奇跡のくせに

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 校庭から運動部のかけ声がこだまする。野手の声、フォワードの声、監督の声。E高、E高、E高……。午前中までは降りしきっていた雨も止んで、窓の向こうには薄水色の空がのぞいていた。

 一つ上の階から響くのは管弦楽部の演奏だ。ちょっぴり下手くそなその演奏は、しかし最後の演奏会へ向けて、一丸となった熱意がひしひしと伝わってくるものだった。


(『青春』。『青春』ってやつ?)

「ふん」


 自然と頭に浮かんだ二文字に自嘲が漏れる。

 それは私なんかには似合わない、眩しい言葉だ。

 中学の頃のあだ名は『ぬり壁』。大柄で鈍くさい体。整えてもすぐ暴れだすクセっ毛。ヤボったく分厚い唇。ニキビだらけの頬は自分で見てもイヤになる。……スキンケア? やってるよ。残念ながらね。

 タン。タタタタン。タタタタン。

 刻まれはじめた管弦楽部のリズム。

 ショォウ。ショオウ。ショ。

 私がる墨のリズム。

 それらはあまりにちぐはぐで、居たたまれなくなった私は目を閉じた。指先、磨る墨のリズムに集中する。力をこめちゃいけない。

 『墨を磨るは病夫の如く』という言葉がある。墨を磨るときは病人のように力なく、墨の重さだけで磨ること。

 今の私にピッタリだ。

 十、二十。墨を回すにつれて、少しずつ──爽やかながらにどこか粉っぽい、墨特有の香りが部屋の空気を満たしていく。

(冬ならこれくらいでもいいんだけどね)

 一滴の水を加えて、さらに墨を磨る。梅雨明けの湿気にたわんだ半紙にのせるにはもう少し濃い方がいい。艶だった雫は墨に回り、しだいに陸に線を描く。墨ができた。筆をとる。

(さ、何書こうかな)

 海に沈めた筆先が深い墨を吸いあげる。

(そうだな。『永久』、でいこう)

 一画目に向けて筆を伸ばす。力強く点を打つ。

(永字八法。基本のキ)

 そっと半紙を押さえて筆を持ちあげる。

(いいね。上出来)

 半紙の隅に滴った汗を指で軽くはらう。筆を永の字から引きあげて脇に立てかけた。エアコンのない七月の社会科教室はまさに蒸し風呂の体だった。正座を解いて立ちあがる。南向きに据えられた窓に向かう。

「……暑い」

 普段は神経を尖らせている独り言も、この部屋でなら好きに呟いてしまえる。ぽつねんと半紙を広げる私を気にする人は誰もいない。

 県立E高書道部の部員は三年生の私だけだった。仲間はいない。後輩もいない。だから私は、自分のために筆を振るう。

 十月に開かれる文化祭。私が作品を残せる最後のチャンス。

建付けの悪い窓を拳二つ分開ける。すぐに初夏の風がスウっと吹きこんできた。空気の一滴一滴が冷たく心地良い。襟元をくすぐるように回ってから部屋の中を満たしていく。

 私のいる南館三階からは遠く県境の青々とした山並みがよく見わたせる。視線を遮るものはほとんどない。その手前には目新しくもない一面の田んぼが緑色の絨毯のように広がっていた。

 バパパ、ボ、パパ。

 ちょうど小休みを挟んでいたのだろう、階上のオーケストラが息を吹きかえす。我に返った私は窓際に降りそそぐ日差しから身を引く。日だまりと私の足元の影とのコントラストがいやにはっきりと浮きあがった。

 じっとりと汗をかいた背中。窓から吹くのはいつの間にかのろのろとした梅雨の風になっていた。汗ばんだ首筋にネトリと纏わり、この部屋にこもっていく。



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