第28話 桔梗28
「え、ちょっと!」
どこに向かって話しかければ良いのだろうか。
「待ってください!」
黒い霧はするすると部屋の隅にある通気口から流れ出ていく。
そこに意味もなく手を伸ばすが、捕まえられるとはさすがに思っていない。
こんなふうに吸血鬼としての力を見るのは初めてだ。今まではずっと話をしていただけだったからだ。
本当に吸血鬼だったのか、と今更ながら実感する。
どこに向かったのだろう?
急がなくてはならない理由とは?
先にここを出た三人に何かあったのだろうか?
あれからしばらく経ったはずだが、保護したとの連絡はない。
何かがあったのだ。
やはり、全員ここで待つべきだったのだろうか。
自分一人ここにいても仕方がない。
とりあえず外へ出ようと踵を返す。すると背後から公主の声が聞こえてきた。
「ついてくるなら、窓からでも出ておいで」
まるで耳元で囁かれたかのように感じた。勢いよく振り返るが、そこにはもう誰もいない。
深呼吸をしてから扉に手をかけて廊下へ飛び出す。
ついてくるなら、ということは、私がついていける場所。そんなに遠くへは行かないというだ。だとしたら廃校の敷地内だろう。
近くの窓にはカーテンと、板が貼られてあった。
ここから出るのは面倒だ。
しかし三人が出たと思われる裏口の場所はすぐにはわからない。
近くで誰かの話し声が聞こえた。
あちらには行かないほうが良さそうだ。
少し離れた場所に外が見えている窓があったので、そちらに走る。
鍵は開くようになっているだろうか。廃校ならもしかしたら、窓自体開かないようになっているのではないだろうか。
途中の教室から、椅子を二脚持ち出す。
目標に近づくと一つは窓に向かって思い切り投げ、一つは床を滑らせる。
窓が割れた。
滑らせた椅子を踏み台にして窓から外へ出る。
幸い、着地したのは柔らかな土の上だった。
そのまま走り出す。
手足がピリピリとする。
窓枠に残ったガラスの切っ先で、身体のあちこちが切れたようだ。
気にしないようにしよう。
傷が深いことを確認してしまったら、もう走れない。
開けた場所にとりあえず向かおうと、校庭へ進む。が、途中で足が止まってしまった。
頭がそれを理解するより先に、身体が反応した。
冷たい手で心臓をひと撫でされたような心地。
傷の痛みも気にならない。
肩に力が入る。
ゆっくりと息を吸った。
夏であるにもかかわらず、冷たいとすら感じる空気。でも、それは神聖であるともいえる。
ああ、あれだ。
神様だ。
そうか、公主は神様に対応するために出ていったのか。
それなら大丈夫。
ここには大勢の人がいる。自分一人だけが目をつけられるなんてことはない。
だから大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
校庭は木々に遮られてよく見えない。
あんなに騒ついていたのに、今はとても静かだった。
あのチャイムが終わりの合図だったみたいだ。
ゆっくりと校庭へと歩く。
芝生と仄かに光っているかのような白い砂が広がっている。
誰もいない。
視線を夜空に移す。
随分と高い位置にいるけれど、その姿はよく見えた。
公主に身体を支えられた
神様は虚空で、まるでそこに椅子があるかのように、足を組んでいた。
横柄な姿勢であるのに、不作法には見えない。
森咲トオルは目を閉じていた。
死んではいない。死んだら身体は砂になるのだそうだから。
公主と神様が何か話しているのが、風に乗って聞こえてくる。けれど、内容はわからない。
彼女に電話をかけるか、あるいは校舎に戻って探すべきだが、今動くと、神様に姿を捉えられてしまいそうだった。
風が吹いて砂が舞い上がった。
目を片手で覆う。
目を閉じる。
次に目を開けたときには、神様はいなくなっていた。
ほっとしてため息が漏れる。
そこへ公主の声が空から降りてきた。
「トオルのことを頼めるかな?」
私の傍に着地すると、森咲トオルを地面に下ろす。
見たところ目立った外傷はなかった。
小さく胸が上下しているのを見て、妙に安心する。
「簡単には死なないからといって、無謀な戦法を取ったんだ。血が足らなくなっているんだよ」
公主は慈愛のこもった眼差しを森咲トオルに向けている。
「
「はい。それは大丈夫ですが、どうしてこんなことに?」
私の知らない因縁でもあるのだろうか。彼らが戦うのは、確かこれで二度目のはず。
「さてね……トオルの足止めをしたかったのかもしれない」
それは私の質問の答えであるはずだったが、独り言のように聞こえた。
どういう意味なのかわからない。
「あの、理玖くんと恭子さんは?」
違う問いを投げかける。
そこで公主が森咲トオルから私へと顔を向ける。
一瞬だけ目が合う。
失礼を承知で目を閉じて、視線を逸らす。
「大丈夫……とは言いがたい」
どきりとする。
「いや、死んではいないよ。うん、きみは少し悲しい思いをするかもしれないけれど」
優しい声色だった。
そして一呼吸おいて続ける。
「すべては自身の選択によるものだ」
公主に促されて、森咲トオルを抱え上げる。
気合を入れたけれど、想像していた重さの半分くらいしかなかった。
校門のほうへと移動する。
公主はついてこなかった。
途中振り返ると、公主は変わらず同じ場所にいた。
遠くから見ると、保護者とはぐれた小さな子供のようにしか見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます