第一章

皎白の魔女1

     (一)


 未だ聞き慣れない汽笛に眉を顰め、蔓延する白煙と喧噪に背を向けた。陽光が差し込む繁華な街路から、細い脇道へ進む。大通りから一歩路地に踏み込めば、靴音は砂利に擦り潰されていく。


 浮浪者が居座るその道は整備などされておらず、塵や汚物が端に溜まっていた。観光地となっている街でも表面だけを繕うものなのだな、と嘆息を零していれば、コートの裾を引かれて足を止めた。


「なぁお兄さん、ちょっとだけでいいんだ。恵んでくれないか?」


 泥がこびりついた傷だらけの手が、こちらの裾に皺を刻む。老婆は引き攣った唇の隙間から黄ばんだ歯を見せていた。貧しさに軽く目を伏せ、周囲を窺った。


 煉瓦造りの壁際には、くたびれた服の男。地面に座る痩せた女、肋骨の浮いた腹部を晒しながら寝転ぶ子供。期待、媚び、敵意、いくつもの視線が絡まる中、返答は跫音きょうおんに委ねた。


 自身のコートを整えるように引っ張り、老婆の手から抜き去ると、口無のまま進んでいく。非難と怒号を無視し、行路の先へ。狭い道を歩みながら、懐から短剣を取り出した。


 静かな廃道が、次第に笑声を響かせていく。くぐもった悲鳴が微かに聞こえる。隠伏する気もなく堂々と砂利を蹴り鳴らしたが、彼らは来訪者など警戒していないようだった。


「今日は大漁だなぁ! ガキは珍しい菓子で簡単に釣れて助かるぜ」


「Aが三人、Bが一人……Oも一人いるじゃないか! アテナ様はOを欲しがってたんだよな?」


「そのはずだ。つまり、報酬もいつもより貰えるかもしれ――」


 道の先で、浮浪者より綺麗な服を着た男が立っていた。彼は正面にいる仲間との会話に夢中になっていた。呑気に煙草を吸って笑う男達。彼らが燻らせた紫煙と、迸った血煙。不快感を伴って嗅覚を刺激したのは、俺にとっては副流煙の方だった。


「は……」


 無防備な項に突き立て、横に切り払った先鋭。骨を押し削った感覚の余韻が拳固に纏わりつく。それを振り払いナイフを構え直した。


 一人目の標的が崩れ落ち、拓けた視界には凝然と立ち尽くす二人目がいる。彼の向こうには、拘束されて荷馬車に乗せられている五人の子供。助けを求める幼い瞳に長息を吐き出したが、その音吐は男のあめきに敵わなかった。


「うああああああ‼」


 奮然の為か、それとも仲間を殺された憤然によるものか。裏路地の閑寂を引き裂く絶叫に舌を打つ。鈍く煌めいたのは奴の折り畳みナイフ。錯乱して繰り出される斬撃は虚空で踊る。


 肩を下げ、顔を傾け、握った得物で彼の寸鉄を切り弾く。金属が鳴いた。一瞬の鳴音は錯覚の如く霧消していく。武器を払い飛ばされて徒手になった彼。その黒目がナイフを追いかけた瞬刻。眇たる隙に拳を捻じ込んだ。


 柄で抉るように押し上げたのは腹部。肺腑を圧迫された彼が嘔吐きに似た呻き声を絞り出す。胃の内容物の代わりに吐出されたのは唾液だ。呼吸を整えようとした彼の横腹へ、革靴を沈めた時間は一秒にも満たなかっただろう。肋を折って臓物に刺してやる勢いで蹴り退けると、脆弱な体躯は簡単に地へ打ち付けられていた。


 彼は起き上がることなく負傷部位を押さえて蹲る。悶える様に影を落とし、叫ぼうとした彼の頬を鷲掴んだ。黒手袋を嵌めた手で頬骨を軋ませる。睨めかけた先では、情けないほど濡れた双眸が俺を見返していた。


 恐怖で震えあがり、落ち着きなく砂利を掻き回す彼の指先。鋭利な剣尖で手の甲を貫くと叫号がひとつ跳ね上がる。それを掌中で握り潰し、彼が喘鳴だけを漏らすようになった頃、ようやく口を解放してやった。


