第四章

報い1

     (一)


 闇路の影を切り裂く、真っ赤な眼勢。先生――アテナの目遣いはとても静かだった。幽静がこんなに恐ろしく思えたことなどない。彼女は武器を抜く素振りさえ見せない。ただひたすらに、僕の弾丸を待ち受けるみたいに、銃身を軽く握っていた。


 何を考えているのか分からない顔ばせに声帯が震えた。柔和に僕の言葉を促す姿は、過去を想起させる。


 僕と妹を買ってくれた彼女。僕達を痛めつけることもなく、暖かい食事と柔らかなベッドを与えてくれた。孤児院の子達とは、あまり仲良くなれなかったけれど、いつも二人きりでいる僕達を気に掛けてくれた。


 忙しいみたいで会える機会は少なかったが、たまに孤児院を訪れると僕達に菓子を与えてくれた。妹を守りたいから戦う術を教えてくれと、そうせがんだ僕にナイフの扱い方を教えてくれた。僕達を軽蔑しないで、多くのことを教えてくれた。


 全部事実で、確かな記憶で、それなのにきっと偽りなのだ。


 ――君達はずっと一緒に、幸せになれるよ。


 初めて会ったあの日、アテナが僕達に告げた言葉。あの時から既に、僕達はこうなる運命に誘掖されていたのだろう。噛み締めた怒りを彼女に向けた。


「先生。貴方は初めから、僕達を魔女にする為に買ったんだろう? この紐を縫い付けて、魔法を掛けてバケモノを生む実験……アレは貴方が指示していたことで間違いないんだよね」


「メイ、君は利口だね。そこまで分かっているなんて流石だ。施設の先生達から聞いたのかな? 先生達はどうした?」


「……みんな殺した」


 正確には、エドウィンとユニスが、だが。彼らのことを口にするわけにはいかなかった。僕が全てを知っていることに動揺は示されない。取り繕われることも否定されることもなかった愚問に自嘲した。彼女が開口していたが遮るように舌頭を振るう。


「答えて。貴方は、僕とシャノンを殺すつもりで拾ったの」


「そんなわけないだろう? 君達も、あの孤児院の他の子供達も、殺すつもりなんてなかった。魔女を造るのは死なせる為じゃない、生かす為だ。事実君達は生き残ったじゃないか。無事で良かったよ、メイ。シャノンも」


 細い指が拳銃から離れていく。いつ弾を撃たれるか分からないのに、彼女は僕を抱きしめた。彼女の科白を噛み砕くように反芻する。


『君達は生き残った』。単純な言葉なのにそれは晦渋な言葉でもあった。意志が揺らぐ。彼女に縋りたいのか、報復をしたいのか分からなくなりそうだった。


 拳を握り締めれば銃声が寂寞を撃ち破る。石畳を砕いた弾丸。花を思わせるアテナの香りが硝煙の匂いに呑まれていく。僕は彼女を突き除けた。両手で銃を握りしめ、もう一度照準を合わせる。弾の道筋で、彼女は困ったように笑っていた。強気で諸目を細めれば、自若の仮面を保てるような気がした。


「シャノンが、もしこの体で生きているのなら。シャノンに会いたい。もし貴方の魔法で亡くなってしまっているのなら……僕は絶対に貴方を許さない」


 口無の微笑みが返される。大通りの雑踏と風韻が沈黙を埋める。風で揺れた黒髪を邪魔そうに払ったアテナが、微かな吐息を一つ落とした。


「仕方ないな。シャノンに会わせてあげよう。せっかく成功したんだ、御褒美をあげないとね。シャノンだって、メイに会いたいだろうから」


 胸の奥が高鳴る。片手で自身の襟に皺を刻んだ。肋骨の向こうで揺れる鼓動。冷静になれと己に言い聞かせても、否応なく早鐘を打つ心臓。まるでシャノンが生を証そうとしているみたいだった。


 気付けば「シャノン」と、吐息塗れに零していた。拍動は僕に呼応しているようだった。錯覚かもしれない。それでも一縷の望みに賭けたい。だけど腕に紐を縫い付けられたあの日、シャノンは泣いた。苦艱くかんに苛まれて意識を手放した妹。その原因を作ったこの女を信用したくない。それなのに妹を救う術は、この手を取ること以外考えられなかった。


