第15話 ミルツァーレ高原

「あぁ、やっと起きたか」


恐らくはどこかの部屋。

多分助けられるなりなんなりして、ここに至る。


無音貫くこの空間には誰もいないと思っていた。

だがひっそりと脇に、誰かがいた。


「……ひめさま」


ぐぎぎ、と首を傾けようとする。


「はいはい無理しない。もう一週間も寝込みっぱなしだったんだぞ、あんた」


「……ひ、め」


「安心していい。メレスの姫君は無事」


凛とした声だった。

さほど高くない、低音の女の声。


隣に置かれた椅子に、ひとり腰かけてると見た。


はらり、と小さな音が室内に響いた。

紙をめくるその音から察するに、本を読んでいるらしい。


何とか首を動かして、見る。


彼女は全身を黒の、単調な外套で覆っていた。

大きすぎるフードを目深に被り、不格好になった暗闇のベールの中、何色とも知れぬ瞳を書へ落としている。


室内だというのに。

訝しげに思った彼女だが、訳ありはこっちもだろうと無理やり納得した。


「ここ、は」


「メレス皇国メウィリーン領ミルツァーレ高原街、その領主邸。一言で言うと田舎」


頭の中で地図を思い浮かべる。

列記とした教育は受けていないものの、流石に町の名前は分らねば。


首都の北西。

銀刀山脈の中腹にあたる高原だったか。


「あなた、は」


「しがない……人族アルナ以外の何かかな……」


くく、と意味ありげに呟いたのち、ページをめくる。


呆けていたのだと思う。

耐えきれなくなったその人が思い切り吹き出すまで。


「ぶっふ、あっははは!」


陽気に笑い出したその人は本を手近な棚に置いて、フードを外した。


「いんや悪いねぇ。あんたがあんまりにも気負い過ぎてたから、思わず場の空気を紛らわそうと」


「あな、た、鬼族ロニア…!?」


彼女の額には異質なが突き立っていた。


世界に散る八種族、神族ルナ冥族ニアを除いて、最も数が少ないとされている、人族アルナとはまた別の異種。


艶のある黒の髪の毛に、菫色の双眸。間違えようのない、肌と同色の角。


リシェルはとっさに自身の額を隠した。

悲鳴を上げる腕を押し上げて、畏怖の表情で。


目が合った。


冷たい目だった。

否、リシェルが冷たくしたのだ。


紫丁香花のような、はては紫水晶のような、透き通る眼には明らかな侮蔑が浮かんでいた。


「ご、ごめんな、さい。その、えと」


これは私が悪いのだ。

謝罪の言葉を遮るように鬼族ロニアの女性は言った。


「別に珍しくもないし、慣れてるけどまぁ、気を付けてくれや。鬼族ロニアを見たら醜い角を移される~、とか言う噂は人族アルナの国で山ほど聞くから、逐一反応しちゃいられねぇし」


「その、本当に」


「ああ、良いって良いって。さ、熱も引いた傷も大分治まった」


左程気にしてない様子で頭を掻く。


罰の悪そうな顔でリシェルは俯いた。

種族としての尊厳を尽く傷つけてしまった。


生まれは誰にも、選べないのに。


侍女としての生活と仕事には噂がつきものだ。

やれあの方々が秘密裏に交際してるだの、やれどこどこで身投げした誰かの霊がやって来るなど、鴇色の叫びを漏らすものから悲鳴を全力で上げるものまで様々。


なかでも異国の色恋や良くない噂は稲妻のように、一瞬で広がる。

昔誰かから聞いた、根も葉もないそれを信じ込んでしまっていた。


「さって……あたしゃ報告してくるよ。あんたも熱が下がって動けるようになったら手伝いな。いつもいる傍付きのメイドがいない~って泣く程だったんだからな」


「は、はい、すぐに」


「あぁそれと、落ち着いたら御当主が話したいと言ってた。痛み止めはさっき処方した。お仕着せなりなんなりはそこの棚だ」


「ありがとうございます」


「礼は良い。あんたは姫をあそこまで救えたんだ、誇っていい。あたしは御当主に報告してくる」


そう言って名も知らぬ鬼族ロニアは扉の向こうへ消えた。

震える筋肉に鞭打って上体を起こした。沈黙する部屋がよく目に映る。


生きているのだ。


改めて実感と安堵で息をつく。

愛した世界の形はまだ、死んではいないのだ。


メウィリーン領ミルツァーレ高原。

中央の巨大都市からはかなり離れている。


彼女は窓の外を見た。

圧倒的なその霊峰、銀刀山脈が遠く太陽に弾かれて煌めく。

視線を下にすれば、皇国首都程ではないが小さな町が見えた。


遥かな自然と、昇る太陽。

一面白の、冬の景色。


使命は、誇りは、崇高の意志は、まだ。


リシェルは思いに耽り長いことその銀世界を見ていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る