*桜木はるの回想2*

 これは、僕の心が一番疲弊しきっていた時の話だ。


 その頃の僕は、中学2年生だった。


 中学2年生に上がったと同時に起きた出来事に、酷く落ち込み、愛という不確かなものに、明確な敵意と嫌悪を抱いていた。

 

 その年の新年度は確か水曜日から始まったはずだから、それから3日後──土曜日に僕はおじさんのお店に訪れていた。


──傷ついて足を止めたくなる時が来るかもしれないけど、そん時はここに来い。


 かつて聞いたおじさんの言葉だけが、疲弊しきった僕の身体を動かした。


 3月27日以外でおじさんのたこ焼き屋に来たのは、後にも先にもこの日だけだ。


「いらっしゃい、って、ボウズか。珍しいな、3月以外で来るなんて」


 もう数回顔を合わせているし、最後に会ってから1週間ぐらいしか経っていないというのに、おじさんの顔を見れなかった。


 この時の僕は、人を信じることも、接することさえも、これまで以上に恐怖心を感じていた。


 それすらにも、嫌悪感を覚えていたのだと、思う。


 それなのに、僕がおじさんのお店を訪れたのは、何かしらの答えが欲しかったからだ。


 前に進むためではなく、しっかりと絶望することのできる答えを求めて。


 今にして思えば、俗にいう思春期特有に訪れる「厨二病」と呼ばれるものだったのだと、思う。


 何も信じたくない。


 世界は汚れている。


 けれど、美しいものが──綺麗な本物がどこかにあるのだと信じたい。


 でも、そんなのは、ただの幻想で、あるわけがない。


 そんな思考が頭の中でせわしなく、ひたすら繰り返される。


 夢想と焦燥を抱えた悲劇的な自分の心根など、誰にも理解できるものか。


 この頃の僕はそんなふうに思っていた。


 きっと、「厨二病」の根底にあるのは、積み重なったわだかまりで、その渇望を誰かによって、受け入れてもらうことを願うことなのかもしれない。


「あっちの公園で祭りがやってない時は、土曜日でも全然人来ねえから、まあ、ゆっくりしてけよ」


 そう言って、おじさんは僕がいつも座る席を引く。


 椅子を引いた時に出た振動の伝わってくるような音が、特に異変があるわけでもないのに、この時の音は今でも耳に残っている。



「よお〜しっと。今すぐ焼くからよ。少し待ってな」


調理場へと入っていくおじさんの大きな背中を、疲れ切った目で追い、視線を下に向け、ラーメン屋のようなカウンター席に着いた。


 表情を見なくても、僕の異変に気づいた様子であることが、おじさんの声音から伝わった。


 おじさんは、たこ焼きを焼いている間、いつものように口を開くことはなかった。


 毎年聞いていて、1週間前にも聞いたたこ焼きを焼く音も、今日は別種の音に感じる。


 違いなどあるはずはないけれど、黒色のテーブルに視線を落としながら、沈黙の中で聞くそれは、会えなくなった少女を僕に想起させた。


──見て! はる君! 歩くだけでも、こんなにも綺麗なものがたくさんあるんだよ!


 脳内で聞こえてきた、かつて感動したはずの彼女の言葉にすら、疑念を抱いている自分がいた。


 俯いた顔を少し上げ、レジ横にある1本のオレンジ色をしたラナンキュラスを見る。


 いつだったかは覚えていないが、花瓶に入れらた異彩を放つ花について、聞いたことがあった。


 小学校高学年ではなかった気はするから、それより以前だとは思う。


 なぜ、あの優しい雰囲気をした花が、1本だけ入り口に置いてあるのかという理由は何となく理解していた。


 ただ、花の名前や花言葉などを知りたくて、おじさんに聞いた。


 おじさんは多くは語らなかったけれど、活発に咲くオレンジ色の花について話をしてくれた。


 花の名前は、ラナンキュラスということ。


 オレンジ色以外に、赤、ピンク、黄、紫、緑、白があること。


 そして、花言葉を教えてくれる際、その花が置かれている理由を少しだけ語った。


──オレンジのラナンキュラスの花言葉は、秘密主義なんだそうだ。その言葉通りのやつだった。俺はそいつがここに来るのを待ってるんだ。ボウズと同じだな。


 鰹節の香ばしい匂いが、ソースとマヨネーズに混ざり、僕の鼻に届き、現実に意識を戻す。


「はいよ。お待ちどうさん」


 調理場から出てきて、落とされた僕の視線に、舟皿に乗せられた出来立てのたこ焼きが映る。


 いつもは、透明のパックに窮屈そうに包まれて潰れていた鰹節が、湯気を放つ生地の上で、踊るように揺れている。


 食欲を駆り立てるはずのその匂いにも、新鮮な光景にも僕がよだれをたらすことはなかった。


 おじさんは、僕の隣に腰を下ろした。

  