「喚くな。警察が来て面倒なことになるのはどっちだ? 言わなくても分かるだろ」


「ふ、ふざけるな……!」


「観光客の子供に珍しい菓子を見せて引っ掛ける……馬鹿げた誘拐方法だな。確かに子供には効くか」


「お前ッ……あいつを殺したお前だって捕まるぞ!」


「言いたいことはそれだけか? 無駄な時間を使うのは終わりだ。本題に入らせてもらう」


 氷刃という杭を外すや否や、またしても泣声が上がる。首に刀尖を宛がうと彼は必死に咆哮を押し殺していた。


「さっき『アテナ様』って言ったな。あの子供達を連れて行く予定だった研究施設はどこだ」


「な、何の話だ……? 研究……?」


「血液型を気にしていただろ。お前らが人体実験の材料として子供を売買していたのは確かだ。買い手はどこの誰だって聞いてるんだよ」


「し、知らない! あいつが運んでたんだ! 俺はここで子供を受け渡して、後日あいつが貰ってきた報酬を分けてもらってただけで!」


 蒼褪めた額から流れる冷汗。流露している戦慄は本物だ。嘘を吐けるほど今の彼に余裕はない。舌打ちを腥風に溶かし、声帯を穿通した。戸惑いに染まっていた悲鳴、その最期の呼気はすぐに枯れていく。


「殺す順番を間違えたな」


 男が絶命したことを確認してナイフを収める。荷馬車を瞥見すると少年少女が不安げな眼差しでこちらを見守っていた。馬車を覆うほろのせいかもしれないが、彼らは暗然として見える。馬は移動時に連れてきているのか、どこにもその姿はない。宥める対象が子供だけで良かったと胸を撫で下ろす。


 やや老朽した木板に乗り上がり、馬車の中へ足を踏み入れる。怯えている子供に苦笑するしかなかった。誘拐犯達を彼らの目の前で殺しておいて、優しい顔で安心させてやる、なんてことは出来そうになかった。


 誤魔化しの笑みを口元に漂わせたまま、一人一人拘束を解き、馬車から下ろしてやる。


「あの道を真っ直ぐ行けば大通りだ。走っていけ。家族と合流出来るといいな」


 大通りまでの道のりに浮浪者はいるかもしれないが、流石に子供を襲ったりはしないだろう。説明のために指し示した道を眺望する。


 藍玉を思わせる澄んだ空は朱鷺色に染まりつつあった。四人の子供が長い影を背負って駆け出していく。


 俺は彼らの無事を見届けるような立場でもなく、これ以上助けてやる必要もない。眩い太陽から視点を逸らし、探していた少女を呆れ顔で迎えてやった。


「で? 人混みではぐれたと思ったら、こんなところで何をしているんだ。ユニス」


 少女の口枷と足枷をナイフで切り外す。手枷と首輪は彼女が好んで着けているもののため、手を引っ込めた。


 はぐれる前、彼女が被っていた帽子が見当たらない。観視してみれば、薄暗い車内の隅に落ちてしまっていた。


 修道女を思わせるベール付の帽子を拾い上げ、小さな頭にのせてやる。──と、童顔が急に鼻先へ近付いた。咄嗟に彼女から身を引くも、騒がしい言い訳を投げつけられた。


「だ、だって! 献血したらマカロンっていう……外国のカラフルなお菓子くれるって、あの人言ってたんです! ケーキ食べたいって言ってもエドウィン買ってくれないし、クッキーも買ってくれないし! お腹空いてた私を放置したエドウィンが悪いんですからね⁉」


