第2話 残花の色ー6

 彼が泣き止むまでに、どれくらいの時間が経過したのだろう。


 その間、菖武たち以外が口を開くことはなかった。


 彼が今まで、ひとりでため込んできた悲しみの涙が、流れきったであろう時、菖武は泣き疲れて眠ってしまった。


 菖武の父親の胸の中で、小さな寝息をたてている彼の横顔には、もう恐怖はないように見えた。


 しばらくの静寂の後で、桜花が何かを決心したような表情をし、静かに口を開く。


「私の両親は……私が7歳の時に亡くなりました」


 突然の桜花の告白に僕たちは視線を向ける。


 その衝撃の事実に、僕は鳥肌が立っていた。


「とても優しくて、本当に大好きでした……」


 桜花は涙を見せず、楽しかったことを思い出すみたいに、優しく微笑んでいた。


 目を閉じて、彼女は言葉を続ける。


「こうして目を閉じると、お父さんとお母さんのことを鮮明に思い出すんです。私の記憶の中にいる両親はいつも笑顔なんです。笑顔以外の表情もたくさん見たけど、それでも……やっぱり笑顔だった時のことを思い出します」


 桜花はゆっくりと目を開き、菖武の横顔に目を向ける。


「私は、菖武君が大きくなった時に、思い出すお父さんとお母さんの顔が、笑顔であって欲しいです」


 本当に彼女のいう通りだ。


 もし、このまま菖武の家庭問題が解決せず、彼が大人になった時、記憶の中にいる両親の表情は笑顔だろうか。


 笑顔の可能性は0じゃないと、思う。


 菖武が勉強を頑張り、無事に両親の期待に応え、喜んでもらえた未来があったのなら、彼が思い出すのは笑顔かもしれない。


 飴と鞭という言葉がある通り、菖武は今までの痛みを忘れてしまえるぐらいに、両親の行いを肯定できてしまえるぐらいに、喜びで満ち溢れるかもしれない。


 じゃあ、その先ではどうだろうか。


 自分の現状に不満を持つことがあるかもしれない。


 いつか負の感情が勝り、確かな軽蔑と嫌悪を両親に向けることがあるかもしれない。


 そうなったら、思い出した両親の表情は笑顔だろうか。


 こんなの考えても答えはでない。


 わかるのは、彼が死ぬ時だから。


「菖武君を本当に愛しているというのなら、お互いが笑顔でいられる家庭環境を作ってください。いつ誰が……一生会うことができなくなるかわからないから……」


 そう言って、彼女は微笑んだ。 


 それは、自嘲のような悲しい笑みだった。

 

 なんだか、まじまじとその笑顔を見てはいけない気がして、僕はスーツ姿の女性に視線をずらすと、下唇を噛みしめて、眉間に皺を寄せていた。


 きっと、彼女の境遇に同情してくれているのだろうと思った。


 曇った桜花の表情を、少しでも分かち合えたら。


 そして、菖武の家庭環境が少しでも良い方向へと向かってくれたらと思い、僕は言う。


「実は、僕の父親は、僕が7歳の頃に母と僕を捨てて、家を出ていきました。母が言うには、浮気をしていた女性のところに行ったそうです」


 今度は僕の方に視線が集まり、顔が熱くなる。


「そんな父のことを恨んでいないと言えば、嘘になります。そのせいで、僕は今も母から嫌われていますから。僕の顔に父の面影があるようで、父が出ていった日に、頬を叩かれたのを今でも思い出します」


「こんなのは、親の気持ちを知らない、子どもの戯言なのかもしれませんけど、せめて菖武君には、彼女が言った、お互いが笑顔でいられる家庭環境を作って欲しいと思うんです」


 菖武の父親は目を大きく開き、下を向く。


 桜花は僕のパーカーの袖を弱々しく掴んだ。


「はる君……」


 桜花の方が辛い経験をしたというのに、こんな時まで優しい。


 僕も彼女のように、そうなれたらと思った。


「お互いが笑顔に……か。そうだね、本当に……」


 菖武の父親は眼鏡を外し、涙を流す。


「私は……何をしていたんだ……この子のためだと言いながら、菖武をこんなにも傷つけて……気が付かなかった。見えなくなっていた……本当に。菖武が、君たちが気づかせてくれた」


