第2話 忍び寄る気配_3

 ――翌日、駅前カフェのオープンテラスにて


「あれ、伽奈ぁ?」

「真希、おはよ」


 おはよう、と言ったものの時間はお昼。塾講師をしている私の朝は、一般的な会社員よりも遅い。その分夜も遅いのだけど、学校が終わってから生徒たちが勉強しに来るのだから仕方のないことだ。


「ここ、空いてるよね」


 声をかけてきたのは仕事仲間の柳尾真希やなぎおまき。彼女は向かいの席に荷物を置くとさっさと座った。もしかしたら誰か来るかもしれないのに、いつものことだけどちょっと強引だ。 

 悩みもせずに日替わりランチを注文した真希は、両腕をテーブルについて覗きこんでくる。オムライスを食べながら見返すと、彼女はきれいに整えられた眉をひそめた。


「顔色悪くない? 寝不足?」

「うん、ちょっとねーえ」


 部屋の電気を消すと、ケトルの中の顔だとか廊下の影だとかを思い出してしまった。慌てて電気をつけたけど思い出してしまったものは消せない。目を閉じるのも不安になって、そんな理由での睡眠不足だ。


「……ってことがあって」


 昨晩のことをかいつまんで話せば「なにそれ、怖い。ホラーじゃない!」わあっ、と声を上げた真希は少し楽しんでいるようにも見える。大袈裟に仰け反って見せた動きに合わせてショートの髪が揺れる。


「今までもそんなことあったの?」

「あったら住んでないよ」

「じゃあ急に?」

「昨日が初めて」

「えー、なにやったの伽奈ぁ」


 だなんて、興味津々なのを隠しもしないキラッキラの目で見てくる。他人事だからってちょっとヒドい反応ではないだろうか。むくれた私をよそに、真希はランチプレートのサラダをザクリとフォークに刺した。


「なにもしてないってば」

「本当? まあ、でも一晩だけのことかもしれないし、そんなの心配しなくても良いかもねぇ」

「かもしれない、ってやめてよ。あんなのが続くなら引っ越さなきゃいけなくなる」


 家賃もお高くなくて仕事場にも比較的近くて、コンビニも徒歩五分以内に三件ある。スーパーだって駅から帰る途中にあるし、マンションの見た目も名前も気に入っているのに引っ越すのはもったいない。


「ねえ、もしもその心霊現象っぽいのが続いちゃったらどうする?」


 聞いてくる真希はやっぱり楽しそうだ。


「続いちゃったらって、ええ~……あれ続くの?」

「知らないけど。でも、もしまた怖い思いするようだったらお祓いとか行くぅ?」

「御祓いって縁起でもない、やめてよ。もう、他人事だと思って!」

「他人事だもーん」


 そんなことを喋りながらランチを終えてカフェを出たところで、やたらと人目を引く男性の姿が飛び込んで来た。


 日本人ではない、というのも視線を集める理由の一つかもしれない。けど、それ以上に、180センチを軽く超える高身長に整いすぎている顔が乗っていればいやでも目立つ。眼鏡の奥、少しタレ目がちな深いブルーの瞳が動いて私たちを見た。


「こんにちは、カナさん、マキさん」


 彼は流暢な日本語で言うと、免疫のない人間はぶっ倒れるんじゃないかと思うような完璧な笑顔を見せる。現に、カフェのテラスからはカップをひっくり返したような音がした。この男性、名前をアンドリュー・スミスという。で、先月から同じ塾で働き出した仕事仲間でもある。担当は、いうまでもなく英語。


「アンディ、相変わらずだねぇ」

「あいかわらず、とはなんですか?」


 こんなキレイな顔の隣を歩くのは気が引けるから、間に真希をはさむ。彼女の好みはかなりガッチリな筋肉質の男性らしいので、すらりとしたアンディは管轄外のようだ。だからって彼と平然と話している姿はちょっと尊敬してしまう。私なんて、どう頑張ってもこの人の隣でそんな平気な顔していられない。緊張してしまうもの。


「アンディは、歩くだけで老若男女関係なく落としてくんでしょ?」

「ははは、そんなことはしていませんよ」

「してるって、多分してる。そんなだと付きまとわれたこともいっぱいあると見たね」


 どうだ、と真希に見上げられたアンディは左上を見る。うぅん、と唸ると「記憶にはないですね」肩をすくめた。その仕草も嫌味なくらいにサマになってる。


「絶対覚えてないだけだってぇ!」

「私はマキさんが思っているほどモテないですよ。それに、愛されるならただひとりから深く愛されたいです」

「うっわヤッバい! ねえ伽奈聞いた?!」


 ツンツンと肘でつつかれて、こくこく頷く。

 聞いた。聞きました。モテ男の余裕としか聞こえない発言いただきました。

 しかも、その台詞を胸に手を当ててうっとりとした表情で言っちゃってる。これが直撃したら、タイプとかタイプじゃないとか関係なく落とされそうな気がする。


「アンディって、本気になって落とせなかった子いるの?」


 ふと疑問に思ったことをたずねてみると、アンディは苦笑いを浮かべた。


「いますよ。そんなのはいつもです。私はいつもふられてしまいますからね」

「「ええー!?」」


 思わず真希とハモる。そんなことは絶対ない! と思うのだけど、美形には普通の人間にはわからない苦悩があるのかな。その顔は、謙遜しているようにも嘘をついているようにも見えなかった。


「ところでカナさん。なにか悩み事ですか?」


 会話が途切れたところで、アンディが尋ねてくる。彼を見ると、少し心配そうに眉を寄せていた。


「どうして?」

「顔色が悪いです」

「そう?」


 彼にまで見抜かれてしまうほどに疲れた顔をしているのかしら。頬を押さえそうになって、そんな仕草は余計に心配されるだけだろうと判断して、やめる。心霊現象のことをアンディにまで話す必要はない。そう判断して適当に笑ってごまかそうとしたのに、なぜか真希が全部話してしまった。

 しかも面白おかしく脚色されてる。

 その内容に絶句した彼はきゅぅと眉を寄せ、困ったような顔になった。


「カナさんの家って、ええと、なんて言いましたか。よごれ物件……ですか?」


 アンディの言葉に、汚れ物件とは? と疑問符が浮かぶ。

 汚部屋という意味ではなさそうだけど……なんて思っている私の隣で「ああ!」声を上げた真希が笑った。


「もしかして、事故物件のこと? 前にその部屋でなにか事件があった、みたいな」

「それです! ……そうなんですか?」

「違うよ! 多分」


 そんな話は不動産屋から聞いてない。住みだしてからもう一年半経つし、昨日までは変なことなんてなに一つなかったんだから。全力で否定した私に、真希はにやにやしながら口元を押さえる。


「でもさあ? 事故物件って、間に誰か住んでたら通知の義務ないんじゃなかった?」

「もー、嫌なこと言わないでよ!」

「そういうの調べられるサイトあるよね。調べたげようか?」


 そんなことを話しているうちに塾につく。今日もなんの変哲もない日が始まって終わる、はずだった。

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