「責任転嫁するな。俺がたまたま献血の立て札を見かけなかったら、お前は売られてたかもしれないんだぞ。軽率な行動は控えてくれるか」


 流石に反省したのか、ユニスの藤色の瞳が僅か伏せられる。泣き出しそうに揺れ始めた虹彩を視野の外へと追いやり、馬車から飛び降りる。


 殺した男共に歩み寄って彼らの持ち物を漁った。懐から出てきたのは財布や煙草くらいで、彼らの買い手に関する情報は得られそうになかった。


「……だがまあ、この街に『魔女研究施設』があることは確かだ。『アテナ』も、もしかしたらそこにいるのかもしれないな。それが分かっただけ良しとするか」


「私のおかげですね! ご褒美にケーキ買ってくれてもいいんですよ!」


「お前が反省したらな。とりあえず情報収集と宿探しに行くぞ。はぐれるなよ」


 ヒールの音が高く跳ねる。生成きなりいろの柳髪を揺らしたユニスが俺の前に飛び出すと、両腕をこちらに向けて持ち上げてくる。


 華奢な前腕部を覆い隠す革製の手枷。ベルトが二重に巻かれたそれは頑丈な拘束具そのもの。彼女が腕を上下させる度、拘束具から零れるフリルが音を立てて揺れていた。


「はぐれるなって言うなら掴んでてください。見ての通り私はエドウィンを掴めないので」


「お前一人がその格好をしていれば『変な子供』で終わるが、それを引き連れてる男がいたらどうなるか分かるか? 女児誘拐を疑われて豚箱送りだよ。せめて街中では外せ」


「やーだー! 外したら誰かに触っちゃうかもしれないじゃないですか! 通報されても私が誤解を解いてあげるので引っ張ってってください!」


 極度の人間嫌いである彼女にとって、街中という人混みでそれを外すのは難儀なことなのだろう。分かっていても舌を打ち鳴らしたくなる。そもそも何故子守りじみたことをしなければならないのか。彼女を俺に押し付けてきた『保護者マスター』に不満をぶつけたい気分だった。


 酒場『化物退治』。ふざけた名前の店をユニスと共に発ったのは、今朝のことだ。


 その際マスターに渡された手紙を改めて確認するべく、外套の内側に片手を差し入れた。もう一方の手で仕方なくユニスの腕を掴み、路地から大通りへと戻っていく。


 手紙に書かれていたのはこの街の名前と、化物と称された異常な人間の目撃情報だ。


 目撃者いわく、ソレは不気味な叫び声を上げながら、凶器もなしに通行人の腕や首を斬り飛ばしたらしい。数人の男がソレを撃ち殺し、どこかへ連れて行ったそうだが、その一件は新聞にすら載らなかったという。誰に話しても信じてもらえなかったようで、『化物退治』という店があることを知って手紙を送ってみた、と書かれていた。


 その化物が俺達の探している『魔女』を指しているかは定かでなかったが、先刻の人買いを見る限り断定してもいいはずだ。


 道行く人を避けながら石畳を踏んでいく。手元へ落としていた眼界に幼い顔が入り込んできた。


「エドウィンエドウィン、魔女を造るのってO型の方が成功しやすいんですかね? さっきの人達、私がO型だって言ったら掘り出し物を見つけたみたいに騒いでました」


『酒場・化物退治』で狩っている存在、魔女。それは、ある組織によって秘密裏に生み出されている化物のことだ。魔女を造る人体実験では、


 繋いだ二人に魔法をかけ、片方は力を吸い取られて死に、もう一人は並外れた力を宿して生き延びる。


 だが現存する魔女は力に耐え切れず、理性失くして暴れるだけ。意思疎通どころか会話すら出来ない。無差別に人を殺すため、研究者達にも失敗作と言われている。


 尤も、魔力や魔女について知っている人間はごく少数。魔法が存在することすら一般人は信じない。魔女も魔法も、日常を過ごす人々にとっては関係のない事柄だった。


「魔女の研究が成功したことなんてないだろ。どこの施設も馬鹿みたいにうるさい魔女を生み出してる。O型を使ったことだって何度もあるはずだ。今はたまたまO型をメインに研究してみようってなってるだけじゃないか?」


「それならいいんですけど! 私狙われたくないので!」


「お前が研究者に狙われやすくなったら、釣りやすくて助かるんだがな」


「エサ扱いするならエサを太らせてください、ごはんはまだですか」


 人海を避けて道の端へと身を寄せる。手紙を仕舞い直し、街中をぐるりと顧眄こべんした。


 日暮れ前の時間帯はどこの店も繁盛している。人とすれ違うたび、焼きたてのパンの香りや、香水の蘭麝らんじゃ、微かな砂埃の臭いが混ざり合って眉を顰めた。人々の衣服の色彩が目まぐるしく泳いでいく。賑わいに疲労感を覚えながら、ようやく宿の看板を見つけて安堵した。


「今日はあそこの宿に泊まるぞ。昼食を食べたら情報収集だ」


「やったあ! ごはん! ケーキ!」


「ケーキなんて出てくるわけないだろ……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る