第16話 薄氷の上
衣擦れのささやかな音が落とされる。
ここミルツァーレ高原街領主邸は思いのほか静かだった。
時々床を踏む侍従以外、廊下から聞こえてくるものはない。
リシェルは着ていた白い病衣を畳み、慣れたお仕着せに袖を通す。
姫様の為、と起き上がった彼女はまず姿見で自分の現状を確認した。どうやら一級の客室であるらしい。
誇らしい思いと居心地のないそれが交互に彼女を悩ませる。
成程、半死半生といっても差し障りない。
鏡の中の彼女を恨めしく睨む。
腕に巻かれた火傷を隠す包帯に、薬のにおい漂う足首の包帯。瓦礫に揉まれた際の背中の傷にも、どうやら巻かれてあるそうで。
「はは……」
目の前の金髪が苦く笑った。
遼遠の国の神話では、偉大なる神の葬儀として体の供養に全身包帯を用いるという。
なにかが欠如したメイドの装いに口を尖らせて、彼女は部屋を後にしようと振り向いた。
「よ」
そして飛び退いた。
なんなら悲鳴もあげた。
「なんだ、意外と可愛いとこあるじゃねぇか」
右の額に異形を宿す
紫の瞳が愉悦の色に染まる。
なんとまだ外套を脱いでおらず、リシェルから見ても謎という装飾品で、あえて着飾った蠱惑的な何かを醸し出していて。
良く分からない人だ。
咄嗟に引き笑いしてしまう自分を心の中で殴り飛ばし、心持を直した。
「んじゃあ、本題だな。案内する」
こっこっこ、と加工された木の扉と指の節が接吻し、軽い音を立てる。
「御当主、例の傍付きのメイドと報告を」
「……入室してくれ」
左程低くない、心地よい声が漏れ出た。
ささやかな金属の装飾が施された、領主邸執務室の扉を彼女は開けた。リシェルは彼女に追従する。
なんとも優麗な部屋と言った感じだろうか。
書類の山が雄峰さながらに積まれていなければ。
その存在感ある職務のそれに圧倒されながらも、リシェルは領主を見る。
二十後半、貴族としての婉麗と余裕湛えたその笑みが、手腕と全てを物語っていた。
す、と前に出て膝をつく。
完璧。
一切の口の出しようがない正式な礼の形をリシェルは創る。
何百回、何千回と繰り返した貴族に対する敬いの儀は、失礼のない所作であると同時に雪山ノ剣城、そこに勤める傍付き侍女としての権威を果たす物でもあった。
「まずは自己紹介から入ろうか。私はモルトヴェネ・モルティア・ヨルムと言う。爵位は三等、領はここのミルツァーレ高原街だね。貴公の事を聞いても良いかな」
「はっ、お初にお目にかかります。剣城侍女第三寮、后エルメレス様の傍付き侍女、リシェルと申します」
目はひたすらに絨毯に注いでいた。
爵位三等と言えば、下級貴族の頂点、或いは上級貴族の跡取りと言った所か。恐らくは後者だろう。
「では社交はこれまでだ、本題に入ろうかリシェル」
「はっ」
「そこまでかしこまらなくても良い、私が許そう。見てくれと虚栄に塗れた貴族社会は窮屈だろう」
「私はこれで構いません」
「物好きだな。だが今は一大事だ。まずは、大人しく腰かけてくれ。貴公が命を賭して救った姫君について話したい」
ここが分水嶺、一連の話の楔となり今後の選択とリシェルの使命に大きく関わる。
正に薄氷の上だ。
まずはこの貴族の腹の内を探る。
それでいて姫様に害をなし帝国に与するのなら、私は眼前の男を殺してでも逃げなければならない。
刃の如く鋭い眼光が頭部にあたるのが肌でわかる。
見極めて見せる。
この身はあの方の身。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます