第8話 時の消失
崩れ落ちる霜が、子気味良い音をたてる。
弾け飛んだその響はリシェルと姫君、2人の重み以上に重いものがあった。
目の前いっぱいに広がる黒と白、少しの木肌が茶色のアクセントで彼女らを歓迎する。
涙の傷跡で霞んだ視界には、「ようこそ」と闇夜の森が化け物よろしく口を開けて、こちらを食わんとばかりに映っていた。
呼吸が荒んでいた。
一心不乱の思いでニノ塔より駆けてきたらしい。
垂れる汗が伝って、彼女の仕えるべき幼子にかからないよう、十分注意して、竦んだ身で姫君を抱きしめる。
今の私の身体は、この方の為にある。
たとえこの忠義を注ぐ器が、物心つかない姫君でも構わない。
全てを捧げ、奉ずる。
例え母親を演じようともここで戸惑う訳にはいかない。
まず目指すのは雪隠ノ離宮。
白布に抱擁された腕の中の姫君をそっと、揺らし起こさないように走り出す。
覚悟はとうに、できている。
己の重圧を下げようと、ひとつ呼吸を置き息を整える。
彼女は駆け出した。
己とお仕着せの裾は揺らしても、姫君は揺らさない。
ただひたすらに足を動かす。
同時に、頭も。
──…后と第2皇女を捕らえろ!
敵兵の言葉が脳裏に蘇る。
もしも、もしも帝国軍の1番の狙いが第2皇女こと胸の中の姫君ならば、リシェルは如何なる犠牲を払っても守らなければならない。
破壊と憎しみの渦中に巻き込む訳にはいかないのだ。
硬い土と雪の感触が靴を伝って腿に響く。
背後に茶の禿げた木々が斜面に流れて行く。
月明かりのみの銀刀山脈は恐ろしかった。
街道からも外れた、剝き出しの山肌はこちらに歓迎する気はないらしい。
時に足を岩にぶつけて転びそうになり、時にせり出した木の根がリシェルの顔を打とうと阻む。
走るにつれ、体も限界の苦痛と疲労に苛まれる。
心臓が胸に根を張ったような、ずきずきとした痛みを容赦なく早鐘に似た鼓動と共に訴えかけてくる。
瓦礫に縺れ切った足首は地を踏む度に呻く程の苦衷を発し、肺に入り込んだ空気は凍てついた鋭さで喉と胸を刺す。
かひゅぅっ…!、かひゅぅっ…!という調子の外れた早い呼吸の音が山肌の静寂を打ち破る。
それでも、それでも挫けて折れるわけにはいかなかった。
全てが限界だと、リシェルの意志以外が理と命運に従い絶叫していた。
歯を食いしばる。
せめて呻きと揺れで姫君を起こさないよう、最大の注意をもって。
そして異彩の惨劇は慮外より、足音もなしに訪れる。
死に限りなく近しいその宣告を、獣のような第六感とも言うべき悪寒で、感じ取る。極めて異質な、帝国軍の時の術を。
気温のせいではない寒気が背中を伝った。
どこまでも歪な世界の形の気配が、背後から。
「何……!?あれ……!!」
畏怖と恐怖と困窮から、乱れ痛む喉より声が漏れた。
思わず雪色の姫君を抱きしめた。
振り向いた彼女は見ることになる。
赤色の光と十字架が、メレス皇国首都を包むのを。
何もかもが、凍りついていた。
比喩では無い。
全てが油絵のように。あるいは彫像のように。
燃え上がる炎が。
崩れ落ちる民家が。
逃げ惑う人々が。
突き上げられた剣と槍が。
次の動きを時に刻むことなく、固まっていた。
「想定以上だ聖遺霊具。全くもって……全くもって素晴らしい!」
かっかっか!と戦慄の混じる声が指さす先、時の連続性が失われた街の上空に、赤色の十字架が墓標のように着きたっていた。
とてつもなく異様な光景。
丘の上から眺めるその固定されたメレス皇国の首都は、鳥肌が立つような不気味な光景であり、それでいてなお壮麗と感じてしまう、その異彩。
別の世界を見ているような、不完全な世界を見ているような。
「御苦労だ枢機卿。貴様程の霊力量が無ければ起動もしなかった、手柄だな!」
「えぇ光栄です……」
ですが、と彼は続けた。
先程までとは違う、飄々とした笑みを恐慌に突き落として。
まるで自分が、1つの世界の形を思い切り踏みにじったように。
「これ程までとは」
「何、恐れるなよ。神帝はこれをも見越して、あれを探せと仰った。街と城に残っていた兵は全滅しただろうな。勿論、ハイリオンの混族共もだが」
嘲笑混じりに侮蔑の言葉を口にした彼は、おっと、と独りごちて我に返り黙った。
しかし彼には依然、この惨劇の加害者としての自覚がないようで。
「霊力の余波が消え次第、捜索部隊を動かす。目標は后エルメレスの所有する王冠型の聖遺級の霊具、
高らかに宣言する。
時の固定された世界であれば、彼らの探し求める物も容易に奪えよう。
その為の、連続性を消す霊具だ。
整然と上がる赤色の十字の光が夜空を血の色に染め上げる。
しゃがみこんだ細身の男は、革本を抱えてただ震えることしかできなかった。
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