第2話 残花の色ー4
怒りを足音で表しながら、男はこちらに近づいてくる。
「お、お父さん……」
菖武の言葉を聞いて、一瞥すると、怯え切った目をしていて、顔も青ざめているように感じた。
彼がお父さんと呼んだ男は、瘦せ型で、黒色の長袖シャツに白いチノパンを履いている。
髪は短髪のオールバックで、銀縁の眼鏡越しから見える彼の細い眼は、身震いをしてしまうほど、冷え切っていた。
桜花は着いていた膝を上げ、立ち上がる。
僕もそれに倣った。
「こんにちは。私たちは──」
「さあ、家に帰るぞ」
男は、桜花の話を聞かずに、早々に菖武の手を取ろうとする。
「ちょっと待ってください!」
呼び止める桜花の声に、菖武の父親は微動だにせず、冷たい声で言う。
「何か? 申し訳ないが急いでいるので」
勢いよく、それでいて、乱暴に菖武の手を引っ張る。
菖蒲に羽織らせたテーラードジャケットが肩から離れ、「あっ」と彼は手をのばそうとしたが、届かず地面に落ちる。
足を止めそうになった彼の手を、まるで犬のリードを引っ張るみたいにして、強引に手を引く。
「いたっ」
怯えきった表情に苦痛の表情を混ぜた彼が、僕の目の前を通過する。
その数瞬。
怯えながらにも、助けを求めるような弱々しい彼の瞳と、僕の目が合った。
期待と救済を求める目から、失望の瞳へと変わっていく瞬間を、僕は見逃さなかった。
先ほどから、うるさいくらいに荒々しく脈だつ心臓は、彼を助けたいという僕の衝動そのもので、身体というこの器が感じている恐怖のみが、動くことを拒んでいる。
こうしている間にもまた、心臓の音は強まっていく。
今にも、飛び出してしまいそうなくらいに。
助けたいという衝動と、恐怖を一緒に感じたのなら、どうやら僕は、恐怖を優先する腰抜けらしい。
彼の怯えた表情の中にある恐怖と、僕の中にある恐怖は天秤にかけるまでもなく、結果はわかってる。
そして、自分が何度も鏡の前で見てきた表情と、彼の表情が重なり、覚悟を決めるよりも先に、口を開いていた。
「ま゛」
何とか出した声は、冷静さのかけらもないもので、言葉ではなく、ただの大きな音だった。
そこに、僕に何ができるかという具体的で明確な答えは、含まれていなかった。
むしろ、自らその問いを捨ててすらいて、そこにあったのは、彼のために何をすべきか、という傲慢な思考だけだった。
身体全体が、熱を持ち始めている。
発表会かなんかで、大勢の前で話す時の感覚と近い。
公園に来る時には、心地よく感じていた春風も、今は気持ちが良いとは思えなかった。
菖武と出会ったのはついさっきで、彼の腹の底まで理解したというわけではないし、多くの時間をともにしたわけでもない。
そんな状態で、彼の境遇に対して、小さい頃の自分自身の姿を重ねるなんて、見当違いだ。
かつて、自分がされたくないことでもあったからこそ、自分がこれからしようとしていることが、余計に汚い行いであることに感じさせる。
けれど、それでもいいと思った。
誰に称賛されるわけでもない、正義とは呼ばないもの──汚い偽善でも、彼らの足を止めることができるのなら、それでいい。
彼らの足が止まったことに一安心し、僕は気恥ずかしさと、緊張を鎮めるために咳払いをする。
どんな言葉を投げれば、彼らの足をここに留めることができるかを、思考しながら。
「待ってください」
こちらを見る菖武の目と僕の目が合い、安心して欲しくて、小さく微笑みかける。
それから、彼の父親に視線を戻して、僕は言葉を続ける。
「子は……菖武くんは、あなた方の……所有物じゃありませんよ」
僕の発言に彼の眉毛が動く。
その言葉は自然と出てきたもで、僕自身の頭の中に、ずっとあったものだった。
子どもは、愛し合った者たちの愛の結晶だなんて言うけれど、僕はその考えが嫌いだった。