 引き攣っていく頬が痛む。目元が歪んでいくのが分かる。綯い交ぜになるいくつもの感情が、隠しきれないほど容色に表れていた。


 頬に触れた手。僕を覗き見るアテナの相貌。憂色を形作っているのにどこか虚ろで、すぐに剥離しそうな優しさしか感じられなかった。『彼ら』の優しさとは全く違うそれに泰然と落ち着いていく。


「ひどい顔だ。鏡を見てみるかい? シャノンを泣かせちゃダメだろう、お兄ちゃんなんだから」


「……本当に、シャノンに会えるのか。どうやって会わせてくれるんだ」


「魔法で、ね。だけどココじゃ人目に付く。この近くに魔女研究施設があったはずだ。そこへ行こう。元々様子を見に行くつもりだったしね。――そういうわけだからナイフを下ろせウォルト。この子は大事な魔女だよ」


 僅かに傾けた首が刃物に触れる感覚。弾かれるように身を引けば、寸鉄を手にした男が立っている。山吹色の瞳が、眼鏡の奥で僕を睨んでいた。大通りの音に紛れていたせいだろう、背後をとられていたことに気付けなかった。


「分かっています。殺すつもりはありませんでした」


「メイ、気を付けるんだ。妙な真似をすれば彼に刺されるかもしれないよ」


 悪戯っぽい笑みに怖気を抱く。僕が彼女へ疑懼ぎくを向けているように、彼女もまた僕を信用していない。けざやかな殺意をぶつけ合う。けれどもそれが振るわれないことを僕達は味解していた。


 妹の為に掻い付くしかない僕と、成功作を壊すわけにいかない彼女。見つめあったのちに、彼女は僕へ背を向けた。付いてこいと言外に告げる柳髪を追いかける。


 踏み出した足が紙を擦り鳴らす。地面を一瞥してから、路地の出口へ続く階段を上がった。


「あの新聞。貴方は魔女が殺されてる事件を調べに来たの?」


「メイも知っていたのか。その通りだ。後で犯人探しをしないとね」


「犯人は、この街の魔女研究施設の男達だった」


「……なぜ君がそんなことを知っている?」


「……街を歩いていたら眠らされて攫われたから。目が覚めた時には、犯人達に捕らえられてた。だから殺しただけだ」


「そうか」


 暗らかな陰の中を進んでいく。振り向くことのないアテナの踵を見つめ、月明りの下へ顔を出した。大通りよりは寂びかえっている通い路で、僕の呼気がやけに響いたように感じた。自分が余計なことを言っていないか不安になってくる。強張る肩に手を添えたら、赤い紐が指に絡みつく。震え出しそうな唇を噛み締めて前だけを見据えた。


 アテナを追いかけ、ウォルトと呼ばれた男の靴音を背中で受け止め続ける。夕刻にエドウィンを支えながら辿った帰路を、遡っていく。辿り着いた魔女研究施設は孤児院に似ていた。屋敷の両開き戸は開け放たれたままで、僕達が去った後に誰も訪れていないことを物語っていた。


 照明が灯る。洋燈の中で熱を帯びたフィラメントが暖色の明かりを広げていた。長い廊下をまっすぐ歩んでいく、アテナの軽い足取り。僕が捕らえられていたのは小部屋だったなと想起しながら、通り過ぎる扉を流し見る。


 誘導されるまま踏み入った広い一室は、見覚えのある模様が床に刻まれていた。僕と妹が、あの孤児院で縫い繋がれた時。あの部屋にも、そのいろは描かれていた。


 嫌な記憶に拳固を震わせる。片手に携えた拳銃が軋む。扉の開閉音が重く響いて僕の肩を跳ねさせた。僕とアテナだけを残した密室に、ウォルトの気配はない。ようやく振り向いたアテナが僕に嫣然と笑う。


