔力の高さなど、魔法を使っていない状態でどうやって分かるのか、不思議だった。今、分かったような気がする。この体に流れる魔力は、他人でも感じられるものだったのだ。


 落ち着いて、まずは彼の言葉を味解する努力をした。けれど、御伽噺のような口前に思考が追い付かない。心臓を神に捧げるという意味が分からず、眉根を寄せた。


「心臓を供物にする、という部分のページは本から破かれていてね。破かれたページは民家の棚に隠されていた。恐らく、いつか生まれてしまう魔力の花を守るために、君の先祖が、その記述を誰の目にも触れないところへ隠し続けていたんじゃないかな」


「……貴方が何を言っているのか、少し、整理させてくれ」


「エドウィン、聞き流してくれていい。ただ、これだけは分かってくれ。私は君に少しでも長く生きて欲しい。魔女狩りや魔女に関わるのはやめるんだ。だから今回の事件、君に戦わせるつもりはない」


「それで、俺にこんな窮屈なコルセットなんて着けさせて、踵の細い靴を履かせたのか。戦えないように」


 腰を押さえ、背もたれに後頭部を沈めた。冷眼に映るマスターは目を皿のようにしてから、口元に手を添えて噴き出していた。


「ははっ、確かに戦えない格好だったね。単に妻役が必要だったから女装してもらってるだけだし、女性はその格好でパーティに参加するのが一般的だから、いわば正装をしてもらってるだけだよ」


「……酒場は、どうするんだ。一人でやっていくのか」


「店は、君にあげてもいいかもしれないな。カレンさんと二人であの店をやっていくのはどうだろう。勿論、化物退治なんてしないでね」


 顰め面は未だにほどけない。この体が壊れかけているのも、戦えば戦うほど壊れていくのも、理解して尚、退きたいとは思えなかった。アテナは殺した。コーデリアの墓も無事だ。それでもどうしてか、まだ刃を収められない。


 烏夜うやを色付ける寒灯を眺望していたら、「エドウィン」と彼が呼ぶ。彼は白い息を吐き出して、遠くを見つめていた。


「この世から魔法がなくなれば、魔女がつくられることもなくなる。……『君の心臓を神に捧げたら、世界から魔法をなくすことが出来る』って言われたら、君は心臓を差し出すかい?」


「……俺が死んだ後に、俺の心臓をどうされようがどうだっていい。だが、生きている限りは、誰にも渡さない」


 そんな御伽噺を信じて命を捨てるくらいなら、最後まで生き抜くことを選ぶ。この手で殺せるだけ魔女を殺す方を選ぶ。


 そうでなければ、ここまで足掻いて来た意味がない。


 馬車が大きく揺れて、咄嗟に椅子に手を突いた。どうやら目的地に着いたらしい。開かれた扉の向こうにいくつもの燭影が見えた。先に離席したマスターの手が差し伸べられる。


「行こうか、エドナ」


「ああ」


「声も口調も、気を付けておくれ」


「……ええ、分かっています。リアム」


 魔力で声帯を震わせる。軽く咳ばらいをして喉を整えた。石畳に踵を下ろすと、目の前には豪奢な正門が佇んでいた。


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