第4話 芸術は自然の模倣

 5月初旬の木曜日。

 春風はまだ冬の香を忘れる事なく、冷たさを運んできている。ひらひらと葉っぱが揺れ出す。緑が小さな踊りをしているように、サカサカと音を立てていた。

 亮は廊下の窓からそんな光景を見ながら、自然の恵みに感動する。


『芸術は自然の模倣』


 それはかつて偉人が残した言葉。

 芸術の真髄はなにか、と悩む人々に彼はそう答える。

けど、それは本当に正しいのか、亮はわからない。

 十年間も芸術に触れた彼には、芸術の意味を見失っている。芸術とは何か、わからない。何百枚の絵画を創作したのだけど、その答えにたどり着けなかった。

 きっと、自分には永遠にたどり着けない答えなんだろう。


『それを決めるのは、わたしよ。あなたじゃないわ。芸術は鑑賞者が物申すものよ』


 ふっと、脳裏に咲良先輩の言葉が蘇る。

 その言葉には不思議に説得力がある。幻の言葉だ。芸術は鑑賞者が決断する。芸術家は決めるのではない。

 なら、芸術家に意味はあるのだろうか?

 創造者は意味を成す世界なのだろうか?

 哲学のような考えに亮を惑わす。頭がよくない自分は答えることは出来ない。その回答を導き出すことはない。


「……今日は静かな場所に行くか」


 頭が痛くなる命題はやめよう。いまは一人でいる時間を過ごせばいい。

 と、亮は放課後の廊下を歩き。目的地へ向かった。

 美術室ではなく、静かな場所へと移動する。図書室だ。

 美術室は行き辛かった。なぜならば、来るたびにミチルからは絵画の進捗を聞かれるからだ。期間はまだあるものの、絵画に手を付けていなかった。

 なぜならば、このコンクールに応募しないからだ。

 いまの自分はキモオタで、情けない人間である。画家ではないのだ。そんな栄光なコンクールに応募する資格はないのだ。

 そんなことを考えていると、図書館に到着した。

 いつもの個室に陣取り、バックからスケッチブックを取り出す。

 またも、いつもの通りに絵を描こうとするが……今日はやはり気が乗らない。どうしようもできない。

 最近よくある。何も描けなくなる状態。絵を描く時にはよくある現象だ。急に筆が乗らなくなる。どうしてこうなったのか、自分にもわからない。

 この場合は絵を描かないことが正解。無理にしてまで絵を描けば、苦痛しか残らない。経験はそのことを伝えている。

 ミケランジェロは『人はその手ではなく、その頭脳で絵を描くの』と放っていた。

 きっと、今の頭脳はよく回っていないのだろう。

 ならば、この場合は他のことをやろう。と、亮は近くの本棚を眺める。

 何を読めばいいのかが、適当に見回す。面白そうな本、自分にアイディアを与えてくれる本はないかと一冊一冊の本を眺める。

 その中で一冊の本に目が入った。本のタイトルは『純粋理性批判』だ。

 どこかかっこいいタイトル名に釣られて、本に手を取る。

 パラパラと、本を開き読もうとする。


「かつて 形而上学は、すべての学の女王 と 呼ばれたこともあった……なんだこれ?」


 しかし、ページを捲った瞬間に意味の分からない単語が出てきて、絶望する。形而上学とはなにか?中学生の亮にはわかるわけがない。

 はずれな本を引いたな、と後悔する。

 こんな難しい本を当てたなんて思いも知れなかった。本とは、表紙で判断するものではないことを痛感する。


「形而上学は、感覚を超えた理想の世界のことよ」


 聞き慣れないが、聞いたことがある声が後方から響く。

 振り向くと、そこには咲良先輩が立っていた。彼女は腕を組み、右手で顎に手を当てていた。いつものように得意気に妖艶の駅を浮かべて、亮の方を見ていた。


「はるか昔。とは言っても、十八世紀の哲学は、神や見えないものが主体で哲学が成り立っていたわ。要するに、哲学はこの世ではない、あの世のことを主体として考えていたことが多かった。しかし、その考えは荒唐無稽で実態がない考え方だと思った哲学者が現れた。批判することで哲学が成り立つと思った彼はあらゆることを批判して、本に執筆した。そう、あなたが手にしている「純粋理性批判」も彼の作品よ」

「なんだか、難しそうな内容ですね」

「まあ、難しく考えなくていいわよ。そんなものは芸術と同じよ。自分が見たものにどう思ったのか、それが哲学よ。西園寺くん」

「やっぱり、先輩の言うことは難しいですね」

「さあ、どうかしら?」


 咲良先輩は得意げに答えると肩をすくめる。

 亮はそんな意味不明な彼女の問いに、背を向き、手にしている本を本棚に戻した。

 この本は自分にはまだ、早いと、断言した。

 哲学は自分にはほど遠いもの。まだ、そこまで考える頭があるわけでもない。

 しかし、彼が知る芸術は哲学には関連しているもの。

 絵画とは二面性の意味を持つもの。一つ目は肉眼で見えているものをそのまま写す意味があること。もう一つはその肉眼で見えることなく、「意味」を絵に与えられているもの。決して目で理解できるものではない。「心」で観るものだと、亮の父親が説明していた。