「食わねえのか?」


 せっかく作ってくれたのだし、おじさんの気持ちを考えれば、出来立てを食べないなんて失礼に値する行為だ。


 けれど、箸を握ることすらも億劫に感じていて、僕は重く感じた口を開く。


「……ごめんなさい。食欲が、わかなくて……」


 言った後に、たこ焼きが美味しそうに見えない、という意味に聞こえてはいないだろうかと、後悔したけれど、それならそれでいいと開き直っている自分がいた。


「そうか」


 そう言ったおじさんの声に、怒りの感情は混ざっていなかった。


 しばらくの間、沈黙が続き、その間も鰹節は揺れ動く。


 視線を下に向けたまま、僕は口を開く。


「あの、おじさん……愛って、何なんですかね?」


 前置きも何もなしに本題に入ろうとする僕は、我儘な子どものようだ。


「なんだ? 好きな子でも出来たのか?」


 今はそう言った、的外れなからかうような言葉が、心の底から煩わしくて鼻でため息を吐く。


「……違います」


 僕は顔を上げ、レジ横に置かれた、オレンジ色のラナンキュラスの花に視線を移す。


「僕はもう、誰かを好きになれない気がします」


 それは、本音だった。


 もし仮に、恋愛感情を誰かに持ったのだとして。


 僕がその先を望むことは、おそらくない。


「どうしてそう思う?」


 僕は少し間を置いて、言う。


「愛とは酷く歪んでいて、身勝手なものだと思うから……です」


「歪んでいる……か。ボウズの言う通りだと俺も思うよ」


「え?」


 そんなことはない、愛は素敵なものだ、とか。


 恋をしたことがないからだ、とか、とにかく否定されると思っていた。


 意外な肯定に僕はこの日、初めておじさんの顔を見た。


 おじさんは左の肘をテーブルにつき、拳で頬杖をついている。


「身勝手なものだとも思うよ。愛なんてもんは、ほんの些細な傾きで、人を狂気に変えることだってあるしな。独占したいだとか、裏切られたとか、な?」


 僕はその言葉を聞いて、自分の心の中を見透かされたような気がして、僅かに心臓の鼓動が速くなる。


 ここへ来るまでの人生で人に向けられてきた、敵意と嫌悪の目が頭を過った。


「でも、そんな負の面だけじゃねえとも思うんだよ」


 おじさんは少しの沈黙を挟み、言葉を続ける。


「これは、俺の主観だが、愛ってやつはさ……そいつを型にはめず、その日その日で更新されていくそいつを知りたいと、心の底から思うことだと、俺は思うんだよ」


 彼は僕の後方に視線を移したので、僕もその視線の先を追う。


 そこにあったのは、ラナンキュラスの花。


「あいつは、そういうやつだった。


 人の負の面をしっかりと知っていて、でも、信じられる部分があると、自分の目で確かめようとしていた。


 今のボウズと同じ、怯えるような目でな」


 僕の疲れ切った目が大きく開く。


 視線をおじさんに戻すと、優しい微笑を僕に向ける。


「人は良くも悪くも変わっていくもんだ。


 容姿も考えも。


 今見えているものだけが、すべてじゃねえんだよ。


 でも、だからといって、今感じていることは無駄なわけでもねえ。


 大事なのは、その変化に目を向けられるかだ」


「変化……?」


「そうだ。


 俺はあいつともう何十年も会ってねえ。


 俺の中じゃあ止まってんだ。


 あいつの姿も……どんなやつだったかも……」


 過去を懐かしむようなおじさんの表情で言った。


「……」


 おじさんの言った言葉は他人事ではなくて、桜花を待ち続けている僕と重ねていた。


「会えることを諦めねえのは、変わらねえけどよ。


 次会った時、あいつの何かが変わっていたら、比較するのは過去の記憶になる。


 そもそも、変わったという発想自体が既に比較を生んでるわけだ。


 俺は、それをもったいねえなって思うんだよ。


 また新しい部分が知れる。


 ラッキーって、そう思うんだ」


