第2話 残花の色ー2
「あの人たち、知ってる人?」
桜花は優しい声で、少年に言った。
彼は少し間を置いて、首を弱々しく横に振る。
この少年に、どのような言葉をかければいいのか。
僕は言葉を考えつつ、彼の様子と背中のあざから、推測を立てていた。
まず、少年の背中のあざは、転んだり、何かにぶつかってできたものではなく、誰かによって作られたものであるということは、間違いないだろう。
加えて、男性の大きな声に怯えた様子で、桜花の袖を掴んでいる。
まるで、声にならなかった助けを、身体が体現したみたいに。
問題は、誰によって外傷を与えられたのかだ。
相手によって、その名称が異なるし、相談する相手も変わってくる。
けれど、推測した非情な問題が当たっていたとしても、彼に助けを求められたとしても、僕らでは力不足だ。
少年の話を聞いて、問題に寄り添ったとしても、解決に導くことができないのなら、それは、少年にとって、一番残酷な結末になる。
中途半端な希望が、どれほど心に深い傷を与えてしまうのか、僕は知っている。
だからこそ、僕たちは少年のためにも、撤退をするべきだ。
今ならまだ、傷は浅い──
少年のため……?
いや、違うだろ。
これは、僕のためじゃないか……
自分が、絶望を与えた側の人間になりたくない、という最低な理由だ。
そんな汚い自分自身を、心の中で糾弾しながら、桜花の表情を見て、僕の目は大きく開く。
彼の今にも泣き出してしまいそうな瞳から、彼女は目を背けることなく、真剣に、真っ直ぐに、強固な眼差しを少年に向けていた。
一切の淀みを感じさせない、力強く、優しい瞳で。
「大丈夫」と、一言、彼女は言った。
僕にとってその光景は、眩い光が黒い霧を晴らしているように見えた。
僕はなんて、馬鹿なのだろうか。
人を助けたいと思ったのなら、そこに迷いなんていらないんだ。
助けることができたら最高だが、助けられない最低もあるだろう。
救おうとした相手を、逆に傷つけてしまうかもしれない。
そこに恐怖がないわけじゃない。
けれど、傷つける覚悟を持たない者に、一体誰を助けることができるというのだろうか。
僕は自分の羽織っていたネイビーのテーラードジャケットを脱ぎ、桜花と同じように膝をつく。
体温が下がる感覚はすぐにやってきたけれど、彼に比べればどうってことはない。
ついた僕の右膝に、ズボン越しにアスファルトの冷たさを感じる。
脱いだテーラードジャケットを、震える少年の肩を覆うようにしてかける。
彼の震えは止まらずとも、寒さだけでも緩和できたらな、と思いながら。
少年の手が桜花の袖から離れる。
「名前は、なんて言うのかな?」
少年を少しでも怖らせないように、僕の中でできる1番優しい声音で、言った。
「……」
やはり答えてはくれないか、とそう思った時、彼は口を開く。
「
僕は答えてくれた嬉しさから、小さく口角が上がる。
頭の中で笹本の漢字はすぐに出てきたけれど、名前は対戦する時に使う漢字しか出てこない。
「……ショウブは、菖蒲湯の菖に武士の武と書きます」
これまでに漢字を間違えられてきたのだろうか。
彼は、僕の考えを読んだかのように、名前の補足をしてくれた。
珍しい漢字が名前にあれば、読み間違えられたり、書き間違えられたりすることも当然にあるだろう。
僕も彼に習って、名前を名乗る。
「そっか、ありがとう。菖武君か。とても縁起のいい名前だね」
彼が漢字の例えに出した菖蒲湯は、5月5日の端午の節句の日に、邪気を払うとされる菖蒲の葉を入れたお風呂のことだ。
また、端午の節句は、男の子のお祭りとされていて、武道を重んじるという意味を持つ、尚武の漢字を用いて、尚武の節句とも呼ばれている。
「僕は桜木はる。桜の木と書いて、サクラギ。ひらがなで、はる」
名乗った後に気づき、言葉を続ける。
「あ、菖武君は小学何年生かな?」
