願い人
@sak__15
願い人
いつも通りの朝、イヤホンから流れてくる音楽をなんとなく聴き流しながらバスに揺られる。
すると、学校までもう少しのところで、音楽が急に止まった。
「ん…?…なんだ。ああ、充電切れか。」
僕は仕方なくイヤホンを外して、普段は聞かない周りの音に耳を傾けることにした。
周りの音に交じって、僕の後ろの席に座る同じ年くらいの高校生の会話が聞こえる。
「な、お前今年も流風(るかぜ)神社の七夕行く?」
「ああ、行くよ?」
「今年の願い事何にするかなあ…」
「え、お前まだ願いが叶うとか信じてるわけ?」
「な、悪いかよ…」
そうか、今年ももうそんな季節か。
七夕、それは年に一度だけ願い事が叶う日。
願いが叶う、なんてことを信じている人はきっと少ない。
だけど…僕は知っている。
願いは、ほんとに叶う。
それでいて、みんなが考えているほど七夕は綺麗なものじゃないってことも。
バスを降りて少し行ったところにある学校に向かい、教室に向かう。
いつも朝早くに来る僕はまだみんなのいない静かな廊下を歩いていく。
教室に入って一番奥、窓際の一番後ろの席。もう美咲は来ていた。
「おはよ、美咲。」
僕が声をかけると
美咲は、手元の教科書から顔を上げて おはよ、と笑った。
僕が目線をそらすと、美咲はしせんを下に落として寂しそうに微笑んだ。
僕が背負っていたかばんを下ろして席に座って、しばらくお互い何も話さずに座っていると、ちらほらとクラスメイトが来始めた。
僕が課題をいつも通りぎりぎりで仕上げて、ほっと溜息をついていると
おはよー、と声がした。
「おはよ、智。」
「綾人ってほんと来るの早いよな。誰かとは大違いだわ。」
「まぁね、あれ?月奈は?」
まさか、と思い聞いてみる。
「あ~あいつ寝坊だよ、多分。おいてきた。」
そういってかばんを下ろしながら智はいたずらをした小学生みたいに楽しそうに笑う。
「あーあ、また月奈に怒られるぞ?」
「大丈夫だって。」
月奈と智は幼馴染で家が近いらしく、中学の頃からよく一緒に来ていた。
時々、こうして智が意地悪をしない限りは。
「この前も月奈おいて行って怒られてたじゃん。」
美咲が呆れ顔でそう言っても
「あ~そうだった。ちょっとは待っててよ、って言われてたんだった。」
とやっぱり智はどこか楽しそうだった。
そんな智の後ろから息を切らせて月奈がやってきた。
「ねぇ、智!」
さっきまでの笑顔は消えて凍り付く友の表情に僕と美咲は目を合わせて笑う。
「なんだよ。」
「ねえ…1,2分遅れたらもういないってあんたすごいよね。」
「え、だってお前3分遅れたろ?」
「そういうことじゃないんだってば!!!」
また始まった…
「私今日は智が遅れたんだと思って。
智まだなのかなって待ってたらもうこんな時間になってて、超走ったんだよ。」
「お前、中学の時陸上部でよかったなぁ。」
「そんな話してるんじゃないじゃん!!」
「大体三分でもなんでも、お前が遅れるからだろ。」
「鬼じゃん。ちょっとくらい待ってよ。」
「なんでだよ。大体、俺が遅れたことないだろ。」
「ん…それは…」
「ほらな。」
「…ああ、もうむかつく!せっかく待ってあげてたのに!
もうこうなったら、じゃんけんだよ!負けた方がジュースおごりね!」
「またかよ…」
「ほら早く。」
あきれながらも手を出す二人を見ているとなんだか中学の時から変わらないこの風景にほっとする。
美咲も同じことを思っていたのか微笑みながら二人を見つめていた。
「おーーーい。みんな席につけー。」
クラスメイト達がバラバラと席についていくと、ざわざわしていた教室がしんと静まった。
「今日の日直は…」
そう先生が言ったときに何となく黒板の日付を見た。
七月四日、水曜日。
七夕まであと、三日だった。
七夕が僕にとって特別な意味を持ったのは、
僕が三人と知り合ってちょうど一年が経った中学二年生の時のことだった。
流風神社は地元でも有名な神社で、夏の七夕祭りには小さい頃からよく行っていた。
その年も今までと変わらず屋台を回って、四人で並んで花火を見ていた。
そしてその瞬間が来た。
最後の花火が咲いたとき、僕の周りの景色が全て止まった。
「え…」
慌てて周りを見渡してもさっきまでワイワイしていた智もピクリとも動かない。
困り果てた僕の耳に声が流れ込んできた。
アナタガツギノネガイビトデス。
ネガイビトハ、ライネンカソノツギノトシニ、タンザクノナカノネガイカラ1ツダケエランデカナエルコトガデキマス。
ジブンノネガイハカナエラレマセン。
ソシテ、ジブンガ、ネガイビトデアルコトハダレニモシラレテハイケマセン。
モシシラレテシマッタラアナタノソンザイガキエマス。
意味が分からない。
それなのに僕は何かに操られているかのようにはい、と答えていた。
そして僕は誰にも知られないように一年間を過ごし、翌年、中学三年生の七夕に
願いを一つ選んで叶えた。
そして、願い人は次の誰かに受け継がれた。
あれから三年が経った今年の七夕もこの町の誰かが願い人になっているんだろう。
いつも通りの一日が終わって、みんなが部活に行ったり帰ったりする中でも僕の隣の席は動かなかった。
ふと横を見ると、美咲は窓から見える校庭をぼんやりと眺めたまま固まっていた。
「美咲。」
「……」
「美咲?」
「…ん、どうした?」
最近こういうのが多い。いや、最近というか毎年のこの時期に。
「ぼーっとしてたから…ああ、そうだ、今日木曜日だろ?」
「あ、うん。」
「今日、部活休みだからどっか行かない?」
「うん。いいよ。」
そう言うと美咲はまたいつものように動き出した。
その姿に少し安心していると、後ろから
「俺も行く!!!」と声がした。
「ああ、なんで智も行くんだよ!」
「え、なに。いいだろ?デートだったのか?」
智、お前はほんとに…
「そんなんじゃないけど…」
「じゃあいいじゃん!あいつも行くってよ。なあ?月奈!!」
「え、私も?けど、この四人なら私も行きたいかも!」
と、結局またいつもの四人で出かける。
並んで自転車を走らせた先は僕たちの秘密基地だった。
古びたブランコが四つ並んだだけの山の中の小さな公園だ。
みんなでブランコに座って景色を眺める。
「あ~やっぱきれいだな。ここからの景色は。」
智が大きく伸びながら言う。
「ほんとだね。」
