*桜木はるの回想3*

 これは、僕が6歳の頃の話だ。


 この頃の僕は今ほど悲観的ではなく、自分の力で困っている人を助けられると、愚直にも本気で信じていた。


 その日は母の付き添いで、近所にある歯医者に来ていた。


 母が治療を受けている間、僕はひとり窓の外を退屈な目で眺めていると、泣きながら歩いている女の子が見えた。


 僕と同い年ぐらいで、大きな声で泣いているわけではなく、下を向きながら、しくしくと涙を流している様子だ。


 僕の頭の中には、駆けつけるという選択肢以外なくて、衝動的に歯医者を出た。


 女の子を横目に見ながらも、歩く足を止めない人や、何度か振り返る人もいたけれど、誰ひとりとして、足を止める者はいなかった。


 初めから見向きもせず、何事もないように歩き続ける人もいたが、そんな彼ら彼女らの行動を糾弾するような感情は、当時の僕の中にはなかった。


 当時の僕には。


 駆け足で女の子に近づき、僕は声をかけた。


「どうして泣いてるの?」


 女の子の身長は、同い年の子と比べて、対して高くはない僕の身長と同じくらいだった。


 顔を上げて、目を真っ赤にして、彼女は言った。


「お父さんと……お母さんが、どこにも、いなくて……」


 言い終えると、女の子はさらに涙を流し、小さく声を漏らしながら泣いた。


 どうやら、両親とはぐれてしまったらしい。


 両手の手のひらで、涙を拭う彼女に僕は言う。


「大丈夫! 僕が一緒に探すよ。絶対に見つけてみせるから。だから、泣かないで」


 当時の僕は、行動にも言葉にも迷いなんてなくて、困っている人がいたら助けるのが、当然だと思っていた。


 もちろん、今だって困っている人がいたら、助けたいという思いが無くなったわけじゃないが、この頃の直線のような真っ直ぐさは、失ってしまったのだと思う。


 よく言えば、注意深く。


 悪く言うならば、消極的に。


「本当に?」


 女の子の不安な表情が、徐々に希望の光を取り戻す。


「もちろんだよ。ほら、行こう」


 瞳が潤んだ彼女の前に、僕は左手を差し伸べる。


 彼女の手が僕の手を握ったのを確認して、僕たちは歩き出した。


 その少女の名前を知ったのは、それから2年後のことになる。

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