第2話 残花の色ー7
菖武の父親たちと、ヨシノさんたちが去った後、僕たちはまだ動けずにいた。
彼ら彼女らの向かった方向を見たまま、動かない桜花を横目に僕は空を見上げる。
雲はあれど、未だ空色は顕在で、眩しい陽光を地上に届けている。
天気予報では夜7時ごろから雨が降るらしいから、いずれこの暖かな太陽も黒い雲に覆われてしまう時が来る。
雨量はわからないけれど、涙は必ずこの地に降り注ぐ。
険しい表情のままで、佇んでいる彼女は今、何を考えているのだろうか。
菖武のこの先の行く末か、それとも、ヨシノさんのことか、いや、その両方かもしれない。
正直、彼女が何を考えているのかは、どうでもよかった。
ただ、僕はこの沈黙の時間を恐れていた。
彼女のことを深く考えだしてしまうから。
考えることは大切だと思うし、僕はどちらかと言えば、熟考を好む方だ。
けれど、今は深く考えることを拒みたかった。
彼女は、ヨシノさんと同じ鬼なのかもしれない。
いや、確実に鬼なのだろう。
彼女が鬼なら鬼で、僕はそれで良かった。
問題は、彼女が鬼だった場合の僕らの先──未来だ。
おじさんがひとりの女性を待ち続けているように、僕にも同じことがきっと起こる。
今日会うことができたのは、本当に奇跡的なことで、おそらく次はもう……
だとしたら、僕はこの後、彼女とどう接するのが正解なのだろうか。
僕らに待ち受けているのは、悲劇的な結末しかないのなら……
ほらね。
こんなことを考えて、あらゆることまで深くまで掘り下げてようとしてしまうから、結局身動きが取れなくなる。
一朝一夕で出来上がった心構えなんて、鍍金同然で、すぐに剥がれ落ちる。
──踏み出すことを諦めるんじゃねえぞ。
思考のまとまらない僕の頭の中で、おじさんの声が聞こえたような気がした。
そうだよ。
待っているのが、悲劇でもいいじゃないか。
あの時、こうしていれば良かったんじゃないか、という動けなかった後悔を残す方が、一番の悲劇だ。
僕は持っていたテーラードジャケットの袖に腕を通す。
声をかけるタイミングを伺うために、彼女に顔を向ける。
風が桜花の髪を撫でるように吹き、彼女の髪が小さくなびく。
僕の目に映っている桜花の佇まいは、凛とした雰囲気を感じさせ、思考を奪い去るほど綺麗だった。
刹那、彼女の顔がこちらを向き、桜花の目と僕の目が合う。
先ほどまで険しかった彼女の瞳から、大きな瞳へと変わる。
お互いの目が大きく見開いたのは、ほぼ同時だったと思う。
僕らは数秒見つめ合うような状態になる。
胸が熱くなるような感覚がして、鼓動も速くなっている。
それなのに、見惚れてしまう。
なんだこれ。
僕は急いで目を逸らす。
「ごめん! 見入っちゃって」
なんだ、この気持ちの悪い謝罪は。
言ってから、後悔する。
彼女の方に視線を戻すと、彼女はそっぽを向いたまま、
「う、ううん。こちらこそ、ぼーっとしちゃってて、ごめんなさい」
と、言った。
気持ち悪いと思われたよな、と心の中で肩を落として、僕は言う。
「それじゃあ、改めて行きますか」
歩き出そうとすると、桜花は僕を呼び止める。
「待って、はる君」
「どうしたの?」
踏み出した右足を戻し、再び彼女に視線を戻す。
桜花が俯く。
「桜花……?」
彼女は顔を上げ、切なげな声音で言う。
「さっきの話……はる君のご両親のこと。力に、なれないかな?」
桜花は躊躇うような表情から、菖武にしたような強く、それでいて優しい目を僕に向けた。
僕は小さく首を左右に振り、彼女の心を傷つけないように、細心の注意を払った言葉選びと、声音で言う。
「ありがとう……嬉しいよ。でも……気持ちはとても嬉しいけど、この問題だけは、僕ひとりで何とかしたいんだ。
これだけは、どうしても譲れない。だから、ごめん……」
これは、心からの本音であり、踏み込ませないための言葉だった。
僕の抱える問題についてどんな話し方をしても、逃げの選択をしていると思われることは必至だからだ。
実際、逃げているのは事実だけれど。
僕のことを嫌悪し、明確な憎悪を抱いたあの人と話し合うなんて選択肢は、僕の中にはもうない。
仮に言葉を交わすことができたとしても、あらゆる感情が、あの人自身の行いを肯定するだろう。
つまり、話し合いにはなり得ない。
けれど、これは他方から見れば、きっと、「そう決めつけているだけ」と思われるかもしれない。
背景を知らない、客観視しただけの言葉はお互い損をするだけだ。
いや、実際に見てないんだから、僕の気持ちがわかるわけないでしょ? とか。
他人の意見を聞かない頑固者、と思われたりとか。
いちいち否定することも、そう思われることも面倒に感じる。
実際にそのやり取りをしたわけではないけれど、想像のできる可能性だからこそ、避けたい。
自分の負の感情の矛先が、少しでも気にかけてくれた他者に向かってしまうなんて、最悪だ。
だから、自分で何とかするしかないんだ。
話し合いにならない、なら、もう距離を置くしかない。
それに必要な要素は、話術や他者に何とかしてもらう方法を模索することじゃない。
自分の心を保たせる習慣と術を持っておくことと、解放されるための道のりを具体的かつ綿密に考え、小さな石を積み上げていくことだ。
正攻法だけが、問題を解決するわけじゃない。
逃げていると思われたっていい。
三十六計逃げるに如かずということわざだってある。
「無理……してない?」
桜花の優しい言葉に、涙がこみ上げそうになる。
彼女との再会で、一度開いてしまった涙腺ゲートは、どうやら少しの衝撃で開いてしまうらしい。
「大丈夫。してないよ」
そう言って、僕は作った笑顔を見せる。
これで引いてくれと、願いを込めながら。
「……そっか。わかった」
彼女の言葉に安堵していると、桜花は僕の左手を両手で握り、胸の前まで持っていき、願うように目を閉じた。
桜花の手の温もりが冷たい僕の手を温める。
まさか、僕に魔法を?
そう思ったけれど、僕の身体に何も変化はなかった。
「どうしようもなくなったら、私を思い出して。はる君はひとりじゃないから」
僕が目を大きくすると、開いた彼女の瞳と合う。
「力不足かもしれないけどね」
と、自嘲するような笑みを見せたので、僕は全力でかぶりを振り、
「そんなことない。本当に心強いよ。ありがとう」
心からの感謝をした。
本当にありがとう。
この先、人生で行き詰った時、彼女の言葉を何度も思い出すだろう。
そう思った。
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