「ウォルトには念のため邪魔が入らないように見張ってもらっている。だから安心して、協力してくれるかい? メイ」


「協力……シャノンに会う為に、僕はどうすれば――」


 視界で閃いた銀光。懐から短剣を抜いたアテナが自身の手の平を切り裂いていた。零落する紅葉のように鮮血が舞う。意図の掴めない行動に目を奪われていれば鋒鋩が向かい来る。


 間髪入れずに構えた拳銃。撃鉄の音を潰す跫音あしおと。僕の影をアテナの爪先が踏み付ける。衝突までの時間は僅か。辛うじて引鉄を引けるほどの寸隙に、急かされるまま弾丸を放とうとした。


 僕を射る洋紅の双眸に指が動かなかった。鈍色の髪が揺れる。一瞬だけ閉じた目路。瞼の裏に『彼』の姿を見た。


 もし。もしアテナの死が、僕の大切な人を悲しませるとしたら。


 混乱してしまいそうなほど掻き混ぜられていく心髄は、深く貫かれていた。静脈を這い上がる痛みに嘔吐く。胸骨を削った短剣が、肋を辿って傷を広げる。指先から離れていった拳銃が僕の代わりみたく悲鳴を上げていた。激痛と恐れで絞められていく咽喉。崩れ落ちそうな足にどうにか力を注ぎ、アテナに凭れながら呻き声を絞り出す。


 今し方の自傷で血塗れになっている彼女の手が、僕の傷口に触れた。霞む光景を眇目した直後、両目を眼窩から落としてしまいそうなほど瞠っていた。


「あ、う、ぁああああ!」


 自分の悲鳴が鼓膜を裂く。傷口に潜り込んだ彼女の手。皮下組織を押し潰して奥へ至った指は僕に水火の苦しみをもたらした。体内を弄られているのは分かる。だが伴われるのは痛楚ばかりで触覚は壊れていた。


 彼女の腕に爪を立てる。抵抗にならない抵抗の中で、彼女は言った。


「私の記憶が正しければ、シャノンはAB型だったはずだ。メイ。私は魂を君に《譲渡》する。君は私を《取り込む》ことだけを一心に考えろ。肉体の受け渡しは、二人以上の魔力を注ぎ合わないと上手くいかないんだ」


 激痛で血がひどく熱かった。肺腑で溶け合う互いの紅血。気道を灼くものが胃酸なのか血液なのかすら分からない。吐き気を堪えて恨み言を飛ばす。


「っ、貴方は……嘘吐きだ。魔女を造るのは、生かす、為だとか……シャノンに、会わせてやるだとか、全部、全部嘘じゃないか。どう、して」


「嘘じゃないよ。そうだね、君が抵抗を諦めるまで昔話でもしてあげようか?」


 蠢いた指が心臓に触れた、気がした。悍ましい疼痛が電撃のごとく走り抜ける。痙攣した気吹を吐出しながらもアテナを睨めつけた。長い睫毛が上下し、目付きは柔らかにしなる。諧謔かいぎゃくを弄するような口吻で、彼女は物語る。


「魔女を造ろうとしたのは私の姉なんだ。昔、私のいた村でも、君達みたいな双子は厭われていてね。片方を殺す決まりがあった。だけど双子を生んだ親は子供を死なせたくなくて、魔法の扱いに長けた者に縋りついた。どうにかこの子達を助けてくれって。姉さんは手を尽くしたよ。二つの命が一つになるように願って、二人を繋いだ。そうして魔法を掛けた」


「……それで、魔女が」


「ああ、出来上がったのは暴れ狂う魔女だった。勝手に頼んできたくせに……姉さんが何もしなくてもどうせ双子は死ぬ運命だったのに、村人は姉さんを処刑したんだよ。姉さんは『自分が間違っていた』『生かしてあげたかった』と言い残して息を引き取った」


 室内の蕭寥しょうりょうに悲歎が響く。充溢する血の匂いに唇を噛む。掠れる意識を引き留めて物語を思い描いた。


「だから、私は証明するんだ。あのひとが間違っていなかったことを。姉の魔法が人を生かせるものであることを。そのために何度も何度も肉体を移し替えて生き続けてきた。……何十年前だったかな、私と魔女の噂を聞いた国王が、戦争の為とはいえ沢山の実験体と、施設と仲間を提供してくれた。だけどどう掛け合わせても、狂わない魔女は造れなかった。君が本当に最初の成功作なんだよ」


