第3話 回廊の攻防

「あらあら、これは偉大な皇国の御后様で」


突然現れた襲撃者はそう言った。

甘ったるい気軽な声音で、それでいて明らかに自身のものでは無い血と、生首を携えて。


「奇遇も奇遇。貴女様に会いたかったんですよ」


渡っていた回廊の奥、狂ったように恍惚な表情で彼女は嗤う。


元の鉄色が消えるほどに血塗られた細身のスティレットを持って。

そんな彼女をエルメレスは睨む。窈窕の欠片もなく、子を想い守る母として。

歪んだ口元が艶めかしく釣り上がり、緋色の双眸が愉悦の色に染まる。


「まさか…朱の双刃か!?」


護衛の1人から叫びのような声が上がった。

畏怖が鮮明に混ざったざわめきにエルメレスは更に表情を固くする。


エルメレスも聞いた事はある。

朱の双刃と帝国内で恐れられる双子の霊術士で、姉と弟。そのうち姉の方は地獄の炎を扱うとか。


「いえ、いえ。弟が貴女方の霊術士に殺されたので後はわたくしだけですの」


甘い癖に泥濘のような底の見えぬ何かを含んだ声が桜色の唇から出でる。

歌うような口調だった。

左手に掴んだ血だらけの生首と血に狂ったドレスを来ていなければどれだけ日常に溶けこんだ普通を体現していただろう。


「ですから──」


だからこそ。

だからこそ異彩として目に映る。

弟者を殺された事による復讐の気配をひしひしと感じる。

研ぎ澄まされた刃物の如く冷えてやまない、ひたすらに己が喰らう物を見据えて紅血を求めて休む事ないその気狂いのそれを。


「──覚悟して?わたくしあまり容赦はできませんこと」


ぼと、と生々しい音で肉塊が落ちた。

す、と護衛が前に進み出た。


「御后様、ここは我々に」


「…頼みます」


彼女は数人のメイドを付き従えて踵を返した。


迂回路への道を思い出しながら駆ける。

しかし彼女の心中は行き止まりで、もうそこには越えられることの無い壁が高くそびえる。


背後から確かな熱と鋼の音が伝った。


「くっ………」


微かな嗚咽を織って后は呻いた。

乱れる呼吸に痛むヒール。


全てが残酷で、世界は冷たいと認めざるを得ない。

平穏や安寧とはつまり偽りと休みでしかなく、所詮温かみなど狂気に煽られればすぐに散る。


だが呑ませない。

血統や皇族なんぞどうでもいい。

普通に、せめて幸せに、毎日が血と憤怒に駆られることなく世界の片隅に健やかに育ってくれれば良い。


走る。走る。


全身が軋むようだった。


不自由なく暮らし、面倒という名目で運動していなかった自分を心底恨む。

おまけに避難への手際。

離宮へ向かう為の荷物をまとめられず、結局メイドが諸々を持つ羽目になってしまった。


「御后様、こちらへ!」


汗を浮かべ顔に浮かびそうになる疲労を無理に隠す侍女が告げた。


「…えぇ」


卑怯者。

卑怯者だとエルメレスは自負した。


この少女達にも家族はいて、今帝国の手が迫っているかもしれない。

仕える者とはいえ他人のエルメレスを救う義理も無く、今すぐ我が家の親族と戦火を逃れたいだろう。


生きながらにして神に等しい技を容易く扱う霊術士の前で、よくも退かずに自分と子を守るためだけに動いてくれた彼女らには謝意と申し訳なさしかない。

卑屈で、矮小で、どれだけ醜い行いをして何と謗られようが構わない。

この胸の中の熱だけは。


「──どこへ逃げようと言うのです?わたくし、死ぬまで追いかけるつもりでしてよ」


総毛立った。

とろりと絡みつく蜜の声。

それが聞こえたのは、行く通路の曲がり角。


「先回りを…!」


嫌になるほど気品溢れながらその本質は殺戮と快楽、そして復讐に酔っただけの女。


「さぁ楽しみましょう?貴女を殺せば弔いと祖国の繁栄に繋がるのです」


戦慄が巡る。

こいつが居るということは、近衛達は既に。


「いと高き煉獄の王よ、いと気高き炎熱の使徒よ、我が慈悲を以て灼炎の救いを言い渡さん」


覚えがある。

霊術士の最大の攻撃、いとも簡単に人を殺める詠唱、その一端。


エルメレスは圧倒される。

まるで、目の前の霊術士の体躯が何百倍にも膨れ上がったような威圧感。

逃げ出そうにも、身体が動かなかった。

金縛りなどという生ぬるいものでは無い。見えない巨腕に拘束されたような。