生まれる前には、子の意思はなく、自分たちの家庭の理想像だけを押し付けた、ただの傲慢だから。
子どもは、育成ゲームのキャラクターでも、アクセサリーでもない。
なら、子どもを産むまでの過程と、正しい育て方を知っているかと言われれば、もちろん、そんなものはない。
この考えが、多くの人に批判されるのは当然で、極端な暴論に過ぎない。
けれど、この持論は、生涯変わることのないものだと、僕は思う。
「いきなり失礼な子だね。君たち学生だろう? どこの高校だ?」
大人のやり方は知っている。
小学生が教師に言いつけるように、大人は学校に言いつけようとする。
実際にしなくても、抑止力としては十分で、学校に連絡したとしても、言いつけた側にリスクはない。
「○○高校です」
やましさを抱えているのは、僕の方ではないから、迷う事なく言った。
「はる君?」
小さな声で、僕を心配するような顔で見る彼女に、微笑み、小さく首を振る。目元が熱くなっているのは、誤魔化せていただろうか。
「そちらの子は?」
桜花に矛先を向けるわけにはいかないので、僕だけを標的にさせるために、僕と同じ高校であると、嘘をつこうとしたのだが、彼女の方が速かった。
「△△県立〇✕高校です」
彼女の口から出た高校名に、僕は驚いていた。
聞いたことのある高校だったとか、名門校だからとか、そういうことじゃない。
彼女が口にした高校が、想像よりも遠くの県外だったからだ。
この10年間、彼女と会えなかった理由に納得した。
「△△県立? そんなところからわざわざ? まあいいか。君のような学生がいると学校側が知ったら、さぞ残念がることだろうね」
菖武の話によれば、彼は二児の父親だ。
学生が今の時期は春休みであるということは理解しているからだろう。
彼女の言った高校名に対する話題に触れることはなかった。
何とか、彼の矛先を僕に向けなければならない。
頭の中で慎重に言葉を選んでいると、またも僕よりも早く彼女は口を開く。
「私のことを学校に報告するのは、構いません。でも、この人は──」
「別に構いませんよ、好きにしてください」
不本意だが、僕は桜花の言葉を遮る。
ここで、引いたら、彼の思う壺になる。
もともと、敗戦が決まっているのなら、賭けに出るしかない。
「ですが、無言で従うつもりはありません。あなたが菖武君にしたことを、しかるべきところに通報させていただきます」
スキニーパンツのポケットからスマフォを取り出すと、彼は鼻で僕を笑う。
「構わないよ。お好きにどうぞ?」
僕の想像していたよりも、彼は動揺を見せていない。
その様子に、自分がいかに子どもかを再認識する。
僕がしていることは、彼が僕たちを学校に報告しようとしていたのと、変わらない。
それに、通報することを菖武が望むとは思えないし、酷く傷つけてしまうことになる。
だから、このはったりで話し合う時間を作らせてほしかった。
通話アプリを起動し、ダイヤル画面で指を止め、菖武の父親に視線を送る。
「いいんですか?」
僕は児童相談所にかけるための3つの数字をうつ。
記憶していたのは、過去に僕自身が、母親のことについて相談しようと、考えていた時期があったからだ。
結局、今日までその番号に電話をすることは、なかったけれど。
「ええ。もちろん」
ここまで堂々とされるということは、この手はきっと通用しない。
少ない時間で、僕が考えることができた、たったひとつの作戦は呆気なく砕け散った。
「どうした? かけろよ」
先ほどよりも、明確にわかる攻撃的な言い方と、攻め立てるような彼の鋭い目に、狼狽しそうになる。
「そうですか。わかりました」
決して、彼に動揺を悟られないように振舞ってはいたけれど、いつだって身体は正直で、スマフォを握る僕の左手は、震えていた。
何か他に手はないだろうか。