桜の漢字を何年生で習ったかは覚えていないが、低学年では習わなかったような気がする。
「小学2年生、です。4月からは、3年生になります」
しっかりとした受け答えに、多少の驚きを覚えつつ、言う。
「2年生だと、桜の漢字はまだ学校で習ってないかな?」
「学校で習ってない、けど、わかります」
彼の表情と声は、自慢をする時に見せるものとは違い、当たり前だと言いたげなものでもない気がした。
なんというか、丁寧さを無理やりに作ったような。
「菖武君、習ってない漢字ができるのすごいね!」
桜花が笑顔で菖武に言った。
「すごく、ないです……」
と、少年は俯き気味に言った。
その姿に多少の違和感を覚える。
「学校で習ってない漢字がわかるのは、すごいことだよ?」
「……」
照れている様子でもない彼が、どんな感情を抱いているのかを考えながら、僕は言う。
「うん。本当にすごいことだと思う」
「……ありがとうございます」
菖武は顔を上げることなく、少し小さな声で言った。
その様子を見て、謙虚とは違う、褒められることを拒んでいるように思えた。
「あ、そうだ。私は、春野桜花です。漢字は、季節の春に、野原の野と書いて、春野で、下は桜の花と書いて、桜花。よろしくね」
「よろしく」
僕も彼女に続けて言うと、彼は顔を上げてくれた。
「はい……よろしくお願いします」
彼の瞳からは、まだ心からの信頼を勝ち取れてはいないようだ。
「今が小学2年生ということは、菖武君は8歳か~。すごいしっかりしてるね」
桜花は優しく微笑んだ。
4月から小学3年生になる子の年齢が、8歳であることをすぐにわかった彼女に、よくわかったな、と思ったけれど、今は菖武にとって必要のない会話だと思い、心の中で留めた。
8歳……か。
「ねえ、菖蒲君。実はね、このお姉さんとはついさっき再会したんだ」
僕は言葉を続ける。
「会うまでにどれくらい時間がかかったと思う?」
少年は首を左右に振る。
「わからない」
「なんと、10年だ。僕らは今、18歳だから、今の君の年齢から今日まで、1度も会えなかったんだよ。すごいでしょ?」
この話題は、桜花の表情を曇らしてしまうのではないか、と思ったが、今は彼だ。
「うん。すごい」
少年の眼差しが、年相応の輝きを取り戻した。
「どうして会えなかったかは……まあ、簡単に説明できそうにないけど、菖武君がすごいと思うくらい、今日の僕は運がいいんだ。もしかしたら、ついてるのは、お姉さんの方かもしれないけどね」
そう言って、少し笑って見せると、彼の表情が少し柔らかくなった。
「でもね、どちらが運がいいかは関係ないんだ。重要なのは、僕かお姉さんが強運だってことなんだよ」
少年の顔が桜花の方に動き、それに対して、頷いて微笑んだ彼女を横目に、僕は言葉を続ける。
「どちらかが強運だからこそ、菖武君が抱えている問題の力になれるかもしれない」
自分で言っていて、なんて無責任な言葉なのだろうと思った。
けれど、僕は迷わない。
「もちろん、確実とは言えない。でも、菖武君の話を聞いて何かできる可能性も0じゃない。君が選んでいい。話したくないって、本当に思うなら僕は訊かない。でも、菖武君が、少しでも僕たちのどちらかにある強運を信じてくれるのなら、僕は全力で力になる」
「私も」
桜花の優しさに力を込めたような声音に、少年を助けたいという思いが、またひとつ強くなった。
菖武は少しの間を置いた後で、目に涙を溜めながら、震える声で僕たちに口を開いてくれた。
「お母さんとお父さんは、僕がダメな子だから、僕を叩くんだ……」
菖武の始まりの一言に、ことの全貌が詰まっていて、乾いた喉の音を鳴らさせる。
ほんのり冷たい風と青空に浮かぶ太陽の光で、心地の良い気温なはずなのに、僕の心を枯らす、ザラつきを含んだ乾いた風が、頬を撫でた気がした。
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