僕たちが初めてここに来たのは、去年の夏のことだった。
「ねえ、早く早く!!花火始まっちゃうよ?ほら早く!」
浴衣姿の美咲がちょこちょこ走っていくのを三人で追いかけながら来た所。
それがこの公園だった。
美咲がずっと昔から秘密基地にしていた場所らしい。
「ほんとはここ、誰にも教えないつもりだったんだ…」
みんながブランコに座り、それぞれ屋台で買ったものを食べて花火が上がるのを待っていると美咲がボソッと呟いた。
「え、じゃあどうして私たちに教えてくれたの?」
月奈が僕と月奈の間に座る美咲を見つめる。
「ん~なんだろね。この三人になら大丈夫かなって思ったの。」
「えー!なんか、うれしいじゃん。」
そういって顔を赤くする月奈を見つめる美咲はどんな顔をしていたんだろう。
美咲は本当はどうして教えてくれたのだろう…
花火が終わった後もそこまで深く考えていたのは、僕だけなんだろう。
あの後花火を見ながら泣いていたのを見たのはきっと僕だけだから。
花火が終わって
「んじゃ、また明日な~」
と、月奈と智と別れた後、僕と美咲はまだ祭りの浮かれた雰囲気の街を歩いて帰っていた。
いつも通り家が近いわけでもないのに美咲と同じ方向に歩いていた僕はやっぱりまだ涙の理由が気になっていた。
「美咲、今日はありがとうな。」
「あ、うん。こちらこそ。…花火綺麗だったね。」
「そうだね。」
道の途中にはまだ店が並んでいて、
周りには僕たちと同じように家へ向かう人でごった返していたのに、
そんな中でも美咲の声はよく聞こえた。
浴衣を着た人、おいしそうな食べ物を持っている人、お面を持っている人…
いろんな人が楽しそうに話しているのを見ながら、
そこから僕らは何も言わずに人込みの中を歩いていた。
美咲は僕を導くように僕の少し前を歩いていた。
道がわからない僕はそんな美咲についていくのに必死だった。
そして、しばらく歩き続けると、やっと人込みから抜けて路地に入った。
ムシムシした人込みから抜けたせいか薄暗い路地は少し寒く感じた。
そのまま路地を歩いていくと、神社のにぎやかさから遠ざかって行って美咲の下駄のからころいう音だけが響いていた。
「あのね、」
僕の耳に聞こえた声。それはいつもの明るい美咲の声ではなかった。
思わず顔を上げても、僕の少し前を歩いている美咲の表情は僕からは見えない。
「うん?」
「実は、みんなに秘密基地を教えたのはね実は違う理由があるの。」
違う理由…僕の脳裏に花火の時の美咲の涙がよみがえった。
「そうだったんだ…どんな理由?」
知りたくてじれったいのをできるだけ気づかれないように聞いた。
「それはね…」
そう言うと、少し前を歩いていた美咲がゆっくり立ち止まって、振り返った。
その目は花火を見ていた時よりも悲しそうに涙を流していた。
「え、美咲?」僕は驚きを隠せないまま、歩み寄る。
「ごめん…」
僕が肩をさすると、美咲は震える手で涙をぬぐいながらゆっくり話し始めた。
「……実は、去年のこのくらいの時期にお母さんが亡くなっちゃったんだよね。」
去年…僕は必死に記憶をたどる。
去年は僕が願い人として願いをかなえた年だ。
僕は叶える願いに後悔を残したくなくて、すべての短冊を片っ端から何日もかけて読んだ。
その時、見つけた。
‘お母さんが元気になりますように’の短冊…
それが急に頭によみがえった。
誰の短冊かはわからなかったけれど、その短冊に惹かれた僕はそれを選んだ。
まさか…それが…
「もしかして、去年お母さんのことを短冊に?」
「うん…でも叶わなかった。」
美咲は泣きながら言う。
え、そんなこと。あるわけないだろ。
僕は、その短冊を選んだのだから。どうして…
「そ、その…お母さんはいつ…?」
「七夕の前の日の夜に…」
そんな…じゃあ七夕で僕が選んだ時にはもう…
僕は自分の無力さに頭を抱えた。
それと同時に自分が願いをかなえられるという優越感に浸っていたあの頃の自分を思いっきり殴ってやりたくなった。
僕が選んだ短冊はもう叶わない状況にあって、自分は結局誰の願いも叶えられていなかったのに…どうして僕は…
「そうだったんだ。
「それでもさ、一年たった今でも、せめて七夕の日まで生きててくれてたら願いが叶ってたかもしれないのに、なんて思ってるんだ。」
「え、」
「私、馬鹿みたいだよね。」
少し落ち着いてきた美咲は目を赤くしながらいつものように笑おうとした。
そんな姿に、僕は胸が痛くなった。
せめて、気づいてあげられていたら。隣で、大丈夫だよって支えてあげられていたら。
「そんなことない。」
僕がそう言うと、美咲はまるで小さい子みたいに声をあげて泣いた。
いつもしっかりしている美咲がこんなに泣くのを見たのは初めてだった。
僕は触れたら壊れてしまいそうな美咲の姿に何を言ってあげればよいのか分からずにただ隣にいることしかできなかった。
「……ごめんね、こんなに泣いちゃって。」
「ううん、全然。辛かったんだな。」
「…うん。でもね、あの願い事叶ったんだよね。」
「え、?」
「形は違ったけれど、お母さんは今でも夢の中じゃ元気なんだよ。」
「夢の中?」
「お母さんが元気になりますようにって書いたから、きっとそれでよく夢に出てきてくれるんだよね。お母さんがいなくなったあの日から、ずっと。」
「そう、なんだ…」
僕は、もしかして願い事をかなえていたのか。
「うん。だけどさ、正直それがしんどくなる時があるんだよね。
目が覚めたらやっぱりお母さんがいないんだなって気づかされるからさ…」
「確かにそうだな。」
「だからね、願い事って叶わない方がいいこともあるんだよね、きっと。」
美咲はそう言うと地面に視線を落として寂しそうに笑った。
その笑顔は僕の心のどこかをざわざわさせたけれど、の句はそれが何だか思い出せないままでいた。
「じゃあ、もう遅いしそろそろ帰ろうか。」
「そうだな。送っていくよ。」
そういって美咲と並んで歩く帰り道で僕の頭はずっと願い人のことでいっぱいだった。
僕が願い事をかなえたのは、正解だったのか。
叶えたせいで余計に美咲を苦しめてしまっていたのか。
叶わない方がいい願い事もある、か…
いろいろ考えを巡らせた僕の口からごめん、が出ようとした時、またあの声がした。
ショウネンヨ、ソンナニアセルデナイ。
ワタシガイッタコトヲワスレタノカ?