「それで、今日はお遊びはやめて、読書の趣味を始めたのかしら?」

「はい。今日は少し描く気が出なくて……読書で気を張らそうと考えていました」

「お遊びなんだから、いいじゃない。そんな日があっても」

「そうですね、咲良先輩は何かおすすめの本はありますか?」


 亮は苦笑いを浮かび、本棚を見つめる。

 次はなんの本を読めばいいのか、適当に本を探し出す。

 ただ、そこは哲学の本ばかりで難しいものばっかりだった。

 さっきみたいに、かっこいい名前だけ選べば、痛い目に合うじゃないかと、亮は慎重に本を見つめる。


「お勧めする本なら、ギリシャ哲学ね。哲学の基礎を磨いたほうがいいわ・例えば、プラトンの「国家」とかね」

「これですか?」


 分厚い本を一つ、手にする。

 パラパラと、本を開けて見る。それは自分には難しそうな本では間違いない。また、今度ちゃんと読もうとする。


「それより、あなた。すごい経歴を持っているものだったのね」


 本棚に本を戻そうとすると、また咲良先輩が意味深のことを放つ。

 思わず、亮は眉を寄せて彼女の方へと顔を向ける。


「……僕のことを調査したのですか?」

「あたりまえでしょ?私、気になったものはとことん調べるものよ」


 またもニタリと笑う咲良先輩。

 そんな不敵の笑みを苦手になる、亮だった。


「父は芸術家で、息子もコンクールで数々の作品を応募していた。でも、受賞した履歴はない。不思議なものね」

「悪いですか、僕の芸術が受賞したことなくて」


 嫌味に聞こえたのか、亮はヘソを曲げて、咲良先輩の目線から背ける。

 事実をこうも言い当てられると、こんなに腹を立てるのだ。


「そこまで悪く言ったつもりはないけど、侮辱したように聞こえたらごめんなさい。ただ、そんな芸術家がお遊びの絵を描くようになったのはどうしてかな、と思っただけよ」

「それが悪いですか?」

「いいえ。いいと思うわ……ただ……気になっただけよ。芸術をやめたものが、どうして「お遊び」に熱中しているのかね」


 わざとらしくクスクスと笑う。

 亮はそんな笑う彼女には少し不愉快になる。どこか、人を見下しそうな態度には彼女のことを苦手になる。

 だが、それも噂通りの人物像でもあった。

 触らぬ神に祟りなし、は本当だ。彼女のことを触れてしまった自分に呪うしかない。と亮は自分を呪った。

 と、その時に、不意に図書室の扉が開かれた。

 亮が振り向くと、顔見知りが立っている。

 オレンジ色の髪を揺らしてキョロキョロと周囲を見ながら、彼女は誰かを探しているようだった。

 そんな彼女の行動に亮は思わず声をかけてしまった。


「ミチル?」

「あ、亮見つけた!」

 

 美術部の部長、ミチルは亮の方に向かって歩き出すと、彼の手を取った。


「さ、いくよ」

「行くって?どこに?」

「部室!亮、最近来ていないでしょ?」

「それは……」


 自分は芸術をやめてしまった。など、と言葉が止まった。

 彼女はそのことを知らない。そして、自分もそのことを言う勇気はない。


「それに国際コンクールの件。まだ、エントリーしていないでしょ?早くエントリーしないと」

「わ、わかった。準備させてくれないかな」

「じゃあ、行くよ!」


 亮は慌ててバックを手に取ると、ミチルは無理矢理手を引っ張る。

 目の前に咲良先輩をのけものにし、二人はこの図書室を去った。

 だが、その去り際に亮のバックからスケッチブックが滑り落ちた。彼はそのことを気付かずに、図書室の扉をくぐった。

 タッタッタ、と遠さがていく。

 残された咲良先輩はそのスケッチブックを拾うと、ぺらぺらとページをめくる。

 その中には数々のアニメキャラが描かれていた。アニメのワンシーンを紙の中で表現されたように、丁寧に描写された絵がそのスケッチブックの中にびっしりと集まっていた。

 最初のページには深夜アニメで放送された『魔法少女アイリ』後半は最近放送されたアニメ『あの日の約束』の一部のシーンが描かれた。さらに開くと、現在好評のラノベ『冴えるヒロインの育て方』挿絵の一枚絵が描写されていた。

 桜の下で佇んでいる一人のヒロイン、佐藤恵。

 麦わら帽子を風に吹かれ、ひゅーと飛んでいく帽子に眺めるヒロイン。


「……お遊びにしては、芸術点が高いわね」


 ふふとほっぺが落ちるように笑う咲良先輩。

 絵本を楽しむように、彼女はぺらぺらとページをめくり、次々と描かれている絵を一人で楽しんでいた

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