第2話 残花の色ー1

「おわっ」


 僕は驚いて、反射的に声が出た。


「はる君、大丈夫?」


「うん」


 人とすれ違う中で、遠ざかる少年の背中から目が離せなかった。


 もちろん、少年に怒っているわけではない。

 

 勢いよく走ってきた彼とすれ違う直前、息切れから必死さが伝わってきたからだ。


 友達と鬼ごっこをしていた、という可能性もなくはないだろうが、少年の形相からは、とても遊んでいたようには思えない。


「はる君。あの子、靴下で走ってる」


「え?」


 桜花に言われ、離れゆく少年の足元を目を凝らして見ていると、確かに靴を履いていなかった。


 どうして彼が靴を履いていないのかを、考えるよりも先に、桜花は言う。


「私、追いかけるね」


「ちょっと、え? あ、僕も━━」


 次の瞬間には、きめ細かな桜花の髪が目の前を通過し、彼女は前のめりの姿勢で走り出していた。


 ものすごい速さで、遠くに離れた少年に近づいていく。


「は、はやっ」


 彼女の常人離れした走力にまたも驚きながら、追いかける。


 これでも、僕は日頃から自転車に乗ったり運動をしているから、走るのには脚力には少し自身があったのだが、追いつける気がしないほど、彼女の走りは速かった。


 僕の呼吸が鼻から口に変わった頃には、彼女は少年に追いつき、「つかまえた!」と、脇を持ち上げ、少年を空中に上げていた。


 上がった息を整えながら、痛みを感じる左の脇腹に左手を当てて、桜花たちに近づく。


 桜花は息ひとつ上げていない。


 一方で、空中に上げられた少年はというと……


 大きな目をまんまるにして、瞬きを繰り返していた。


 たぶん、僕も彼と同じ状態だったと思う。


 百歩譲って、彼女の脚の速さや、息を切らさないのはわかる。


 どっからどう見ても彼女の身体は華奢なのに、一体どこに少年を軽々と持ち上げるような力があるというのだろうか。


 みたところ、彼は小学校低学年ぐらいで、持ち上げること自体はできるかもしれないが、おじさんがかつて僕したように、震えずに軽々しく持ち上げるのは、驚きだ。


 脳内で、筋肉ムキムキでサイドチェストをする彼女を想像してしまったが、すぐにやめた。


「ちょっ、離してよ!」


 暴れ出す少年に驚いた彼女の手が、彼の脇から離れる。落下しそうになる少年のお腹を、すぐさま彼女が抱きしめるような形で掴み、最悪の自体は免れた。


 外出するには少し寒そうな、少年の長袖の黒のシャツが捲れ、彼のおへそが見える。


 彼が彼女の腕を振り払うよりも先に、桜花が手を離す。


「あ、ごめ━━!?」


 彼がおへそを隠すために、急いで前かかがみになったことで、背中が少し見えた。


 桜花の言葉が止まるのと同じ速度で、僕の目は少し大きくなった。


 少年は僕たちの様子を見てか、それとも、春風が肌に当たる感覚がして、背中が少し捲れていることを理解したのかはわからない。


 そんなのは、どちらでもいい。


 とにかく、少年は見られたくないものを見られた時の表情をしていた。


 捲れた服を乱暴に直し、少年は俯く。


 露わになった彼の背中は隠されたというのに、先ほどの光景が僕の脳内に強く焼き付いて離れないでいる。


 あざだらけの背中。捲れた部分は少しで、きっとその傷も一部に過ぎないのだろう。


 傷ましい彼の背中に、おおよそ想像のできる選択肢が2つ頭に浮かび、心の中で深いため息を吐く。


 そのため息は、行き場のない勝手な僕の感情と、非情で世知辛い世の中を恨む、身勝手な厭悪を表したものだった。


 思い出したくもないけれど、忘れずに今もなお、残り続ける僕の過去を思い出させる。


 僕は口を開くどころか、より一層、閉じていた口を強めた。 


 彼女は膝に手を当てて、俯いた彼の顔の高さに目線を合わせる。


「えっと……いきなり追いかけたりして、ごめんなさい。びっくりさせちゃった、よね?」


 戸惑いを懸命に殺した様子で、彼女は言った。


 少年は何も答えず、俯いたままだ。


 その様子を気にすることなく、桜花は言葉を続ける。


「ねえ、靴はどうしたのかな? それに、背中のあざも……」


 やはり、少年は何も答えない。


「おい!」


 背後から男性の声が聞こえ、僕たちは肩を上げる。


 普段の僕なら、すぐに視線を声のした方向に向けていたと思うが、俯いたままで震えている様子の少年の姿に、目が留まった。


 桜花も僕と同じだったようで、表情から困惑が見て取れた。


 声のした方向を振り返ると、20代ぐらいのカップルだろうか。


 赤いベレー帽と赤いメガネが印象的な女性と、カジュアルスーツを着た長身の男性が、こちらに歩いて来る。


「それ4つ目じゃんか!」


「だってお腹空いてたんだもん。いいじゃん、少ししたらお昼食べるんだから」


「ええ……そりゃないっすよ〜」


 残念そうに肩を下げる彼を、女性はケラケラと笑っていた。


 あれは、おそらくおじさんのとこのたこ焼きだろう。


 もしかしたら、先ほどの列に並んでいたのかもしれない。


 だが、今はそんなことはどうでもいい。


 楽しそうに過ぎ去る彼らを横目に、再び少年の方に視線を向けると、彼は弱々しく、けれど、力強く桜花の袖を掴んでいた。


 過ぎ去った彼らは、僕たちに目を呉れる様子もなかったから、あの人たちが原因とは考えにくい。


 だとしたら、どうして少年はこんなに震えた様子なんだ? 


 男性。


 大人。

 

 20代。


 それと、大きな声……


 暗雲立ち込める雰囲気の中、雲ひとつなかったはずの空に、綿をちぎったような白が浮かんでいる。


 どうやら、僕と桜花は、何か大きな問題に足を踏み入れてしまったようだ。

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