焦りでうまく思考が回らない中、通話アプリを閉じようと指を動かしたが、震えているせいでホーム画面に戻ってしまった。
それでも別に問題はないし、今それをする必要はまったくないが、普段では見慣れすぎていて、逆に気づけなかったアプリが目に入る。
初期状態から入っている、録音アプリだ。
これだ……
「もういいかな? 僕たちは君たちのような学生と違って、忙しいんだ」
再び背を向けようとする彼を一瞥し、僕は左手の親指で録音アプリを起動させる。
悟られないように、スキニーパンツの左ポケットに入れる動作をしながら、開始ボタンを押す。
今にも離れそうな彼らに近づき、軽く膝を曲げる。
「ごめんね」
「え?」
僕は優しく菖武のシャツをめくり、背中を露出させる。
あざだらけの背中がそこにあり、僕は彼の父親を睨む。
「菖武君から聞きましたよ。このあざのこと」
僕はシャツを優しく元に戻し、曲げていた膝を伸ばす。
菖武の父親の表情が、攻撃的な表情から明らかに変わり、疎ましく思っているような態度を見せた。
「こんなの、愛情と呼べるものじゃない。理由をつけて、痛みを与えているだけのただの暴力じゃないですか」
これは、もちろん本当に思っていたことだが、僕は理性的に感情的になっていた。
菖武が振り返り、悲しそうな目で僕を見る。
その目はまるで、父親を責めないでくれと、僕に訴えかけているように見えた。
胸が締め付けられるような気持ちになるとともに、心の中で彼に言う。
わかってる、と。
「菖武から何を聞いたか知らないが、君たちには、関係ないだろう。我が家のことに口出すのはやめてくれないか?」
わざとらしいため息をはき、彼は言葉を続ける。
「大体、子どもに何がわかると言うんだ。親の苦労も知らないで。君の両親も、さぞかし子育てには苦戦しただろうね」
いかにも挑発じみた言葉だったが、そんなことでは、僕の怒りの感情に火をつけることはできない。
「あなたたちの思う通りに、成績が上がらないから暴力を振るうことの、どこが子育てなんですか? 本当に菖武君のことを思うなら、彼にあった勉強法を模索したらいいじゃないですか」
「君は馬鹿か。それでできないから、叩いてるんじゃないか」
「ということは、認めるんですね。ご自身がしたことを」
「は?」
初めて彼の細い目が大きくなる。
「今の会話、実は録音しているんです」
僕は、スキニーパンツの左ポケットから、スマフォを取り出す。
「は? 何を言って──」
「ほら」
──ごめんね。菖武くんから聞きましたよ。このあざのこと。
冒頭部分を流し、止める。
不安そうな表情へと変わる菖武に、小さく被りを振る。
「これと菖武くんのあざを見せれば、どうなるでしょうね。こんなの子どもの浅知恵に過ぎないでしょうけど、重要な証拠にはなります。でも……」
僕は一度言葉を止め、静かに息を吐く。
「できるなら、僕はこんなことはしたくありません。そこで提案があります。菖武くんに暴力をらふらないと約束してくれませんか? そしたら、僕は──」
「よこしなさい!」
男の手が、菖武の手を離れたと思ったら、スマフォを握られた僕の左手を掴んでいた。
次の瞬間、僕は右の頬に強い衝撃を受けた。
僕は彼に殴られた。
近い感覚の記憶が蘇ったけれど、それよりも痛みは強く、すぐに襲ってきた。
「はる君!」
桜花が大きな声とともに、駆け寄って来る。
「子どもが大人を舐めるんじゃない!」
響くような大声と、力強い鋭い目が、僕の恐怖心を再び呼び起こさせる。
すると、彼らの後ろから、女性の声が聞こえてくる。
「何をしているのかしら?」
そこには、黒のスーツを着た女性が立っていた。
赤のネクタイが印象的だった。
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