 充血した目で僕らを見る。


「ありがとう……過ちに気づかせてくれて……妻と一度話してみるよ。もう菖武を傷つけないように」


 その瞳の鋭さは強かったけれど、最初に会った時に感じた攻撃的な鋭利なものではなかった。


「「はい」」


 僕と桜花は口を揃えて、返事をした。


 菖武の未来が光の方へ向かって欲しいと、そう思いながら。


 彼女もきっと。


「あ。君たち、名前は?」


 僕と桜花が顔を揃えると、


「ああ、言いつけたりしないから、安心してくれ」


 と、彼は冗談っぽく笑い、それにつられて、僕たちも微笑んだ。


「春野桜花です」


「桜木はるです」


 僕と桜花、それから菖武の父親の視線が、スーツ姿の女性に向けられる。


「え? あたしも?」


「もちろん」


 彼女は躊躇うような様子で、「う~ん」と一度唸り、ため息を吐く。


「……ヨシノ」


 観念したように、名乗る彼女は幼く見えて、ギャップを感じた。



「春野さんに、桜木君、それから、ヨシノさんだね。この名前は絶対に忘れないよ。君たちは僕の──僕たちの恩人だ。本当にありがとう」


 彼は頭を下げる。


「桜木君。殴ってしまって、本当にすまなかったね」


 改めて、謝罪の言葉を受け、何だか申し訳ない感情を抱いてしまっていた。


 桜花に手首を強く握られ、ヨシノさんには首を掴まれて、本当に散々だったと思うし。


「い、いえ! 本当に気にしないでください」


 大丈夫というアピールに右頬を触って見せると、電気が走ったように痛覚が活動を始め、「いっつ……」という言葉が出てしまった。


「はる君!」


「本当に、すまない!」


 くっそー。


 強がれなくて、ごめんなさい、と心の中で、謝罪した。


「僕のことよりも、菖武君を早く暖かいところで、寝かしてあげてください」


 薄着で、靴下。


 よく考えたら──よく考えなくても、彼は菖武の両親から逃げ出して、ここに来ていたんだ。


 アスファルトに落ちたジャケットの存在を思い出し、僕は拾う。


 そのジャケットの件についても、菖武の父親は謝罪をしてくれた。


「それじゃあ、今日は本当にありがと──」


「待ちなさい」


 スーツ姿の女性が、菖武の父親に近づく。


 迫っていくパンプスの音に緊張が走る。


 まさか、彼女はまだ彼を許してなかったのか?


 想像する最悪の事態を頭に浮かべたけれど、すぐにそれが杞憂に変わる。


「これを菖武君の背中に貼りなさい」


 そう言って、ジャケットの右ポケットから、シップのようなものを取り出した。


「無香料のよく効く貼り薬だから、菖武君の怪我しているところに貼るといいわ。あ、剥がすのはお風呂入る前にね。それまでは、剥がさないように」


「ありがとう」


「いいえ」


 なぜシップを持っていたのかは謎だったけれど、心優しい人で良かった。


 菖武の父親は、少年を起こさないように、小さい歩幅で帰っていく。


 その背中が小さくなっていく中、少年の未来が明るいものであることを願っていた。


「さてと」


 ヨシノさんは、僕の右頬を左で優しく触る。


「君にも貼っとかないとね」


 ひんやりとした感覚が右頬に伝わる。


 それと同時に、先ほどまであった痛みが消えていく。


「え?」


「ふふ。よく効くでしょう? この貼り薬。お風呂入る時まで、剝がしちゃだめよ」


「あ、ああ、はい……」


 僕はこの驚くほど効く貼り薬から、記憶の中にあるひとりの女性の記憶が蘇る。


 眠たげな目と違和感のある言葉の区切り方が、印象的な女性を。


「それじゃあ、あたしはもう行くわ」


 右手を小さく振る彼女を、桜花は呼び止める。


「あ、あの!」


 ヨシノさんは、立ち止まり、桜花に視線を向ける。


 その表情は、何だか切ないように感じる。


「私たち……どこかで会ったこと、ありませんか?」


 桜花を見ると、緊張感が伝わってくる表情をしていた。


「……いえ。初対面よ」


 背中を向けて、ヨシノさんは言った。


「そう、ですか……」


「話がそれだけなら、あたしは行くわ。それじゃあ、また」


 ウェーブがかかった、彼女のアッシュブラウンの髪が風に揺れ、1歩、また1歩と離れていく。


 パンプスの音が遠ざかっていき、その音が聞こえなくなった頃、ようやく桜花は一言だけ言った。


「やっぱり、あの人とは、会ったことがある気がする」


 桜花は曇りと真剣さを混ぜたような表情をしたまま、見えなくなった彼女の方角に視線を向けている。


 その間、僕は考えていた。


 右頬に貼られたものの正体について。


 貼ったのはシップだが、あくまで形状がシップの形をしているだけだ。


 これは、いつしかこの目で見た、夢のような力。


 魔法だ。


──今の、は、魔法。なん、でも、できちゃう、自由な、力。


 脳内で蘇る赤い瞳をした女性の声。


 ヨシノさん。


 彼女は間違いなく、鬼だろう。


 そして、おそらく隣にいる彼女も……


 速すぎる足、強すぎる力。


 長い期間会えなかったこと。


 ばらばらだったそれぞれの要素が、ひとつの答えへと形を変えた。


 困惑しているはずの頭は、なぜか落ち着いていて、僕はおじさんのことを思い出していた。

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