シヲンヌ

肌寒い日でした。



空は朝からしとどに五月雨て、漸く止んだ夕暮れには色の滲む気配も無く。

ふとすれば水気のある冷ややかさが帳に帯びて、天から降りておりました。

斯様な一日でも、等しく夜は更けるものでして。私は床につき、ぼんやりと天井の板を見つめておりました。


時分は宵に包まれて久しく、侘しい頃でした。

村中が黒に溶けて、我先にと別世界を覗きに行くのです。私の隣の布団の中にいる家族も例外は無く、各々本日の夢路へ旅立った時分であれば。く後に続かん。などと思いつつ、横になる私でございました。



しかしながら。

全くと断じて良いほど、私はうつつに縛られたままだったのです。真暗な寝室も最早白昼のよう。板の木目で迷路を考案できるほどには、私の脳は明瞭でございました。


太く長いため息が、天井まで登ります。薄ら白く色づく煙が溶けても、傍らでは個性ある寝息が止まず。私の思考も遅滞することあたわず。由無よしなし事が浮沈していくばかりで、心地の悪さは一級品でございました。




和風の寝室には時計がございません。

ですので私は枕元をまさぐって携帯電話を取り出します。画面の灯りを付ければ、光が我が双眼を貫きました。すっかり視界が明るい気でございましたが、今の私は消灯した部屋で暫く床に伏す身でありすれば。当然、人工の眩さは凶器でしかなく、目の奥がじくじくと膿むやうな感触と向き合う他ございません。


そのような中で見かけた時刻は、既に丑三つ時の近くでございました。

私は酷く焦りました。疾く携帯電話の電気を消して、自らの寝相を整えます。


現在は休日の中日で、朝が来ても特段予定はございません。だからと言へど、望まぬ夜更かしなぞ誰が要する事柄でしょうや。何でも良いから、直ちに眠らせてくれまいか。苛立ちのままに目蓋を閉じて、私は布団を深く被ります。


からら きりり けれれ

からら きりり けれれ


外から声が聞こえたのはそんな頃合いでございました。




私の家の近くには小川がございます。

狭い道路を挟んだお向かいの、少し野原を過ぎたあたりに流れているのです。一方通行の道路ほどの太さがある其れは、夏には蛍が舞い秋には赤とんぼが群れ成します。梅雨の今ならば、雨蛙が岩石や水草の陰で佇んでいるやもしれません。

すればきっと、声の主は蛙なのでしょう。


実のところ、またしても外は時雨れておりました。

寝室へ往く直前のことです。鍵を閉めようと窓辺へ寄れば、するりと鼻先にゲオスミンが通りすぎました。もしやと思い、外へ右手を差し出せば案の定。霧雨に近い雨粒で、びっしょり手首まで濡れてしまったことを覚えております。


勿論止んだ気配は無く、地面に穿つ音が今も耳まで届いております。然れど雨音風情に、安眠を阻害するほどの威力はございません。特別気に障るはずもなく、私は寝室に横たわっておりました。


からら きりり けれれ

からら きりり けれれ


ですが奴は違いました。




蛙の声というのは存外に甲高いものです。

昨今の文明の発展で高音を発する存在が増えたとは言えど、上には上がふんだんにいるとは言えど、けろりと鳴く蛙は声高でございます。特に群れたときの鳴き声は一等姦しく、子どもの笑い声のように印象へ残ることもございました。不断の折に耳すれば、趣のある音楽のように聴いていたやもしれません。


思い出してくれましたでしょうか。今は、就寝の時分でございます。

端的に申し上げますと、彼の声は不快そのものでした。



彼の声は私の情緒を酷く掻き乱すだけでございました。何しろ非常にはっきりと、私の耳の奥まで響くからです。屋外からの発声であるはずなのに、今、枕元にある携帯電話の目覚ましが響いても同じくらいの印象が残るでしょう。加えて子どもが笑うような高い声色でございます。

過敏になるなと制止するのが、度台不可能な事案でございました。


更に腹立たしいことに、寝室で荒れ狂うのは私だけでございました。

傍らの家族は依然として各々寝息を立てているのです。気になるような異変もなく、私の情緒なぞ知りもしないで眠るのです。幸せそうな寝顔たちは温かくあれど、外の声の腹立たしさを助長させるのにはもってこいでございました。