 僕を覗き込んだ二つの玲瓏玉。紅色の虹彩を見据えた。発露しているアテナの真情も、その眼差しに映っている僕の姿も見えるくらい、真っ向から視線を注ぐ。歓笑で染まった相好と対峙し、冷静になっていく。


 痛覚も限界を迎えたのか、僕は無感覚の創傷を見下ろした。脈打つ枢機に届くほど、穿たれた穴。今はその傷より、こころで燻り出した怨悪の方が熱く、煩わしかった。


「貴重な『成功作カラダ』を、私が誰より大事に守れる。万が一自害でもされたら困るんだ。そしてその身に流れる血や魔力を感じられれば、成功に繋がった理由に辿り着けるかもしれない。――いいかい、ソレは君じゃなくて私に必要な器だ。私がこれから沢山の、君達双子のような哀れな人々を救う為に、必要なモノだ」


 アテナの腕が持ち上がった。喉を伝って来た血の塊を吐き出す。赤く濡れた床を打見した。爪先を前に出せば血溜まりで水音が跳ねる。僕を穿通している細腕を掴んだ。


「僕は、僕の妹がシャノンで良かったと、心から思うよ。あの子ならきっと、僕と同じ過ちを犯したりなんかしない。貴方のお姉さんが殺されたのは確かに間違いだ。でも、非道な魔法を『間違いだ』って、きっとお姉さんは気付けたのに。救うなら他の方法じゃなきゃダメだって、気付いたはずなのに。貴方のせいでお姉さんまで罪にまみれていく」


「何の話をしているのかな、君は」


「人を殺す理由に、大切な人の言葉を掲げて穢すなんて……クソ野郎だって言ってるんだ‼」


 腕を引き抜いた寸刻の即下、アテナの胴へ打ち込んだ回し蹴り。黒檀の長髪が空に散らばる。人血を撒きながら転がり落ちるナイフ。鉄と床が甲高い一音を跳ね上げる。寸刻宙を浮いていた彼女のブーツはすぐに着地するも、擦過音を伴って壁際へ滑っていた。


 喀血を一思いに吐き捨てて口元を拭う。足元に転がっていたアテナのナイフを拾い上げる。拳銃のグリップよりも掌に馴染む感触。負傷で血の気が引いていくなか、それでも戦い抜けそうな手触りに安堵した。僕を通貫する凛冽な眼差し。顕在化していく彼女の憤慨へ、同じ色の情動を差し向けた。


「僕が成功作だって? 成功することを僕が証明したって? ふざけるなよ。お前らが殺した人の数だけ、失敗が証明されているのに。沢山の人が死ぬ前に、間違いだと教えてくれたお姉さんがいるのに。家族の最後の言葉を否定してまで、魔法なんかを肯定する必要がどこにあるんだよ……!」


 語ることは無駄だ。これは何の意味も為さない。分かっていても喚かずにいられなかった。思い出の中の、優しかった先生を、まだ信じたかったのかもしれない。だから切っ先を持ち上げることは出来なかった。僕に返されたのは譏笑あざけりだ。


「君は、私を嘘吐きだと言ったけれどね。妹に会わせてやるってのは嘘じゃない。冷たい土の中で、君達の魂はずっと一緒だ。冥府で幸せになるといい」


 繋ぎ止めていたかった糸が、そこで切れた。ふ、と一つ呼気が込み上げる。悠然とした頭で惟みる。言辞から察するに、この体を奪われたら僕は死ぬ。シャノンは、とうに死んでいる。今アテナが使っている体も、亡骸なのだろう。僕は深く息を吸い込んだ。


 眼窩の奥、頭蓋の内で固めた覚悟。血が足りずによろける双脚で、血の海を踏み鳴らした。


「お前が土に還れよ」


 かつて『アテナせんせい』に教わった形で、ナイフを構えた。

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