ネガイビトノコトハダレニモツゲテハナラナイトイッタダロ?
また、さーっと周りの景色が止まった。
そんな…
僕は美咲を苦しめてしまってたんだ。どうして謝ることさえできないんだ。
「でも、僕は今は願い人じゃないじゃないかっ!!!」
キミニハイッショウイッテハイケナイトイッタハズダヨ?
「っ…」
なんだよ。なんでなんだよ。
僕だってなりたくてなったわけじゃないのに…
僕以外が止まってしまった世界で美咲の悲しそうな顔を見る。
ああ、なんでよりによって美咲なんだよ…
そうやって苛立っていく僕をよそにその声は消えていき、
止まっていた時はまた動き出した。
そのまま僕はまた動き出した時の中で、美咲の隣を黙って歩くことしかできなかった。
「ね、綾人?」
そんなことを思い出しているうちに話は進んでいっていたらしい。
「え?ごめんぼーっとしてた」
「綾人らしくないな。大丈夫か?」
「ああ、うん。大丈夫。」
「それで、今年もここで花火見ようなって話。」
「あ、う、うん。もちろん。」
そうか…今年もまた七夕が来るんだ。
きっと新しい願い人が、今年に願い人が願いをかなえるか、消えていく。
ああ、七夕って…
そのあとも、四人で暗くなるまで話を続けて
じゃあそろそろ帰るか、という智の一言でみんな揃ってその公園の山のふもとまで来た。
「あ、やべ、おれ塾あるからそろそろ行くな。じゃあな!」
「あ、じゃあ私もいくね!バイバイ!」と手を振りながら智と月奈が同じ方に帰っていく。
そんな二人の背中をしばらく見送って、僕と美咲も同じ方に歩いていく。
いつの間にか美咲と一緒に帰るために遠回りをするのにも慣れてしまった。
さっきまで去年の七夕を思い出していたせいか、美咲と二人で歩く帰り道が、
去年の七夕の記憶と重なった。
並んで自転車を押しながら美咲に話しかけた。
「美咲、」
「ん?なに?」
「あのさ、聞きたいことがあるんだけど.…」
「うん…?」
今日はちゃんと僕の隣に並んで歩く美咲。
「去年の、七夕祭りの帰り…覚えてる?」
「え.…あ、ああ。覚えてるよ。私が泣いちゃったときでしょ?」
恥ずかしそうに笑う。
「うん…」
僕だってこんなことを思い出させたいわけではない。
「それがどうかした?」
「いや、その…なんとなく去年のことを思い出してたんだ。去年の祭りの時の帰りもこんな感じだったから…」
また、これだ。また僕は気づかないふりをしようとしている。
去年の帰り美咲が寂しそうに笑ったことも、最近そういう風に笑うことが多くなったのも。
僕は、僕だけがわかってあげられるのに。
「あ~そうだね。二人で帰ったんだったね。懐かしいね。」
美咲はまた、そう言って笑うけど、
懐かしい、というその言葉はどこか苦しそうだった。
ほら、また心当たりが一つ…
言わないと…また美咲は一人で抱えて…
今度こそは本当に美咲が壊れてしまう…
そう分かっているのにそのままタイミングを逃した僕は、
分かれ道でまたいつも通り美咲にバイバイ、と言ってしまった。
そうして少し遠くなってしまった家への道をだらだらと歩いて帰った。
7月5日。
七夕まであと2日に迫った金曜日。
「おはよう。」
「あ、おはよ。綾人ってこのバスなんだ。」
「うん。珍しいね、この時間にいるの。」
「うん。ちょっと今日は寝坊しちゃって。」
「そうなんだ。」
二人でバスに乗りこむと、やっぱり話題は七夕まつりで持ち切りだった。
地域を挙げての大きな祭りだけあって街の空気は日に日にわくわくしたムードになっていくのに美咲は違った。
「美咲、明日って何か予定ある?」
なんだか嫌な予感がぬぐえなくて、窓際でぼーっと外を見ている美咲に話しかける。
もし何かがあるとしたら、美咲のお母さんが亡くなってしまった日、明日かもしれない…
そう思ったのだった。
「明日はね…」
それだけ言って黙り込む。
「いいよ。その代わり、お墓参り行かなきゃだからお昼からね。」
「え、」
予想外の一言に、思わず口から声が漏れた。
「なんでよ?綾人が誘ってくれたのに?」
「あ、ううん。じゃあ明日の昼ね。美咲はどこか行きたい場所とかは?」
「ん~、何でもいいよ。綾人に任せる。」
「それが一番困るんだけど?」
僕がふざけて言うと、
「言うと思った。綾人って優柔不断なとこあるもんね、」
と笑ってくる。
「そ、そんなことないけど…」
「なあにすねてんの?」
なんだか、いつもの美咲が見られたようで少し安心した。
学校に着くと、今日はまだ智も月奈も来ていなかった。
僕たちが何となく時間をつぶしていると、廊下から誰かが騒がしく走ってきた。
バタバタバタバタ…
その誰かは、あわただしく教室まで来て中をのぞくと、
「水崎君いますか?」と大きな声で言った。
え、僕?
