第6話 託された命

あの日、御后様が拾って下さらなければ、あの裏路地でわたしの命運は果てていた。


母が死に、捨てられ、親戚だという知らない人の家で腫れ物のように扱われ、不満か何かのはけ口に暴力を振るわれていた。


多分その日、運命が変わった日、わたしは1度死んだ。

そして御后様が、わたしの天使様がもう一度わたしに意味を与えてくれた。


だから返す。

全てを捧げる。

星神の使徒である皇族と御后様に仕え、せめてあの日の恩を一生をかけて返そう。


そう、誓ったのに。

やかましい音を立てて、瓦礫を払う。


幸いにも大きな残骸には当たらなかったようだ。

それでも痛む足を抑えながら、塵まみれのメイド服を着たリシェルは立ち上がった。


「…っ!」


痛みに思わずしゃがみこむ。


触れた足の感触に悪寒が走る。

鮮血が這っていた。

どうやら這い出る時に切れたらしい。


じんじんと痛む手の火傷の爪痕は爆炎を諸に喰らい、吹き飛ばされた時の炎熱か。


歩く度に激痛が走るが、文句を言ったところで治るものでも無い。

こんな状況なのに酷く覚めた自分の思考が憎くて止まなかった。


わたしの身は彼女の身。


「御后様…!」


痛いと叫ぶ足など知らない。

ただ緊迫した顔で駆け出した。


辺りは破滅としか形容できない有様だった。


メレス皇国の威信、皇家の象徴雪山ノ剣城の、二ノ塔は霊術士によって完膚無きまでに破壊され、塵芥と火の粉舞う廃墟になっていた。


所々に散らばる装飾品が瓦礫に埋もれて異彩を放っているのが、不気味だった。


誰かを呼ぶ声と悲鳴と嗚咽、そして泣き声が耳を刺す。


点々と人が倒れていて、中には埋没している人の、隙間から出た手やら足やらが見てる。


しかし目立つドレスの布地は見つからない。

立ち上る煙が霧のように視界を遮り、2度咳き込んでリシェルは顔を顰めた。


「無事でいてください…必ず…!」


早々に抜け出し、邪魔な金の前髪を括り直す。

じりじりと胸を焦がすような焦燥に蝕まれ、苦痛と疲労と緊張が泥のようにリシェルに満ちていく。

それは唐突に、城郭の骸の一角で眩しい希望はリシェルの目に留まる。


「!…御后様!?」


だがその希望は確かに輝いてはいたが、埃と赤黒い紅に薄れていた。

身が引き裂ける思いで彼女は駆け寄る。

瓦礫の下敷きとなり伏している彼女は、どこか暗く見えた。


「御后様、御気を確かに!」


胸が潰れそうな重圧の中、丁寧に。しかしできうる限りに揺する。


「誰……リシェル…?」


「そうです御后様!お気を確かに…!」


息苦しく、鬱陶しい程の煤に覆われて、必死に。


「えぇ、団長や…他の…」


自身が埋没してなお心配するその姿は、胸が打たれるようだった。


あの日差し伸べてくれた手は多分、覚えておられない。


無関心で疎くて、そういう風に装って国全体を見ることを選んだ御人だ。


神の皇、その王配の后エルメレスには使命があると、幾度となく呻いてきたリシェルは、もう厭わない。


「今瓦礫をどかします…! 無礼を御許し下さい」


「良いのよリシェル、逃げなさい」


「逃げません…御后様を救わねば……」


女皇の威厳の鱗片、その懇願の響きは、リシェルには聞こえなかった事にする。


構わず煉瓦に手を伸ばした。

燻る炎と溶けた雪の湿気が、どうにもむず痒い。

さらには力を込めて押そうとすれば破片が食込みざらつき指を刺す。

握った灰の瓦礫に力を込めようと手を伸ばした。


だがそれは遮られる。

2人は弾かれたように街の方を見た。


「敵軍がもうそこまで……。やめてリシェル、いいのもう逃げなさい……」


「いけま……せん…!…引きません…!」


びくともしなかった。

彼女は侍女だ。

献身と必要な護身の為に、怠けた体ではない。


それでも、后にのしかかる城の欠片は不動であった。

寒さと炎の照りつけの中、お仕着せのすそを捲り、思い切り肩をぶつける。

布が、肌が擦り切れようとも必死に、必死に力をかける。


救う、必ず。己が主君を。

命の恩人を。

次は私の番だもの。


ほのかに、肩へ血の滲んだ気配がした。


「リシェル」


「えぇ助けます…!何で戦争なんて…おかしいですよこんなの!」


「リシェル」


