第9話 桔梗9

「ああ、えと、失礼ですが……?」


 小説を書くかと聞こえたけれど、そんなはずはないだろう。念のため聞き返してみる。


「小説は書かれるかしら? と申し上げたの。本当はエッセイや日記が良いのですけれど」

「はあ」


 唐突すぎたので、聞き間違えではと思ったのだが、そうではなかった。


「でも、あなたのお立場では、日々あった出来事は書けないでしょう?」

「はい、まあ。あの、それはどういう……」

「そのままの意味です」


 貴婦人は微笑んだまま目を閉じる。綺麗に伸びた睫毛が見えた。


「わたくし人が好きなんです。人が起きて食事をして、仕事をしたり勉強をしたり、嬉しいことや悲しいことがあって、ふふふ、いろんなかたの、そういう生活を見守りたいの。わたくしにはもう、縁のないことですから」


 閉じられた目蓋が開く。

 私はずっとその睫毛を見ていたから、まっすぐに視線をとらえてしまった。


 さまざまな色が混ざり合ったような複雑な瞳の色だった。


 何色なのか見定めよう。

 座っているのに、瞳を覗き込みそうになる。

 向こう側に落ちていきそうだ。

 向こう側とは?


 だめだ。

 今度は自分が目を閉じる。


 きっとこれはだめなやつだ。


 スリルは魅力的だけれど、あとあと面倒なことになる。そこから普通に戻るのは現状維持よりも大変なのだ。


 急に目を閉じて、失礼ではなかっただろうか。

 自分の手元を見ながらゆっくりと目を開ける。


 貴婦人のほうを見ると、変わらずに微笑んでいる。

 一連の動きをずっと見られていたと思うと恥ずかしい。

 私は誤魔化そうと、背後に控えているお手伝いさんのほうを向く。


「あなたも書いてらっしゃるんですか?」


 お手伝いさんは、自分が話しかけられるとは思っていなかったらしく、目を大きく開き、それから貴婦人のほうを見た。

 お伺いを立てたのだろう。

 そして頷く。


「はい。何度か」

「え? 本当ですか? それは……凄いですね」


 冗談のつもりで尋ねてみたのだが、彼女は本当に誰彼構わず小説を書かせようとしているのだ。


 これは断っても大丈夫だろうか。

 文章なんて卒業論文くらいしか書いた覚えはない。報告書を書くのだって苦労しているのに。

 お手伝いさんの場合、雇い主から小説を書けと言われたから、書いたのだろうけれど。


 私の場合はどうなのだ。

 仕事のうちだろうか?


「この子のは、掃除の仕方からお花の手入れまで、一つ一つが事細かに書いてあって、それがね、パラニュークみたいで素晴らしいの」

「恐れ入ります」

「ふふ、また書いてくださる?」

「はい、いずれ、また」


 お手伝いさんは照れた笑いを浮かべていて、母親に褒められた子供のように見えた。

 少しほっこりとしていると、貴婦人は私のほうを向く。


「あなたも、考えておいてね。もちろん、報酬はお支払いいたします」

「あの、公務員は副業は禁止されておりまして」


 うまい口実を見つけた。これで私は大っぴらに断ることができる。


「あら、話さなければ大丈夫でしょう?」

「そういうわけには」

「真面目なかたなのね。残念だわ」

「すみません」

「そうねぇ、でも、ええ、諦めたわけではありませんから、いつでも、書いて持ってきてくださいませね」

「はい、その際は必ず」


 ちょうどコーヒーも冷めてしまったので、お暇することにした。


 席を立つと、貴婦人も立ち上がる。


「また、お伺いします」

「ええ、楽しみにしております」


 お辞儀をして、貴婦人に背を向けて歩き出す。するとすぐに呼び止められた。


「あなた鏡を持っていらっしゃる?」

「いいえ、すみません。持ち歩かないもので」

「そう、あなたまだご存知ないのね」


 貴婦人は意外そうに言った。それから残念そうに眉を寄せる。


「でも、これから先は持つようになります。そう指示されるでしょうから」

「はあ」

「ふふふ、でも置いて帰られないでくださいね」


 意味がわからないまま頷き、もう一度お辞儀をすると温室を後にした。

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