 おじさんは言葉を続ける。


「けどな。


 他の人間全員に対して、無理に変化に目を向ける必要はねえ。


 ただ、絶対に止めることだけはするな。


 それをしちまったら、ボウズ自身の足を止めることになっちまうからな。


 なあ、ボウズ。


 俺がボウズに初めて会った時に、足を止めそうになったらここへ来いって、言った後の言葉を覚えてるか?」


「うまいたこ焼きを好きなだけ食わしてやる」


「違う、そこじゃない」


「えーっと……」


 僕が記憶を呼び起こそうとすると、おじさんは言う。


「踏み出すことを諦めるんじゃねえぞ。そう言ったんだよ」


 そうだ……


 言っていた。


 なんで、そんな大事な言葉を忘れていたんだろうか。


「小さな1歩でも良いんだ。止まったとしても、歩きだせりゃ良いんだよ。


 小さくたっていい。だから、今日ここへ来たボウズは確かに前に進んでる」


 前向きな言葉なんて、求めていなかった。


 けれど、上辺ではないとわかる彼の言葉が、乾いてすさんでいた心に再び潤いを与えてくれた。


「間違ってねえから、胸張って歩いてりゃいいんだよ!」


 そう言って、僕の背中を叩いた。


 予想以上に強く、僕はむせる。


「けほっけほっ」


「おお、悪い。強く叩き過ぎちまったか」


 背中に感じる温かさは、痛みから来ているのだろうけれど、僕にはおじさんの優しさの温度だと思った。


 ここへ来た理由も、質問の意図も話さないでいる不誠実な僕に、足を止めない理由をくれた。


 背中めっちゃ痛いけど、これはそんな僕への罰だと思った。


「まあ、愛ってのは、結局人それぞれにあるもんだからな。観光地とか、このたこ焼きと一緒だな」

 

「えっと、どういう意味です? 観光地とたこ焼きにどんな関係が……」


 僕は目の前のたこ焼きとおじさんの顔を交互に見る。


「観光地の写真とか映像とかは、行かなくても見ることはできるだろ?


 でも、観光地の良さってのは、何もその有名な場所だけじゃなくて、写真や映像にねえ部分に本当の面白さや感動が、隠れてたりするもんだ。


 それを知るには、足を運んで、自分の目で実際に見てみるしかないだろ?」


 人や場所、ものにも偏見だけで判断するな、ということだろうか。


 おじさんの言おうとしていたことが、わかってきた時、僕の口にたこ焼きが入れられる。


「んむっ……」


 吐き出すわけにはいかないし、このまま話すのも行儀が悪いので、ちょうどいい温度になった、たこ焼き生地を咀嚼する。


 すると、今までに感じたことのない味が口に広がり、僕は驚いて目を大きく開く。


「たこ焼きも写真や、味のレビューもあるが、そいつの舌に合うかどうかは、実際に口にして見るしかねえ。俺も止まらねえんだ。明太子はどうだ?」


 口に広がるピリッとした辛さが、おじさんの作る秘伝ソースと混ざり、甘辛い新しい調味料へと姿を変え、僕の口の中を幸せにする。


「美味しいです……とても」


 おじさんは白い歯を見せて、笑う。


「そら良かったよ」


「メニューに入れないんですか?」


「イベント日以外の限定メニューなんだよ。あと、混雑時を除いたな」


「それは、残念です……」


 僕のために用意してくれたたこ焼きを完食し、最後にはいつものように、軽い雑談をして、僕は店を後にした。


 おじさんは、隠しメニューの明太子たこ焼きをサービスしようとしてきたけれど、僕はしっかり断り、代金の500円を払うことに成功した。


 おじさんのサービスを断ることができたのは、今のところ、この日だけだった。


──見て! はる君! 歩くだけでも、こんなにも綺麗なものがたくさんあるんだよ!


 その日の次の目的地を決めながら、自転車を漕ぐ僕の頭の中で、かつての彼女の言葉を反芻した。

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