第3話 お近付きになりたくない人たちと事象

 その夜の帰宅途中のこと。


 たまにはどこかで食べて帰ろうかと思っていたのに、全然仕事が終わらなかった。そのせいで、最寄り駅についた時には行こうと思っていたレストランのラストオーダーの時間を過ぎていた。しかたがないから、閉店間際のスーパーに駆けこんで半額になったお弁当を買う。

 料理に関しては嫌いではない私だけど、こうも疲れてると自炊する気にはなれない。食べてくれる人がいるならまだしも、ひとりだとどうしても気力がわかない。冷凍庫の中の作り置きも今日は食べる気になれなかった。

 どんよりとした気分のまま、なんとなくいつもと違う道を歩いて家に向かう。本当だったら人通りの多い道を行くところ、その時は「気分で」としか言いようがないくらい無意味に裏道を選んだ。

 そこは小さい頃によく遊んだ池の近く。確かほとりに小さな祠があって、近所のおばあちゃんがいつも掃除してお供え物をしてたのを覚えている。あのおばあちゃんが亡くなってからだいぶ経つけど今は誰がお世話してるんだろう。

 ここを曲がれば、池の前――というところで、突然正面から飛び出してきた男に抱きしめられた。


「おわっ?!」

「キャアッ! なっ、なに?!」


 痴漢だ、と思って悲鳴を上げる。男は慌てたように眉をひそめ「しーっ!」と立てた人差し指を唇に当てて、それから私の肩を抱いたまま困惑したような顔をした。


「え、なんで? 人? 人間? や、待って」

「人間って当たり前じゃない! なに言ってんのよ、放してっ!」


 振り払おうとするけど、力が強くてびくともしない。平手打ちでもしてやろうかと手を振り上げようとしたところで、男がハッとした顔で後ろを気にした。


「ちょ~っとごめんね」


 言うなり男は私を強く抱きしめる。


「いやっ! やめてくださいッ!」


 本当に痴漢だ、気持ち悪い! そう思って突き飛ばそうとした私の髪をなにかがかすめた。髪が一房、パラリと落ちる。一瞬で体がこわばる。


「……え?」

「っぶねえな! こっちに飛ばすなよッ」


 男は自分がやってきた方角に向かって叫ぶ。恐る恐る後ろを向くと、壁に尖った石がめり込んでいた。

 ――なに、これ。

 心臓がバクバクいってる。これが今、当たりかけた……の?


「知るか。避けろよ」


 壁で死角になっている向こうから声がする。


「てかさあ、少年? どうでもいいけど、ヒト入って来てんぞ、ヒトぉ!」


 良いのかよ、と言う男にまた向こうからイラだたしげな声が答える。


「はぁ? 人が入って来てるって、ンなわけないだろ」

「ウソついてどうすんだよ。ホントだっつーの」


 まだ私を抱きしめたまま、男は誰かと話している。髪を切られたのと、少しでもズレていたらあの石が自分に当たっていたのだというダブルショックで腰が抜けそうになる。思わず目の前の人にしがみつけば「お?」とびっくりしたような声がして間近に顔を覗きこまれた。あまりに近い顔に驚いて身体を反らせると、両肩に手を置いてまじまじとこちらの顔を見た男は大声を出す。


「……あ。あ――ッ!?」

「なんですかっ!」


 突然叫ばれて不愉快さも限界になり、勢いで男を突き飛ばす。両手を上げたままのポーズで私を上から下までじろじろと見たそいつはにんまりと笑みを浮かべた。

 正面から見たその顔は、パッと見モデルかなにかやってるんじゃないかと思うくらいには整ってる。でも、絵に描いたような軽薄さが張り付いてていかがわしい。それに、どんなに格好良くても痴漢だなんて気持ち悪いったらありゃしない。意味のわからない微笑みを浮かべて眺められ、背筋がゾワゾワと寒気立った。

 改めて見ると、態度だけじゃなくて服装もちょっと普通じゃない。ジャンルで言うなら、パンクかな。くすんだ暗い赤のレザージャケットに揃いっぽいレザーのパンツ。少しだけ長く伸ばされた銀髪の右サイドは三つ編みになってるし、首元には太い革のチョーカー。あまりこの辺りでは見かけない格好だ。

 ――もしかして、コスプレ?

 あまりお近付きになりたくないタイプに見える。そもそも、痴漢かもしれない男をじっくり観察している場合じゃなかった。逃げなきゃ。


「んーと、あのさ」


 そそくさとその場を立ち去ろうとすれば男が話しかけてくる。無視しようとしたのに、ご丁寧にも足を向けかけた方向へわざわざ移動してまた声をかけてくる。本気で邪魔で仕方がない。


「いつもだったら人間なんて放っておくんだけどさ、君は特別、ね」


 パチンとウィンクされて、また鳥肌が立つ。


「ここ、危ないから逃げといてくれるかな」


 逃げといてもなにも、私が逃げようとする先をふさいでるのはアナタでしょうが!

 イライラして睨むけど、男は全く堪えた様子もなしに笑顔をみせる。 


「ほら、今攻撃されたでしょ?」

「攻撃?」


 しまった。無視するつもりが、日常生活で聞くことのない単語に思わず反応してしまった。その服装で攻撃とか言うだなんて、もしかして虚構と現実の区別のついてない人? ヤバすぎる。

 ますます不審人物を見るような目になるのに、相手にそれが通じることはない。それ、と男が私の背後を指す。視線を移せば、そこにはさっき刺さった石がそのままになっていた。


「ヒッ」


 悲鳴を噛み殺せば「当たんなくて良かったね」と男は軽い調子で言う。

 ――……うーん。これを攻撃というなら、確かに攻撃かもしれない。なんて思って、すぐにハッとする。

 いやいやいや! シッカリして私。この男に流されちゃ駄目。これは車かなにかに飛ばされた石の破片が飛んできただけ。ただの偶然の産物だ。そうに決まってた。

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