第2話 残花の色ー3
菖武には、8つ歳の離れた、4月から高校2年生になる兄がいるらしい。
兄は勉強ができ、誰しもが一度は耳にしたことがあるであろう、有名な高校に通っているそうだ。
その功績が幸か不幸か、ひとつの慢心と、非情な比較を生み出し、菖武の家庭を支配した。
兄以上に教育を厳しくすれば、もっと上に行けるのではないのか、と。
菖武は、現在、私立の小学校に通っているようで、僕からすれば、それだけでも十分すぎるほどに、すごいことだと思う。
けれど、彼はそのことを誇ることはなかった。
それどころか、自分は兄に比べて、飲み込みが悪いと、自分を責めてすらいた。
暴力を振るわれるようになったのは、兄が高校に受かった頃からで、1年以上も続いているそうだ。
親の思う通りに成績が上がらなければ、暴行を加えられ、問題が解けなくても叩かれる。
その他にも、菖武は起床から就寝まで、すべての時間を親に管理され、決められたスケジュール下で、彼は毎日を過ごしている。
遊ぶ時間は与えられず、休憩はトイレと飲み物を飲むぐらいの時間しかないらしい。
1日の大半を勉強で埋め尽くされている。
それだけでも、苦しいはずなのに、思い通りにならなかったら叩かれるなんて……
まるで、奴隷みたいじゃないか……
彼の話を聞きながら、そう思った。
驚いたのは、その話の中で、彼は両親や、兄を責めるようなことを一度も言わなかったことだ。
愛情があるからこそ、と、少年もそれをわかっているから、勉強をするのだと言った。
母親の「お母さんだって、本当はこんなことをしたくはないのよ。あなたのことを本当に思っているからこそ、愛しているからこそ、していることなのよ」という言葉を信じて。
愛……か。
愛なんて不明瞭で、様々なあり方が存在するものなのかもしれないけれど、歪んだ愛情以外のなにものでもない。
あなたを愛しているから。
聞こえだけは良い言葉で飾って、少年の心を蝕み、身体を傷つけている彼の両親に対して、僕の手はいつの間にか握り拳を作り、力が入っていた。
桜花の方に視線を向けると、怒っているような表情をしていた。
「僕が……もっと勉強を頑張れば、お父さんとお母さんは喜んでくれる……。前みたいに、きっと……」
絞りだしたような彼の声が、切なくて、歯に力が入る。
「そうかもしれないけど……」
その後に続く言葉は言わず、桜花は黙る。
彼女が言おうとしていたことも、なぜ言わなかったのかも、僕にはわかった。
菖武の抱えている問題は本当に酷いものだが、彼は暴力を振るう両親のせいとは、1度も口にしなかったからだ。
何度も僕が悪いんだと、自責し続け、今もなお、背負う必要のない責任を自分に科し続けている。
そんな彼に向かって、「酷い」なんて言葉を使うわけにはいかない。
もし、言ってしまったとしても、菖武はそれを否定するだろうから。
一体、菖武はこれまでに、1人でどれだけの痛みに耐えてきたのだろうか。
僕にも似た経験があるけれど、少年は僕と違い、目に見える傷を負っている。
それでもなお、両親を庇おうとしているその姿が、どうしようもなく苦しくて、悲しくて、胸が痛くなった。
正解も不正解もないこの世界でも、彼の両親の教育方針は明らかに間違っている。
多くの人に少年の話をしたのなら、彼の両親を責める人がほとんどだと、思う。
それぐらい、明確にわかる敵なのに、菖武は自分自身を敵として捉えている。
頭でわかっていても、それを実際に行動に移すことは難しい。
この世界に生きるほとんどの人間は、それができないというのに。
「話してくれて、ありがとう」
僕は素直にお礼を言った。
「……」
菖武は、戸惑っているように見えた。
今まで1人溜め込んできたものを一度に吐き出した彼は、なんだか後悔しているようにも見える。
それは、きっと事態が悪化し、少年か、もしくは彼の両親が傷つく可能性があるからだろう。
「菖武君は、本当はどうしたい?」
かつて僕がおじさんにそう言われたように、僕も菖武に同じ言葉をかける。
少年の抱えている問題は、僕が想定した通り、僕らの力を遥かに超えたものであり、僕たちでどうにかできる問題ではない。
僕たちが相手にするのは、大人だ。
これまでの学生生活やアルバイト、集められるおおよその社会の情報を通して、僕は年齢の壁の大きさを嫌というほど知った。
平等なのかもしれないし、不平等なのかもしれないこの世知辛い世界には、どうしても、比較は生まれてしまう。
平等であったとしても、対等はない。
それが、この世知辛い世界にこびりついた、絶対的ルール。
序列、役職、学年、年齢、実績、経験の差が、一定の距離を常に開かせ、対等から離れていく。
年齢の差とは、子どもと大人ぐらいの大きな壁だ。
大人が子どもを対等に話し合いをしないのは、経験の差があるからで、経験の伴わない言葉は、文字通りの子どもの戯言だ。
30代と20代を比べるのだって、30代と40代を比べるのだって、きっと同じだ。
絶対に追いつくことなく、同じ距離が開き続ける。
埋まることのないこの差を埋めるには、目に見てわかる確かな実績が必要になる。
だから、そんな大人と僕たちが戦ったとしても、勝負にすらならない。
少年の思いは確かに本物で、僕たちのこれまでにだって、嘘はない。
けれど、自身の経験をなぞられて、頭の中で描かれたものは、身勝手な都合のいい戯言へと、姿を変える。
それでも、彼の言葉次第では、僕たちに心から助けを求めるのなら、何とかしないわけにはいかない。
「僕は……」
「うん」
中途半端な期待をさせてしまうことほど、残酷なことはないのだと、僕は思う。
もし、僕らが少年を追いかけなかったら、少年は幸せになることができただろうか。
僕たちが少年を追いかけた選択が、少年を幸せにすることができるだろうか。
どちらも答えはわからない。
それがわかるのは、彼が死ぬ時だろうから。
結末がわからないなら、どちらでもいいなんてことはない。
彼を見て見ぬふりをして、傍観者であることが善行であるわけがない。
けれど、彼に同情して力になろうと、当事者になろうとすることもまた、善行とは呼ばない。
そう。
こんなのは、正義じゃない。
少なくとも、僕のは。
「僕は……痛いのは嫌だ。でも、勉強は頑張りたい。お父さんの……お母さんの……笑顔がみたい」
「そっか」
さて、これからどう事を運ぼうか。
失敗は確定しているようなものだが、できることなら、彼の傷は最小限に済ましたい。
だからこそ、綿密な計画を立てる必要がある。
と、思ったのだが。
「菖武! こんなとこにいたのか!」
僕たちは、一斉に声の聞こえた方向へ視線を向ける。
そこには、怒りを目一杯溜めたような表情をする、男性が立っていた。
そう。
いつだって、世知辛いこの世界が、自分の都合のいいように待ってくれるはずはない。
空にちりばめられた雲のひとつが光と重なり、地上が暗くなる。
怪しくなり始める雲行きに、心の中で大きなため息を吐き、また僕は静かに拳に力を込めた。
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