第10話 桔梗10
廃校にたどり着いたときには、九時をまわっていた。
繁華街から車で十分ほどなのに、がらりと雰囲気の変わる土地に建っていた。
最寄り駅から遠く、住宅街のため人通りもまばらで、うら寂しい。
校門から中には入ったものの、そこから動けないでいた。
さて、どうしたら良いだろう。
呼び鈴もない。
暗い学校をずんずんと突き進んでいけるほど、肝は太くないのだ。
しかも吸血鬼の暮らす場所である。
もちろん、いきなりがばっと襲われることはないとは思うけれど。
どこかに防犯センサーがあって、私が侵入したことが通知されるのではと待機していた。
貴婦人が私の来訪を知っていたように、三月うさぎにも知らせは来ているのではないだろうか。
とりあえず挨拶に行けと言われて、本当に挨拶だけしてまわっている。
これであっているのだろうか。
もっと、こう、情報収集めいたことを、暗に期待されていたらどうしよう。
私がわかったことといえば、伯爵は認知症の老人の演技がガチだったこと、伊織と名乗る青年が身の回りの世話をしていること。
貴婦人はその名の通りの女性で、初対面にも関わらず他人に小説を書かせようとする。これくらいだ。
上司が喜ぶような新情報でもないだろう。
詳細を知らせずに新人を寄越すということは、失敗が絶対に許されないような仕事ではないはずだ。
それならば、何も知らないような態度がむしろ良いということか。
素直な言動を心がけよう。
遠くから足音が聞こえてきた。
良かった、迎えがきたようだ。
今まで会った二人は、丁重に扱われていたから、三月うさぎ本人が出迎えてくれるはずはない。
ということは、よく思っていない周囲の者たちが来たことになる。
いきなり怒られたらどうしよう。
「こんばんは。公安部の桔梗と申します」
近づいてくる人影に対して、私のほうから挨拶した。
「聞いています」
暗がりから現れたのは若い男性だった。
綺麗な顔立ちだ。まったく表情を変えないのでマネキンのようだった。肌が白いので余計にそう見える。
私がお辞儀をすると、彼は軽く頷いただけだった。
「あの、これを」
名刺を渡す。
彼はちらりとも見ずにポケットにそれをしまった。
それから「こちらへ」と言って歩き始めた。私はそのあとをついていく。
歓迎はされていない。
けれどもっと悪い想像をしていたので、無愛想なくらいなら、むしろ良かったほうだ。
昇降口の脇の扉から中に入り一度二階へ、渡り廊下で隣の校舎に移ると一階へ降りた。
これは案内がなかったら、わからなかっただろう。
廃校といえど表向きはレンタルスペースだからか、ちゃんと掃除もしてあるし、あちこちに防犯カメラが設置してあった。
先を行く青年が立ち止まり、一つの扉を指し示す。
校長室だった。
私が青年のほうを見ると、彼はすでに歩き始めていた。案内は終わったということか。
私は気合を入れるとドアをノックする。
「どうぞ」
そう聞こえた気がしたのでドアを開けた。
中は校長室の調度品をそのままの残したような様子だった。
重厚なデスク、応接用のソファとテーブル。ただ、自分が開けた扉の部分以外の壁は、すべて本棚になっている。
ここにも窓はない。
正面のデスクには子供が座っていた。
椅子は子供の身長に合わせてあるのだろう、ちゃんと上半身が見えている。
育ちの良さそうな坊ちゃん。
服装や雰囲気ではそうだった。
ここにはこの子供しかいないのだから、この子が本物の吸血鬼ということだ。
違ったとしても、どうということはない。謝れば良い。
「公安部の桔梗と申します」
そう言って名刺を渡す。
小さな手で名刺を受け取ると、子供は何度か頷いた。
「うん。聞いていたよ、ようこそ」
低い声だった。
子供にしては、ではない。大人の中でも低いと言われるくらいのレベルだ。
目の前の子供から発せられたのは確実だ。
動物にすら変身できるのだから、声を変えるくらいわけないということか。
「さすがだね、少しくらいはびっくりしてくれるかと思ったんだけどな」
「いいえ、とても驚いております」
これは嘘ではない。
この少年の目もまた不思議な色をしているようだったから、あまり見つめないように気をつけなければならない。
「何とお呼びすれば?」
「僕? そうだね、きみらは僕のことを三月うさぎと呼んでいるだろう? それで構わないよ」
「はあ」
筋骨隆々の成人男性に対してよりは、多少呼びやすい気もする。
三月うさぎさんと呼ぶか、単純にうさぎさんと呼ぶか迷うところだ。
「冗談だよ。そうだね、僕は公主と呼ばれている」
「公主。皇帝の娘のことですね」
そう、これは女性に使う称号だ。
「大昔に決めたんだよ。僕は嫌だったんだけど、貴婦人がね」
「ああ」
彼女があの無邪気さで主張したのかもしれない。容易に想像ができた。
「今日は何の用向きなの?」
「はい、実は本日付で公安部に配属になりまして、そのご挨拶に」
「そうなんだ。じゃあ、びっくりしただろう? 吸血鬼だとか」
「はい」
「正直だね」
「取り柄です」
「公安部には向かないんじゃない?」
「そうかもしれません」
公主はそこで大人のような笑い方をした。
きっと私よりもずっと年上なのだろう。
「そうだ、挨拶だけで帰るなんてつまらないだろう? きみに伝言を頼むよ」
「何でしょうか」
「近々、拠点を変えるつもりなんだ。最近、たまになんだけれど、眷属たちがここに人を集めていてね。少々騒がしくなってきたから」
眷属というのは、きっとこの少年が吸血鬼にした者たちのことだろう。
さっき案内してくれた青年もそうだろうか。
「いくつかピックアップするから、その中から決めてくれと伝えてくれる?」
「我々が決めても構わないんでしょうか?」
「ああ。だって、僕らを監視しやすい場所のほうが良いだろう?」
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