「は、い…」
よく見ると一つ年下の一年生の様だった。
「あ、よかった…あの…妹の七瀬ちゃんが倒れて、今保健室にいて…」
「え、七瀬が?あ、ああ。ありがとう。」
僕はどうしていいかわからず、その子を放ったままにしてそのまま保健室に走り出した。
「あ、綾人!待ってよ!」
廊下を走っていると後ろから声がした。美咲が追いかけてきてくれていたらしい。
「美咲!!」
「七瀬ちゃんが倒れたんだって?」
「うん。そうらしい。」
「あんなにいつも元気なのにね。どうしたんだろ…」
「そうだよな。あいつめったに風邪もひかないのに…」
「うん…私も行こうか?」
心配そうに聞く美咲。
きっとこの時期にお母さんをなくしたことが美咲にとって少なからずトラウマになっているのだろう。
「ううん、大丈夫。ありがとう。」
でも僕は、断った。僕が、ちゃんと七瀬に向き合わないといけないから。
「そっか。じゃあ先生に言っておくね。」
「うん。ありがとう。」
僕は、そのまま保健室に向かった
妹に会うのはいつぶりだろう…
1歳年下の妹、水崎七瀬。僕らはいつも、比べられて育ってきた。
勉強だって、スポーツだって普通の生活だって…
今思えば、何でも頑張ってこられたのは七瀬がいたからかもしれない。
だけど、その環境が僕たちを苦しめる力はだんだん強くなっていた。
そんな中で先に折れてしまったのは七瀬だった。
そんな環境はもう嫌だ、と挑戦に出たのだった。
両親が望む通り僕と同じ高校にさえ入れば七瀬の目指すバスケットボールチームでの寮生活をさせてほしいという挑戦だった。
その日から七瀬の目の色が変わった。
毎日夜遅くから朝早くまで必死にバスケを頑張り、引中学の引退試合で晴れて推薦をもらったのだった。
「失礼します。2年3組の水崎です。」
「あ~。水崎七瀬さんのお兄さん?」
保健室に入ると、優しそうな先生が出迎えてくれた。
「はい。そうです。妹は?」
「ここのベットで寝ていますよ。」
と、奥の一室に通してもらいベットのわきに座る。
「妹が倒れた理由とかってわかりますか?」
「寮生に聞いてもご飯はちゃんと食べてみたいだから、軽い貧血かストレスかなあ…」
「そうですか…」
久しぶりに見る七瀬だったが、その疲れ切った顔は僕にだってわかった。
先生が部屋から出ていくと、僕は眠っている七瀬に声をかけた。
「七瀬…お前どうしてそこまで無理したんだよ…」
慣れない寮生活に、友人関係、いまだに残る兄との比較のプレッシャー…
去年中学を卒業したばかりの妹にとってはつらいことだらけだっただろう。
「七瀬…ごめんな。 兄ちゃんが母さんたちに言うべきだったよな。
俺だって、ほんとはすごいプレッシャーなんだ。」
だから、昔よく一緒に行ったお祭りの短冊に書いた願い事は
いつだって七瀬と楽しく過ごせることだった。
なのに、願い人とやらになってから七夕が怖くなったんだ。
どんなに願いたいことがあっても自分の願い事が選ばれて、自分より本当に大切な願い事が叶わなくなったらどうしよう、と考えるようになってしまったんだ。
本当に大事なのは叶うことじゃなくて、それを頑張って叶えられるように頑張ることなのに。そんなこと、いつの間にかとっくに見失ってしまっていた。
「…お兄ちゃん?」
「七瀬?」
「お兄ちゃん。どうして泣いてるの?」
やっと目覚めた七瀬を見る僕は泣いていた。
「七瀬っ…」
「お兄ちゃん。私、大丈夫だよ?」
「ごめんな。こんなになるまで無理させて。」
僕は泣きながら言った。
「え…?」
「そんなに頑張りすぎなくてもいいから。
七瀬が頑張ってるのは、十分母さんも父さんも知ってるから。」
僕ははじめて、心からの気持ちを七瀬に伝えられた気がした。七瀬は少し黙った後、勢いよく話し始めた。
「…私、本当はお兄ちゃんが…大っ嫌いだったの。勉強だって運動だって出来て。そんなお兄ちゃんと比べられるのも大っ嫌いだった。
だから家を出ようと思ったの。でも、私が七夕の短冊をかけに行ったとき、お兄ちゃんの七夕の願い事を見つけたの。その時、気づいたの。私と楽しく過ごせることを祈るなんて、
お兄ちゃんだって私とおんなじくらいつらいんだなって。」
不器用な七瀬が涙を浮かべながら心から言った言葉はゆっくりと僕の心に入っていたままじんわりと心の中で広がり、胸が熱くなった。
僕は涙が止まらなくなった。
僕が毎年変わることなく書いていた願い事。
“みさきとなかよくすごせますように”の短冊。
「だから、お兄ちゃんこそ頑張りすぎないで。
今年の七夕の願い事はもう私のことじゃなくていいから。
お兄ちゃんの本当の願い事書いてよ。
絶対叶うから。もし、叶わなくても…きっと幸せになれるから。」
いつからあんなに妹は大きくなっていたんだろう。
家を出てたった半年であんなに大きく、強くなっていたなんて。
この何年かで僕はどう変われたんだろう。
教室に戻ると、ちょうど1限が終わったところだった。
「あ、綾人。妹ちゃん大丈夫か?」
教室に入ると智が迎えてくれた。
「うん、ちょっと疲れがたまりすぎてたみたい。」
「妹さんって、女子バスケのスタメンに1年生なのに選ばれたって子だっけ?」
月奈が尋ねてくる。
「そうそう。七瀬ちゃんはほんとに頑張り屋さんで、ニコニコしてる子なの。」
「そうなんだ。美咲知り合いなんだね。」
「うん。私の家と綾人の家のちょうど真ん中くらいの距離のところに公園があるんだけど、
そこでいつも自主練頑張ってて、私も中学の時バスケ部だから一緒に練習したりしてたの。」
「でもお互い、俺の妹だってことも友達だってことも知らなかったんだよな?」
「うん…なんか、世間って狭いよね。」
「そうだね。まあ、もう目も覚めたみたいで安心したよ。」
「何事もなくてよかったねほんとに。」
そういって話しているうちに2限が始まって、そのまま一日は流れていったけれど
なんだか今日は集中できなかった。
何度も何度も今年の願い事をずっと考えていたから。
あの頃みたいに七瀬のこ¬とだけを祈ってた自分に戻りたくて、でもやっぱり怖くて…
なんだかんだ自分が大事なのかな、とも思えてきて…
僕の頭の中は一日中進むことなく堂々巡りを繰り返していた。
「あ、雨。」
そんな時、頭がいっぱいになっていた僕の横で美咲が窓を見つめていた。
うそだろ、と思って窓の外を見るけれどやっぱり夕方になり始めた薄水色の空には雨が
一つ、二つと落ちてきていた。
「え、うわあ、雨か。」
「ん?どうした?傘ないの?」
「うん。ああ、でも大丈夫。走って帰るから。」
「そっかぁ。今日なんか大変なこと多いね。」
そう少し強がって見せた僕に美咲は心配そうに言ってまた窓の方に向き直った。
窓の外で地面にまっすぐ糸のように落ちていく雨。
そんな雨を見ながら明日のことを考える。
明日こそ美咲の様子を見て元気がない理由を探さないと…
またいろんな考えに耽って雨が止むのを待つけれどやっぱり雨はまだやまない。
一つ、また一つ…
「ねぇ、そんなに見ないでよ。」
僕の隣で一緒に窓の外をぼーっと見つめる美咲の横顔はなんだかいつもより儚くてふといなくなってしまうんじゃないかと思った。
「ああ、ごめんごめん。」
そういって僕が視線を手元に戻そうとすると、美咲は僕を呼び止めた。
「ねぇ、綾人。
「ん、どうし…」
ずっと窓の外を見ていた美咲がこっちを向いた瞬間僕は言葉を失った。
美咲の頬にはたくさんの涙があった。
「ねえ、…助けて。」突然、美咲は泣きながら言った。
「ど、どうした?」
ぼくはさっき喉に詰まった言葉をやっと絞り出して黙るしかなかった。
みんなが帰ってしまって、僕と美咲しかいない教室には外の雨の音がよく響いていた。
「い、言えない。」
「言えない?」
「言ったら、…。…自分がいなくなっちゃう。」
「え、?」
それだけ言うと美咲はあの日の帰り道のように悲しそうな顔をして泣いた。
助けてほしいけど、言えないこと。自分がいなくなっちゃうこと。
毎年の七夕頃の元気のない美咲。去年の帰り道の涙。
僕が選んだビリビリにやぶれた短冊についていた涙の跡…
“私は知ってる、願い事はほんとにかなうんだよ”
いつかの美咲の言葉…
全部重なった。やっぱりそうだった。
”美咲が今年の願い人なんだ。”
僕は心のどこかでそうかもしれないと思っていたのに、ずっと助けられないまま気が付かないふりをしていた。
ほら、また気づかないふりをして、僕はやっぱりずっと何も変われていなかったんだ。
「じゃあ、誰かの願いを叶えないと…ね。」
「やだ。」
僕の言葉に重なるくらいの鋭いやだ、の一言。
だけど、美咲は僕に願い人だと気づいてもらえて安心したような顔でもあった。
「もう私みたいな人が増えてほしくないよ。
私が短冊に書いた次の日に七夕まであと一日って日にお母さんは死んじゃったんだよ。」
二年前の7月6日。
「お母さん?ねえ、やだ。なんで…」
お母さんが亡くなってすぐ、私は病院を飛び出て神社に走った。
短冊を急いで探し出して、もう一度読んだ。
昨日必死に書いた「お母さんが元気になりますように」の文字を見た。
けれどそれは受け止めたくない現実から逃げてきた私に、
余計に突きつけてきた感じがした。
私は半分やけくそで泣きながらその短冊を握りつぶしたけど、
まだ足りなくてビリビリに破いてそのまま家に帰った。
でも、親切な、親切すぎる誰かが短冊をまた元通りにしてかけてくれちゃったから、
その願いがかなってしまって、それから毎日の夢にお母さんが出てきた。
最初は夢でもお母さんに会えることがうれしかったけれど、夢の中では確かにそこにいるお母さんが目覚めた世界にはいないこと、次第にどっちが現実かを見失いそうになっていたこと。
そんな渦の中でぐちゃぐちゃになってしまった私はもうお母さんに会いたくなくて…でも、その短冊のせいで、お母さんは夢から消えてくれなかった。
ずっとその夢に苦しめられた過去があるから、私は叶わなくていい願いもあるってことに気づいた。
「叶えたい夢なんて私が選べるはずないよ。」
「…。」
「どれが誰の願い事でどんな気持ちで書いてるかもわかんないのに…」
「美咲。」
不安そうな美咲に僕はしっかり目を見て答える。
きっと、僕にしかわかってあげられないんだ。
「どんな願いかとかその願いが叶ったとか叶わなかったとか…。
大事なのはそれじゃないんじゃないかな。」
「え?」
僕は覚悟を決めた。
大事な人を守るのと、自分を守ることどちらが大切かなんて知らない。
だけど、七瀬が気づかせてくれたから。
せめて今くらいは誰かのために自分を頑張ってみたかった。
僕は、誰かのために今度こそ変わりたかった。
「実は僕も願い人だったんだよ。」
「綾人…」
一生、願い人だったことは言ってはいけない。
言えば、存在が消えてしまう。そんなことわかってた。
