第9話 逃亡のメイド
「赤い…光……?」
それは時の秘術。
対岸の丘の、侵略軍から放たれた赤い光が
煌めく炎はその形を留めるのを見て、彼女は目を見張る。
何か分からない。だがとてつもない違和感が彼女の足を動かした。
あれは危険だ、策略と謀略に満ちた帝国の何かだ。
数歩、恐怖から後退る。
彼女の顔が、身体が、姫君が墓標の十字架の燐光で淡く赤に照らされる。
踵を廻した。
無音の憂虞からひたすら逃げる。
汗が全身から湧き出て、腿や露出部にあたる雪の冷たい感触にどこかむず痒さを覚えた。
枝に剥がれて、木肌に擦れて襤褸の様に変わった、フリルとそのメイド服がまだ、ほんの少し温かみを。
全身が痺れるようだった。
感覚はとうに残滓を残して絶していた。
「必ず……護ります!」
聞くも理解も定かでは無い。
必死に、必死に打ちひしがれる思いで、皇国に残された唯一の綺羅星に縋り嘆くその声は、リシェルが自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
相も変わらず寝息を立てる、艶やかな銀の髪を見る。
頼れるものは信じきれない己の体と力だけで、心を預けれるものは抱えた姫君だけで。
「護ります……!護ります……!」
虫が食い散らした青葉のように、摩耗しすり減った心を支えて繋ぎ留める一本の杭は、雪森の牙にかかりつつあった。
話すこともままならない呼吸の中、それでも奉ずるその決意の言葉は彼女にできる精一杯の献身で。
かひゅぅっ…!、かひゅぅっ…!
「護…り…ます!」
誰に向けたものでもない、誰に聞こえるものでもない。
それでも呟きは止めない。
ここで止めれば、この決意そのものも消えてしまうだろうから。
かひゅぅっ…!、かひゅぅ、う…。
「嘘、でしょ……!?」
思わず呟いた。
思わず立ち止まった。
思わず、胸の中の命にしがみつき抱き着いた。
恐らく無事だと思われていた雪隠ノ離宮方面の夜空が、煙と灰と戦の炎が上がっていた。
そして推測される、鬨の声と悲鳴。
彼女は中てられる。
戦場の蛮勇と、血の狂熱は亡霊の嘆きのように彼女に絡みついき、竦んだ足に手をかける。
怨嗟のそれに、助けを呼ぶそれに、リシェルは思わず背を向けてしまった。
何かを否定するように、知らず知らずのうちに頭を振った。
謝意か否定か、果てのない贖いのそれか。
震える口から絞り出す。
呪文のような、死に物狂いの誓いの言葉を。
「護ります……姫様……!!」
薄命と雪白の、山の接吻が身を刺しているようだった。
肺腑に冷々たる空気がその暴力を以て突き刺さる。
せめての償いか、絶望からの雫をみせないようにか、思い切り上を向く。
木々の間から零れる、ありったけの美しさを見た。
夜空。
星々が瞬く天上の、神々の楽園。
有機的なその、手の届かない碧瑠璃の光の川がリシェルを見下ろす。
その向こう、一際輝く銀河の蒼穹の向こう側。
星霊と月兎のおられる月は、ただ銀色を閃かせ遥か彼方から無言を貫き通していた。
神の世界、夜空の一角を切り取る円はリシェルに何を望むか。
「星霊っ、様……!」
聞いた事もない程の狂った呼気に交じって、情けない懇願の音が出た。
彼女はただ在るだけの夜空の神に、何を望むか。
その言葉は、今リシェルが飲み込んだ息に絆されて、心の奥底へ、そっとしまわれる。
きっと、私が護るから。
そう決した彼女は、既に己の洞を埋めたから。
それでも、涙腺の熱は冷めなかった。
思えば昔から、泣いてばかりだった。
第一皇女様の木登りに付き合ったり、御后様の朝の着付けが前後逆だったり、その度に侍従長からは叱られ、涙を堪えるさまを見た御后様に笑って許してもらって。
でも、そんな人ももう、多分霊術に吞まれてしまって。
「救い、ます!」
やけに静かな山の中に、心からの叫びが響き、あたり一面の白に吸われて搔き消えた。
だが。
だが決して絶やすまい。
心に誓った。
夜空に誓った。
何方に言った言葉とも知れず。
彼女は泣いていた。
大粒の涙はとめどなく溢れ、一つの雪の足跡に無名の色を刻んで消えていく。
止めれなかった。
上を向いて、歯を食いしばって。
抱える姫君に万一のことが無いよう注意を割いて。
激しい息遣いの中に、声とも言えない、親を失った獣のような一つの戦慄きがこだました。
目指すはメレス皇国メウィリーン領。
彼女の背に豆粒ほどになって尚、赤の光を燦燦と注がせる十字架と街の光が覆いかぶさった。
袖で涙を塞ぐ。
ぎゅっと姫君を抱きしめる。
まずはこの、銀刀山脈を駆け上がろう。
侍女リシェルは前を向く。
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