「違う神を信じるからってここまでして…他の神様も否定はできない、そうやって共存する方を選べばいいの──」


「リシェル」


見た。

思わず息を飲む。


白皙の美貌、その后の面には、懇願の意が浮かんでいた。

投げやりで、苦しくて、その癖酷く執着した表情が、何故だか眩しく目に落ちる。


あぁ、この人は。


「お願いを、聞いて貰えないかしら」


帝国軍の足音が、迫りつつある。

鬨の声を上げがしゃがしゃと鎧を鳴らす、異質で、果てない国を呑み込む暴力の形が。

震える桜色の唇を噛んで、リシェルは膝を着く。


「………はっ」


「この子を、預かっては貰えない?」


そう言ってエルメレスは、埋もれた底から1つの宝の形を大切そうに外に出す。

それは皇国の姫、后の最愛の子。


正しく、この国の要であろうその子供は、雪色の布に包まれていた。

まだ艶やかな銀の髪に、母とよく似た顔つき。

幼いが、凛々しい親の雰囲気を少しだけ纏った星の赤子。


いいえ、等と彼女は言えなかった。

言えるはずがあろうか、かつて幼少の時に自分を救った神の御子その人が、己を犠牲にして子を守れと、そう託しているのだ。


揺るがない、メレスの星霊の血筋。

誰が、誰が抗えようか。

無情な現実に、冷淡な運命に。


今彼女にできること。

侍女として、仕えるものとして、この国の人族として。

沈黙と熟考の後、リシェルは、その震える手を差し出した。


「…必ずや」


「血統や政治に関わらなくていい。せめて、世界の片隅で、普通に」


涙混じりの声で、エルメレスはリシェルへと、自身の愛を託す。


「必ず、必ず…私が…!」


とっ、とリシェルの手を温もりが埋め尽くす。

痙攣したような掌に、確かな愛の重みが伝わった。



───それは1人の少女としてはとても軽く、


───それは1国の侍女としてはとても重かった。



「行きなさい。私は貴女を信じ、託します」


今リシェルが抱えているのは、彼女にとって最も大切な子だ。


「……っ…はい!」


小さな嗚咽を、精一杯の力で漏れないように踏みとどまる。

だが、そう答えた所で、はいさようならと主君を捨てて逃げれる彼女ではない。

正直な所、現在彼女の中では優劣は付けかねていた。

胸に抱いた小さな姫か、仕えて長い后か。


どちらに対しても忠誠の心は変わりなく、果てしない逡巡に襲われていた。

並ぶ2つの、表裏一体の選択肢が彼女の心の中でどちらか一方に倒れることは無く、迷いだけが余韻として表情に出る。


「…后と第2皇女を捕らえろ!」

「…あくまで聖遺霊具が目的だ、探せ!」

「…メレス兵に告ぐ、ハイリオンに下り降伏し情報を差し出せば命と家族は見逃す!」


すぐそこに、純粋で混沌とした、1国の権威の形が押し寄せる。


人は紡ぐ。

次の命を、未来の希望を。


「さ、帝国の軍隊に見つかる前にお逃げなさい。銀刀山脈を超えるか、迂回すればまだ無事なメウィリーン領に着きます。モルティア卿なら、助けてくれるはずです」


「………っ!………然と、承りました」


リシェルは胸に熱を感じたまま、立ち上がる。

次に繋ぐ為に、虚ろで狂うだけの戦火より逃れる為に。


足が震えて止まなかった。

戦慄が心の奥底を支配し、使命感が頭を押し潰す。

愛して、敬って、慕って、求めた人に背を向けるのは、これ程までに。


「ありがとう、リシェル」


その一言で、彼女の中の何かが決壊した。

背を向けた。


別れの涙を、見せない為に。


「生きなさい」


彼女は駆け出した。

何も言わずに。


傍から見ればとんだ無礼者だろう。

しかしエルメレスはそれを理解していた。


彼女にとって、それがどれ程辛く、どれ程苦しく、どれ程悲しみの縁に浸る物かを。


あの小さな星の子は、母の私を忘れるのだろう。


でも、きっと良かったのだ。


皇家に縛られずに、世界の片隅で、普通に。

産まれに苛まれる位なら、いっそ産まれてこなければ良いというもの。


自分は、それを結論付けていたのかもしれない。

エルメレスは国宝である冠に触れ、銀刀山脈へ駆ける新たな母の背中を見た。


「…どうか、どうか星々の加護の導きを」

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