でも、そんなことよりも美咲を説得して美咲に生きてもらうことの方が僕にとっては大切だった。
「僕は、最後まで迷ってたんだ。どの願いをかなえようか、
…それとも自分が消えようか。」
普段とは違って真剣に目を見つめて話す僕に美咲は顔を上げて真っ赤な目で僕を見つめ返した。
「だから僕は毎日神社に通って全部の願い事を読んでたんだ。
そんなある日、ひとつの短冊が破れて落ちてた。
それを見たときに、不意に怖くなったんだ。この中からどれか一つを選んで叶えないと、僕もこの短冊みたいに消えちゃうのかなって。
怖くなって、今までちゃんと読んだはずだった願いもまともに思い出せなくて、僕はその願いを選んだんだ。
あの短冊を元通りにしたのも叶えたのも僕なんだよ。」
「まさか、綾人なんて…」
「ごめんね、美咲。美咲の話を聞いたら叶えなくていい願いもあったんだなって思ったんだ。
こんなこと思ってももう遅いのに。
だから、美咲にはもう後悔してほしくないんだよ。
叶えなくていい願いも、叶わなきゃいけない願いもあの短冊にはたくさんかかってるんだよ。全部読んで選んだって僕には叶えなきゃいけない願いを選べなかった。だから本当に叶えたいと思う願いがない限り無理に選ぶこともないかもしれないね。」
僕は何が言いたいんだろう…
美咲に消えてほしくなくて、自分が消えてしまう可能性まで投げだしたのに
美咲に消えてもいいなんて…
「私は…」
さっきまで降っていた雨は通り雨だったらしく、雨はもうやんでいた。
静かになった教室にはまるで違う世界みたいに何の音もなかった。
「私は、綾人みたいに願いを選んじゃいそうだった。自分が消えるのが怖くて、でもどれを選んでいいかもわからなくて…」
「うん、」
「でも、私今叶えなきゃいけない願い事を見つけたの。このままだと、綾人が消えちゃう。
たすけられてばっかりのあたしが次は頑張る番だよね。私、絶対綾人を助けるよ。」
「え、」
ネガイビトハ、ジブンノネガイハカナエラレナイ。
あの声が脳裏によみがえる。
「美咲、ありがとう。でも、もうどうしようもないんだよ。
きっと最後の花火が上がって、美咲が願いをかなえた瞬間僕は消えていくんだよ。
僕は美咲を助けられたからもういいんだよ。」
「あるよ。
まだあきらめないでよ。方法ならいくらでもあるはずでしょ。」
教室に夕日の光が差し込む。その光に照らされた美咲のほほには涙の筋がキラキラと光ったままだったけれど、その瞳は決して叶わない願いを前にしてるのに、まっすぐ前だけを見つめていた。
二年前の今日、7月6日。
美咲の中の一番の光が消えた日。
美咲が願い事までも怖がる原因になってしまった日。
やっぱり脳裏をよぎるあの破れた短冊とそれからの七夕の美咲の不安そうな顔…
「遅くなってごめんね。」
駅前のベンチに座って待っていた僕に手を振りながら美咲は来た。
「あ、ううん。」
昨日知ってしまったこと。僕が言ったこと…
僕が願い人だったことを言ってしまった以上、
明日の夜、美咲が願いをかなえるころには僕はもういないのかもしれない…
「じゃあ、行こうか。」
僕らは、並んで映画館に向かう。
世界が滅びる瞬間に奇跡が起きて助かるなんてありきたりな話なはずなのに、
訳も分からず僕は泣いた。美咲も泣いた。
今日が最後かもしれないから。きっと美咲もそれを思い出したから。
昼下がりが通り過ぎて、夕方になり始めたころ僕たちは小さな喫茶店に入った。
美咲のカフェオレと僕のコーヒーが運ばれてくると、僕らは少しの間黙って向かい合っていた。
「ねえ、」
先に口を開いたのは美咲だった。
「明日…だね。」
「うん、」
すべてを覚悟した、はずの僕はもうあきらめたというようにそっけなく答えてしまう。
「ほんとに、消えちゃうの?」
「うん、きっとそうだよ。」
「そっか、」
ほら、やっぱり。自信のある顔をしていた美咲はもういない。
僕を安心させようと言ってくれた「私の番」も「絶対助ける」も、
もうどこにもないんだよね。
わかっていた。僕はもう助けられないことも、美咲が強がってくれていたことも。
でも、それでも。そんなことを言っていても本当は心のどこかで
最後の一瞬まで僕は美咲を信じているのかもしれない。
「私に、できることないかな。」
「んー、後悔しないように明日いい願いを選んで叶えること。
それで美咲が助かるなら僕はそれでいいよ?」
カフェオレに浮かんだ氷とコーヒーに浮かんだ氷。
同じ形だったはずなのに落ち着かなくて何度も飲んだせいか僕の氷だけ解けずに空っぽになったグラスの中に残っていた。
本当は、きっと、美咲より不安なのはぼくだ。
その日の夜、もうずっと明日が来なきゃいいのにと祈りながら眠りについた。
覚悟なんてあの時にとっくに決めたと思っていたのに。
7月7日。七夕。
地元の雰囲気はもう朝からふわふわしていたけれど、夕方になるにつれてさらに軽くなっていった。
美咲と待ち合わせて神社に向かう。
浴衣を着た美咲の姿は何度か見たことがあったけど、
今日は願い人のせいか美咲の綺麗な浴衣の模様の一つ一つさえ儚く見えた。
神社まで少し歩いていく間、僕たちは何も話さなかった。というより、話せなかった。
「おーい!お前ら遅いぞ~!」
屋台の明かりに照らされてオレンジに光る屋台の中、神社の回台の入り口で智と月奈はもう待っていた。
「ごめん、ごめん。」
「おまたせ!」