からら きりり けれれ

からら きりり けれれ


安眠のために、蛙には小川付近へお帰りいただこう。

二度目の長く深い息が寝室へ溶けました。




傍らの寝顔が歪まない程度に、私は勢いつけて起床いたしました。畳を忍び足で進み、軒先を目指します。それでも外からは止める意志の微塵もない声が響くのみでございます。さて、如何様にしてお帰り願おうか。手払いでしッしッとすれば大人しく下がっていただけるだろうか。そもそも何匹いるのやら。


思案していれば、軒先の木戸が目前でございました。立て付けが悪くなっている所為か、この木戸は少々重たくなっております。大人でも音を立てずに開けるのは工夫が必要でございまして、如何したものかと考えつつ、私は右手をかけました。

それからぴたりと止めました。


からら きりり けれれ

からら きりり けれれ



外から生物の気配が無いのです。



からら きりり けれれ

からら きりり けれれ


今も尚、聞こえてくるというのに。

誰かが、何者かが佇む気配が一切しないのです。


頭から水を浴びるというのはこういうことでしょうか。

私の右手は引っ込められ、左手に首根っこを掴まれておりました。どく、どく、と心音が大きく鼓膜を震わせます。両足が我先にと木戸から離れて、気付けば私は布団にくるまっておりました。傍らの布団が不変なことを察するに、起こさないようにする理性は残っていたのでしょう。



木戸に窓はございません。

真実、外に何もいなかったのか私は確認できておりません。然れど外側に誰かが、何かがいるかくらいはどことなく判別つくものでございます。存在の有無程度は察しがつくものでございます。


ですが今は、何一つ、感ずることは能いませんでした。


背中はびっしょり濡れておりました。目が慣れれば、手のあとの残る右手が存在を主張しておりました。視界に映る私の身体は酷く震えておりました。

頭の中身はすっかり冴えてしまいました。


布団という遮蔽物は関係ございません。頭を出しているときと同じ音量で、絶えず耳へ届くのです。轟音でもございません。只管ひたすらに甲高い声色が続いているだけなのです。木戸を隔てた声が、私を恐怖へ駆るのです。




純粋に、ただ純粋に恐ろしくてたまりませんでした。


恐怖とは未知から来たるなどと、よくぞ言ったものでございますれば。

正に私は、不可解の化生に震えておりました。或いは声から意識を逸らしたくて、思考の渦へ投身したのやもしれません。どうして木戸の向こうに誰もいないのか。両耳を塞げども十全に聞こえるのは何故か。本当に現状は夢ではないのか。傍らの家族と私の違いとは、彼らが熟睡できる所以は。今も寝室では蛙の声が響くのに。


ここまで考えて、私は息を呑みました。

私は外の様子を確認しておりません。然らば私は、蛙の存在を認識できなかったはずでございまして。いわんやあくまでも高い蛙の声色は、けろりでございますれば。



どうして私は、この音を蛙の声と断定できたのでございましょうや。



五月蠅く臓が拍動いたします。呼吸音を少しでも抑えたくて、私は真っ赤になりながら口元を抑えます。体内は暑さで火を噴きかねないのに、表皮は冷えきり水気がございました。

何故に私は未知の相手に対して、確実にどうにかできると考えられたのか。木戸を開いて退けようなどと、やる気しか沸かなかったのはどうしてなのか。


最早、眠れる眠れないの問答なぞ脳内には介在しませんでした。

私に残された術は途切れぬ“声”を耳にしながら、白む空を待つより他は無く。震える身体へ布団を被せたまま、目をいっぱいに開いて徹夜するのみでございました。




からら きりり けれれ

からら きりり けれれ


からら きりり けれれ



からら


    きりり


        けれれ






木戸の隙間から朝日が溢れる頃。気付けば、“声”は失せておりました。

履き物を突っかけた私は、鳴く鶏の姿を尻目に辺りを視ます。



外には何もございませんでした。

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