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「おうい。もう教室しめるぞ。さっさと片付けろ」

 半紙から顔をあげると、教室の時計はもう夜も八時を回っていた。蛍光灯の黄ばんだ光、汗混じりに垂れる前髪を分ける。うっすら熱を帯びた肩を回した。

 見回りにやってきた顧問の先生は不機嫌を隠そうともしない声で、

「聞いとるか」

「はい。すみません。すぐ片付けます」

「頼むぞ。俺もあんまり暇じゃないんでな」

 今年赴任してきたばかりの若い先生だ。人気にんきのない(人気ひとけもないけど)書道部の顧問を押しつけられたのに不満があるようで、授業中にもコトあるごとにグチをこぼしているらしい。なんでも、サッカー部のコーチがやりたかったんだとか。

「すみません先生、まだちょっと終わらなくて。着替えも」

「また結構かかるのか」

 先生は出来の悪い生徒に向けるような苦笑いを浮かべる。私がこっくり頷くのを見て、さらに苦々しげに吐きだされる溜息。

「……わかった。じゃあ鍵渡しとくから。片付け終わったら鍵かけといてくれ。その開いてる窓もちゃんと閉めとけよ」

 ペコペコと頭を下げながら鍵を受けとる。私のせいじゃないけど、どうも肩身が狭い。

 先生を見送って、言われた通り窓に向かう。夏の夜とはいえ八時過ぎの外はもう真っ暗だった。教室から漏れでる蛍光灯の光が寂しそうに夜へと染みだしていく。

 サッシに手をかけたところで、私はもう一つ光の灯った教室があることに気づいた。

 視線を下ろす。ひっそりと佇む旧館の二階、ぼんやりと夜の闇から切りとられていたのは美術室だ。焦げ茶色の木目床には色とりどりに絵の具痕が点々と散っている。

「……まだ、残ってるんだ」

 木製の丸椅子に腰かけて、うんうんと貧乏ゆすりを繰りかえす上履き。角度のせいで足先しか見えないけれど確信があった。こんな時間まで残るのは彼女くらいのものだろう。

(名前はたしか、ナツメさん?)

 孤高の美術部員。そんなイメージ。彼女が誰かと話しているのを見たことがない。

十秒ほどその光を見つめてから窓とカーテンを閉める。

 一通り習字用具を片付けて、ジャージの裾に手をかける。『登下校は制服で』。クタッとしおれたワイシャツに袖を通す。膝丈のスカートをクチリと留めてからジャージのズボンを下ろした。

 教室を出る前にもう一度窓の鍵を確認して電気を消す。美術室の電気もちょうど消えるところだった。

 コウン。縦長にこもる鍵の音。

 慣れない目で廊下を歩く。階段にも電気は点いていなかった。踊り場の窓から差しこむ月明かりを頼りにゆっくりと歩を進める。やがて、ほのかな明かりが階下から差してくる。本館に続くピロティにはまだ明かりが灯っていた。

本館の昇降口に向けて歩いていると、背後からパタパタと人の足音が聞こえた。ナツメさんだ。私は緩めた歩調で耳を澄ませた。

 私よりもずっと足音のペースが早い。人を寄せつけない早歩き……だけじゃなくて、彼女が女子のなかでもとりわけ背が低いのも理由の一つだろう。私の胸の高さを、そのボサボサ髪が追いぬいていく。ぎこちなくなびく髪からは、香水や制汗剤の代わりに絵の具の匂いがした

 美術室の床を真似したみたいに点々と絵の具の滲むまだらのジャージ。元は学校指定の紺色ジャージだけど、彼女のそれは赤も緑も混じりあって、まるでそれ自体が一つの作品のように見えた。

 『登下校は制服で』。生徒指導の声が空耳する。そういえばナツメさんが制服を着ているところを見たことがない。

 下駄箱のすのこがこもった音を響かせる。

学校ってこもった音ばかりだ。

沈んだ後の太陽みたいにほの暗い明かりが昇降口全体を心許なく照らしていた。



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