いつも通りの様子に戻った僕たちは二人のもとに早足で向かう。
「え~!美咲の浴衣かわいいじゃん。」
「ほんと?月奈もきれいだよ。」
「じゃあ、そろそろ屋台行くぞー!花火間に合わなくなるぞ!」
「ちょっと智おいてかないでよ。」
花火の打ち上げは8時。花火まであと一時間と少し。
最後の花火が揚がるその瞬間、美咲は願いをかなえて、僕は消えていく。
なんだかこの3人を見ているとそんなのは夢の話のように感じられた。
「うわ~あれおいしそう!」
と何かの屋台に向かって走っていく後ろ姿にいつもならとっさに走って追いかけるはずなのになぜか追いつけないような気がして、走りだせなかった。
そのまま3人は人込みに消えて行ってしまった。
歩くのもやっとの境内で知っている人を見失うと、急に周りが見え始めた。
周りを歩く子供ずれの家族。友達同士。カップル。法被を着た運営のおじさんたち…
周りの音に耳を傾けるといろんな声がした。一つ一つは小さくて何を言っているかなんて聞き取れそうにもなかった。
なのに、その声は。その声だけは僕の耳にしっかり届いた。
「綾人!」
その声を探して周りを見渡す。
後ろを振り向いたとき、見つけた。
「もう、綾人どこ行ったのかと思ったじゃん。」
美咲だった。
「ああ、ごめ…え?」美咲は走ってきて僕に抱きついた。
「いなくならないでよ!」
境内の屋台のある道の真ん中で美咲は叫んだ。
一瞬響いた声で周りの人は僕たちを見たけれど、その声も人込みに消えていった。
「美咲…僕はいなくならないよ。」
僕はまだ僕に抱きついている美咲を優しく離して目を見つめた。
「どうして…」
「美咲が願い人のまま消えてしまわないように僕は自分を消すことを選んだんだよ。
きっとこれは誰かが消えないといけない運命なんだよ。
だから、誰の記憶にも、美咲の記憶にさえ残らなくても…
美咲がいてくれるなら、僕がいたことは意味があったんだと思うよ。
大丈夫。いつだってそばにいるから。」
「いやだよ…そんなひどい運命なんかあるわけないじゃん!
どうして誰かが消えなきゃいけないの?だったら私も消える。綾人だけいなくなるなんて、
そんなの…おかしいよ!」
美咲のほほにきれいな涙が流れた。
初めて涙を見たあの帰り道…助けてと頼んだ時の涙…
七夕のせいで美咲は何度泣いたんだろう。
そして何回、ぼくはあの人のことを思い出したんだろう。
「美咲。ちょっとついてきて。」
もう僕らには30分くらいしか残っていない。
最後に行くのはやっぱりあの場所がよかった。
まだ泣いている美咲の手を引いて走り出す。
境内を抜けて、まっすぐ、ただまっすぐ走り続けた。僕の目にも涙が込み上げてきた。
「ついた。」
僕らが来たのは、いつもの公園がある山の頂上の展望台だった。
「どうしてここに?」
「ここは…僕にとって、一番大切な場所なんだ。」
街を見下ろすと、僕の良く知る小さな町が一望できた。
そんな中でもやっぱり祭りの光は特別に際立って見えた。
ここが、僕にとって大切な場所になったのはぼくが美咲の願いをかなえた日だった。
僕は人気のないところで願いをかなえようとこの山に登ってきた。
すると、この公園には先客がいた。
その人は、鮮やかな青い浴衣を着ていた。
見とれてしまうくらい綺麗なのに、どこかその人は寂しくて儚いような雰囲気をまとっていた。
展望台に近づくと、僕がいることに気が付いたらしく急いでほほの涙をぬぐった。
「あ、すみません。」僕がつぶやくと
「いえいえ、こちらこそ。」と遠慮がちにこっちを見て笑った。
「どうして、泣いていたんですか?」
なぜそんなことを聞いてしまったのかは思い出せないけど、どうしてか僕は聞かなければならないような感覚に襲われたのだった。
「え、?」驚いた顔でこっちを見つめる。
「あ、ごめんなさい。」
「あ、いや…そうじゃなくて、私が透けて見えてるはずなのになって。」
「え?」今度は僕が驚く番だった。
その人の儚さは透けていたからだったんだ。
よく見てみると、きれいな青い浴衣もその人の綺麗な腕もこっちを見た顔もだんだん薄く透けてきていた。
「どうして、透けているの?ゆ、幽霊?」
僕は驚きが隠せずに後ずさった。
「違うよ。」その人はまた笑うけど、もうすぐ消えてしまいそうなことが僕にもわかった。
「私には、もう時間がないみたい。だから、最後にこれだけは覚えてて。」
「何事も最後まであきらめてはだめ。
どんなに小さな願い事も、信じることできっと何かが変わるから。
願い事は、どうか消さないで。大切にして。」
その人はあわてながらも言葉を必死に探しているようだった。
正直僕には何が何だかわからなかった。
だけど、その次の年の七夕の日わかった。
願い人だとかなんだとか言っていたあの声のどこかに心もないような機械みたいな声のはずなのに、なぜか僕にはわかった。
あの時確かに聞いたあの女の人の声だった。
。
そのあとその人は、僕の手を握って、優しく微笑んだ。
「じゃあ、」
「待って、きえないで。いかないでよ。どこに行っちゃうの?」
「どこに行っちゃうんだろうね。私も分からない。」
綺麗な涙がその人のほほを伝うけど、もう遅かったみたいだった。
どうしてだかわからないけれど僕の目からも涙がこぼれた。
その涙をぬぐおうと目をつぶって開けたとき、その人はもういなかった。
僕の手には確かにさっき握っていたその人の手の感覚だけが残っていた。
