04.

 

■04.紫煙色の研究 -A Study in Blue Smoke-



   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇


 シャーロック・ホームズは、私と相部屋になるという話に乗り気になったように思えた。

「ベーカー街に目をつけている部屋があるんだ」彼は言った。

「ふたりで住むにはピッタリだ。君、強い煙草の匂いは気になるかな?」


 ――” I always smoke ‘ship’s’ myself. ”――

「私もいつもは――“シップス”――を吸っているよ」私は答えた。


 <シャーロック・ホームズ第一長編

   『緋色の研究-A Study in Scarlet-』第一章より>


   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇




 ゆっくりと紫煙を秋風に流しながら、ほむら先生は言った。

「まずは君の推理を聞かせてもらおうかな?」


 やれやれと苦笑いしながら俺は話し始める。

「俺が小さい頃に読んだ本には――“シップス煙草”――と翻訳されていましたね。

 直前のホームズ達の台詞から――当時流行していた“匂いが強い煙草の銘柄名”――とかだろうと想像していました」


 ワトソン博士は本作中にて――‘ship’s’――とわざわざ表記している。

 執筆者が『引用符-クォーテーション・マーク-』を用いて強調するような”特別な単語”は、意訳が困難である事も多いだろう。だが、それでも”カタカナ英語”で直訳するのは「翻訳」の意義としてどうかと思うなぁ……。

 ほむら先生も同じ意見なのか、紫煙をプカッと強めに吐き出した。


「それは感心できないね。傑出した蔵書は愛され続けるが、されど時代は遷ろうものだ。傑出した蔵書は国境を越えるが、されど国境を消せるわけではない。それぞれの時代、それぞれの国において”読者”の時代的・文化的知識の差異を理解した上で、執筆者の真意を伝える…――それが『翻訳』というものだよ」



 俺は頷きながら話を続けた。

「その後、別の出版社では――“海軍煙草”――と和訳されているのを見つけました。

 最初に読んだ時は、英国”陸軍”に所属していた元軍医のワトソン博士が、どうして“海軍煙草”を吸っているのか…――とても違和感を覚えましたね。ただ、ワトソン博士は負傷した際に”軍隊輸送船オロンテス号”に乗って帰国しています。その時に海軍支給の煙草を入手していても不思議じゃないかな……と、後から考えました」


「五〇点!―”Good!”―」ほむら先生が言った。

               「七五点か!―”Excellent!”―」


「一見すると、ホームズの『煙草の匂いは気にするかい?』という質問に対して、ワトソンの『海軍煙草を吸っている』という回答は不自然にも思えます。しかし…――”同居人となるルームメイトを探していたホームズへ、知り合いから紹介してもらうワトソン博士”――という『物語の背景-シチュエーション-』を考えれば、納得できると俺は考察しました。

 同居生活ルームシェアを検討する上で、ルームメイトとなる”同居人”の社会的身分の確認は重要です。退役直後で当時”無職だったワトソン博士”は、少しでも同居相手となるホームズの信頼を得るために――『私も喫煙者だから気にしないよ』と質問に答えつつ『私は元軍人だ』と暗に示したかったのではないでしょうか」


「満点かな!―”Perfectly sound!”―」



 俺の”考察”を聞いて、ほむら先生は満足そうに微笑む。

 ちなみに、いま先生が言い並べた『五〇点!―”Good!”―』『七五点!―”Excellent!”―』『満点!―”Perfectly sound!”―』という台詞は…――おそらく三作目の長編『バスカヴィル家の犬-The Hound of the Baskervilles-』の冒頭における、ホームズ達の会話の”真似事”パスティーシュであろう。

 名探偵ホームズがワトソン博士に対して、依頼人の忘れ物である”杖”から持ち主を推理してごらんと述べる。そしてワトソン博士の”推理”に対して、名探偵ホームズが評価する…――そんな一幕だ。

 当初、各出版社はホームズの台詞『Good!』『Excellent!』を――『いいね』『お見事だよ』と和訳していた。

 もちろんこれは”英語の意味”としては間違っていない――だが。

 後にこれらが欧米学校の成績評価『Good(まあまあ)』『Excellent(いいね)』に通じるものだったと分かると…――近年の邦訳本では、先ほどのように『点数』で和訳表現する事が多くなった。

 他国の文学作品を翻訳するのは、かくも難しい……そんな好事例である。

 ちなみに上記の会話は、『ホームズとワトソン』の人間関係が『先生と生徒』に近かったのではないか――と考察するシャーロキアン達の論拠にもなっている。以上、余談である。


 いやいや、さてそれは置いといて……。

 ここでの問題は…――なぜ先生が『バスカヴィル家の犬』の表現を用いたのか、だ。

 ほむら先生と俺は、文字通り『先生と生徒』なわけだから”人間関係の示唆”ではない。それならば…――



「ほむら先生には、翻訳的に”別の答え”があるんですかね?」



 ほむら先生は眼を輝かせると、興奮を抑えるように”パイプ煙草”をころころと手のひらで遊ばせた。

「ふむ。君は日本人が――“海軍煙草”――と聞いた時に、何を想像すると思うかな?」


「そうですね……やはり第二次世界大戦中に旧日本軍が支給していた――“軍用煙草”――でしょうか。平時は嗜好品として兵営内の酒保でも販売されましたが、戦時は士気に関わるとして、兵器・食糧と同等の扱いで軍管轄の支給品になったと聞きます。また、天皇陛下が陸海軍に賜った“恩賜の煙草”に至っては、嗜好品と言うより栄誉の品といった感じで…――あれ?」