「燃え、舞え、破壊の爆炎。今ここに光を!」


思わず腕に力を込め、全力で背中を向けた。

灰燼に帰ろうとも、この子だけは。


〈烈火花リコレ──」


〈煉獄蒼星雲〉アイレイス


海に似た鮮烈な蒼が朱を塗り替えた。

操るは蒼炎。硝子と煉瓦が割れた音と共に大胆不敵に舞う影はエルメレスが最も知る、皇国の勁き盾。


見なくても彼女だと分かる。

声とその爆炎は記憶に焼き付いている。

エルメレスは思わず振り向いて叫んだ。


「メイヴァ団長!」


肩まで伸びる黄金と、炎と同色の双眸。燻銀の鎧は、蒼に照らされ夜に浮かぶ北極星のように美しかった。

限りなく深い蒼炎の膜に浸されて廊下は1色へ。


「貴様ぁぁぁああ!!」


獣のような怒号が聞こえた。

先程のような淑女じみた狂気の振る舞いの皮が外れた、とも言うべくか蒼のカーテンの向こう側から凄まじい激昂が轟く。


メイヴストが猫のように音も立てず銀朱の絨毯へ着地し、エルメレスの傍へ駆け寄った。

それだけで安堵に包まれる。


「ここはわたしに。まずはあいつを」


刹那の狂いだったのか。

殺します、と告げたメイヴストの、歪んだ顔を見て何故かエルメレスは頼もしいと思ってしまった。


「殺してやる!殺してやるぅぁあ!」


「貴様にできるのか朱の双刃。帝国の隠し玉とは名ばかりか」


「青血の炎魔ぁぁあ!」


青血の炎魔。

戦場で、剣戟で、非情の限り燃やし尽くすメイヴストの通り名。

魔の名に相応しい修羅の表情を見せながら。


〈赤薔薇〉ローゼン!」


〈凍て星〉スピルカ


炎がぶつかる。

余波で硝子が砕け、白煉瓦が焦げる。


人を簡単に殺せそうな目付きで復讐者は睨む。

最早その目にはメイヴストは写っては居ないだろう。


当の団長は槍を構える。

霊術における勝敗とは2つの点においての競い合いで、1つは霊力による単純な力や搦手。

残るは。


星が弾けた、音がした。


「殺してやる!」


悲鳴にも似たそれが聞こえる。


エルメレスは数歩引いた。

霊術士の命の奪い合い。神話にも劣らない人ならざる如き鉄と血の惨劇。

到底視認の出来ない素早さにて、彼女たちは刃を交える。着地したであろう場所に罅の裂け目が刻まれる。

ただ鐘を突いたような耳を刺す金属音が点々と鳴り、時折蒼と朱の影が雨より疎らに見えることが、彼女らの死闘を語る。


「メイヴァ団長…」


彼女は時々、無茶をする。

幼い時からエルメレスは見てきたから、分かる。

純白の塔の上から、庭園の薔薇の隙間から、あるいは書架の冷たく狭い窓から、掌が血色に染まるまで鍛錬を繰り返し、いつなんどきも努力を欠かさなかった彼女を。

でもそれはメイヴストに強さをもたらしたけれども、反対に留め具を失ってしまった。


だがもう止められない。

この国最強のメイヴストを、無闇にも力で止められる物など居ない。

祈りを捧げ彼女の無事を祈る。


そして不意に。不意に死の歌が。

聞こえた。


星神と星霊、月に奉ずるものではない祝詞が。


「──焔の…輝きよ」


弱々しく、今にも消えてしまいそうなそれは、エルメレスの背後から。


「命の…嘆きよ」


はっと振り返る。

エルメレスは見た。


戦場の瘴気と血の狂乱に犯され、敗れて、襤褸布のようになって尚壊れた命の奪い合いに縋り付く亡霊の格好で、死の賛美を唱える男の姿を。

片方の腕から手首が無い。

そんな痛々しくも禍々しい雰囲気で、壁によりかかっている化け物の姿を。

全身火傷の傷跡が刻まれたその男こそ、血を分けた姉が惜しんで堪らない朱の双刃の片割れ。


「死と炎獄のもとに、」


笑っていた。

それはもう、歪な笑顔でエルメレスへ確かな害意を向けて印を組む。

2人の霊術士は未だ火花散る矛を交えており、気づく様子は無い。

咄嗟にエルメレスは子を庇い、メイヴストに呼びかける。


「メイヴ──」「鉄槌を!」


ここまでか。


せめてでも、と我が身よりも大事な赤子を強く抱き締める。

〈灼獅子繚漸〉リアリオンと死の宣告が廊下に響き、目の前に金色が見えた時、凄まじい轟音と共にエルメレスの視界は黒に沈んだ。

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