だから僕は、僕の最後の場所をここに決めたのだった。
「もうすぐだね。」
「うん…」
「それで…美咲はどうするの?」
「どうって…もちろん願いをかなえて綾人を助けるよ。」
またそんなことを言って。無理して言わなくたっていいのに。
もう僕を助けられないことくらい、僕が一番わかってるから。
「美咲、もう無理しなくていいよ。」
「っ…」
「僕にはわかるから。
美咲がお母さんのこともあって苦しみながら願いを選んだことも、
僕を助ける方法がなくて、でもどうにかしようとしてくれていることも…」
「でも!」
美咲は僕の言葉をいつにもなく強く遮った。
「美咲。」
だめだ。だめだ。今度こそ僕は変わるんだ。強くなれるように。
このまま花火が鳴るのを待たないと、ほんとうに美咲は僕を助けようとしてしまう。
それでもし、僕と一緒に消えるなんてことを言いだしたりしてしまったら…
「ねぇ、美咲。
美咲が僕を一生懸命助けようとしてくれたことはほんとにうれしかった。
ありがとう、絶対忘れない。」
僕は何とかもうあきらめてほしくて必死に言う。
「何それ。」美咲はあきれたように笑う。
「消えちゃうみたいに言わないでよ。絶対、私が綾人を守るんだから。
あの声が誰かなんて知らない。願い人なんてことをだれが始めたのかなんて知らない。
だけど、誰だとしても、もう絶対私の周りから大切な人はうばわせないから!」
美咲が叫んだ瞬間、花火が咲いた。
「あ…」
その合図を見て、美咲は2年前の僕がしたように一枚選んだ短冊を取り出して空にやさしく飛ばした。
短冊はまるで羽が生えたようにひらひらと舞うと、薄子柔らかい光を放ちながら空へとゆっくりと登っていった。
「あの短冊、お母さんが死んじゃう直前に書いてた短冊なの。
ほんとは、私の短冊を破ってあの短冊をかけるつもりだったんだけどどこかの親切さんが私のをかなえてくれたおかげでまだ持ってたの。ありがとね。」
「どんな、願い事?」
「美咲の周りから大切な人がいなくなりませんように、だって。笑っちゃうよね。」
そういって美咲は花火を見上げる。
僕は涙で揺らめく視界のなじゃで今度は美咲の顔が見えなくても、美咲も泣いていることくらい分かった。
「お母さん、これじゃ死んじゃうことわかってみたいじゃん。」
「そうだね…でも、最高の願い事だったんだね。」
花火はずっと咲き続けるのに、僕と美咲はずっと泣き続けた。
「もう、綾人泣きすぎ。」
「ほんとは……すごい怖かったんだ。何にも買われなかった僕から抜け出したくて。
僕は、僕は…」
「ほらほら、もう泣かないでよ。」
そう言うと、美咲は五日のあの人のように優しく僕の手を握った。
「花火、綺麗だね。」
そう呟く美咲の横顔は、ちゃんといつも通りだった。
もう僕にはそれだけで十分だった。
最後の花火が空に咲く。大きくて、真っ赤な花火。
それが散ると、きっとまた次の願い人が選ばれてしまうんだろう。
また、誰かの願いのために苦しい思いをする人がいてしまうんだろう。
どうか、誰かの願いがちゃんと届きますように。
「じゃあな、」
まだざわめく街の中、いつものように美咲を見送っていくと、僕は思わず空を見上げた。
真っ暗なはずの空には、まだ花火の煙が薄く残っているのが見えた。
「アヤトクンッテイウンダネ、アナタハ」
「え、」
もう二度と聞くことがないと思っていた声がまた聞こえた。
「ワタシガダレカ、ソロソロワカルンジャナイカシラ。」
「あの時の…」
「ソウヨ。」
後ろからやさしく包み込むような柔らかい風が吹いた。
葉っとして僕が後ろを振り向くとやっぱりその人がいた。
“あやとくん、お疲れさま。そして、ありがとう“
「ありがとうって…どうして?」
“私との約束を守ってくれたから。
あなたは願い事をだれよりも大切に思ってくれていたから。
だから、きっとあの子も願いが叶うって信じられたんだよ。
こんなに素敵な人が美咲のそばにいてくれて、本当に良かった。”
微笑んだ顔、話し方、小さなしぐさ…
妙に落ち着くこの雰囲気は…
“これからも美咲をよろしくね。”
「美咲のお母さん。」
”そうよ。
あの日会ったのは成仏する前に美咲とよく一緒に行っていたあの公園に行きたくてね。
その時偶然出会ったあなたなら美咲のそばにいてくれると思ったの。“
「美咲には…会わなくていいんですか?」
“今、会ってしまったらもう二度と離れられない気がするの。
だから、もう。いいのよ。美咲のためにも“
「それで、本当にいいんですか?」
僕はあふれだしそうな思いをぐっとこらえながら言った。
美咲が苦しみながらもいつでもお母さんのことを思い続けていたのを知っていたから。
少し黙り込んで、一言、一言、絞り出すように言った。
“美咲のため、ってホントは私のためなのかもね。
私が…あってしまったらもう離れられないと思うの。
美咲には幸せでいてほしいから。もう、十分よ。綾人君。
本当にいろいろありがとうね。
その表情に嘘はないことくらい、すぐに分かった。
その時、その人は美咲と同じ澄んだまっすぐな目をしていた。
“じゃあ、今度は本当にお別れ”
「はい、」
そういって 二年前と同じようにその人が消えていくのを見送った。今度は笑顔で。
願い人 @sak__15
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