「うむうむ。それらを踏まえて『緋色の研究』冒頭の会話を想像してみたまえ」




   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇


ホームズ『君、強い煙草の匂いは気になるかな?』

ワトソン『私は栄誉ある海軍煙草を愛用しているけど気にしないよ(どや)』


   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇




「……ワトソン博士が、超イヤな男になっちゃいますね」


「それだと世界中の”愛好家-シャーロキアン-”が悲しむよ!」

 ほむら先生は優しく高笑うと…――音楽を奏でるように”謎解き”を始めた。


「ワトソン博士が述べた『シップス―‘ship’s’―』の意味には諸説あってね…――。

 君が最初に述べた――“匂いが強い煙草の銘柄名”――という説もたしかにあるんだ。一部のシャーロキアンの研究家は、当時実在したオランダ製の強い混合煙草、その銘柄名『シッパーズ・タバク・スペシャル』に類似していると推理したらしい。だが、これは”ただの偶然だ”とする向きもあるね。

 他には、君の推理した――“海軍煙草”や“船乗り煙草”――という説だな。当時の船乗り達が愛用した――“ロープ煙草”――というのは“クセの強い安物の煙草”の代名詞で、英国海軍も船員に支給していたらしい。読者が“クセの強い安物の煙草”だと想像できるように、ワトソン博士がその場で作った”造語”だという説だね。

 さて、以上の考察に共通するのは――”匂いが強い煙草”――を表現するものだとう考え方だ。これはまず間違っていないと私は思うかな。さらに言えば、当時のワトソン博士が無職で困窮していた状況も鑑みると…――翻訳面で言うならば、軍人が吸う『海軍煙草』と表現するよりも、労働者層の荒くれ者が吸う『船乗り煙草』と邦訳した方が、日本の読者には――“クセの強い安物の煙草”――を想像しやすいかもしれないね。私なら“安物の船乗り煙草”と翻訳するかな?」


「なるほど、ワトソン博士はホームズの質問に対して――”私もクセの強い安物の『船乗り煙草―”Ship’s”―』を吸ってるぐらいだから気にしなくて良いよ”――という意味で答えたのか。それなら会話の流れとしても自然ですね」

 俺が素直に感心すると、ほむら先生は照れ隠すように頬を掻いた。


「いやいや、”ルームシェア”という居住文化に着目した『海軍煙草による身分証明』という君の”推理”は非常に素晴らしかった。今日の語らいはとても有意義だったよ!」


 ほむら先生がホクホクと御満悦そうに笑う。

 まあ、それなら良かったですよ。

 それじゃあ、そろそろ遅刻しちゃうから、ゼミの集合場所に行きましょ…――



「ところで、君は――”あれ”――が、なにか気にならないかい?」



 俺が、煙草の吸殻を灰皿に放るのとほぼ同時に…――

 ほむら先生は、礼拝堂チャペルの裏手側をスッと指差した。


 俺の視界に見えたのは…――”礼拝堂チャペル会館”だった。

 礼拝堂チャペルに隣接して、ひっそり隠れるように築かれた建物であり、”聖職者-チャプレン-”と呼ばれる職員の事務所であり、先ほど述べた”チャペ団”の活動拠点だ。窓の灯りと、わずかに聞こえてくる賑やかな声が、”聖夜祭クリスマス”企画の準備の活況を感じさせる。

 しかし、特に気になるような点は無いけどなぁ……。


 ほむら先生の顔をチラッと見ると…――

 パイプ煙草を握る手を「もう少し下を見てごらん」と言わんばかりにチョイチョイと動かした。


 ……なるほど見つけたぞ。

 ”礼拝堂チャペル会館”の軒下に、何やら””のようなモノが落ちている。


 もう一度、ほむら先生の顔をチラッと見ると…――

 凛とした瞳を少し見開いて「何をしているのだね!」と可愛らしく眉根を寄せる。

 ああ、あれを持って来てくれたまえ――という意味だったのか?

 やれやれと思いながら、俺は”礼拝堂-チャペル-”会館の軒下へと向かうと…――その”落とし物”を拾い上げた。


 ふむ。どうやら『靴』というよりは、小学生の頃に履いていた『上履き』といった感じだな。

 布製の履き物で、爪先が少し尖がっている。何だか”道化師-ピエロ-”が履いていそうな代物だ。爪先の中には、何やら”布袋”が入っていて…――と、ここで俺はようやく先生の”意図”に気づいた。


 その”落とし物”を手に持ったまま俺が戻って来ると…――

 想像通りと言うべきか、ほむら先生がニヤニヤと好奇心旺盛に微笑んでいた。




「ひょっとしてほむら先生は、これが――“シャーロキアンの落とし物”――だと思ってますか?」




   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇



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