*桜木はるの回想1*
10年前の3月27日。僕は偶然、大広場自然公園を発見した。
父親が家を出て行ってから1年が経過し、僕は小学2年生になっていた。4月から3年生になるので、今はそのための準備期間である2週間の春休みの最中だ。
この頃から既に、母親の仕事が休みのときは家にいないようにしていたため、よく自転車で外出をしていた。
これは母親のことを思っての行動ではなく、自分の身の安全を確保するためのものだった。
僕が家に居ると、母は聞こえるくらい大きな声でため息を吐いたり、同じくらい大きな舌打ちをする。それだけでも心は疲弊するというのに、物の置き方や小さな動作ひとつにも怒りの感情が詰め込まれているから、その度に大きな音が鳴り、僕の鼓動の波紋を激しく荒立たせる。
母は休みの前の日は、決まってお酒を飲んで夜更かしをするから、次の日は昼頃まで寝ていることが多い。朝から家を出ていれば、顔を合わせて母を不機嫌にさせることはない。
この日も同じように、音を極力出さないように細心の注意を払いながら外に出て、目的地を決めずに自転車を漕いでいたところ、大広場自然公園に辿り着いたというわけだ。
公園内からは喧騒が聞こえ、屋台でもあるのだろうか、香ばしい匂いや甘い匂いが鼻をくすぐる。先ほどまで空腹を感じていたわけではないのに、身体は自意識よりも正直で、無意識にお腹が鳴っていた。
もしかしたら、お祭りでもやっているのかもしれないと思った僕は、好奇心と空腹感を満たすため、公園に寄ってみることにした。
公園の入り口には、光沢感のある黒色をした横長の石銘板があり、白い文字で『大広場自然公園』と彫られている。その下には、3つの大きな岩が支えるようにして置いてあった。
正面は一直線の広い通路になっており、その両脇には桜並木がアーチを描くようにして、奥まで咲いているのが見える。
そのまま足を踏み出しても良かったのだが、公園内の地図を見て足が止まる。
僕はゲームをする時には説明書をよく読んでから始めるタイプだし、何か物を買ったのなら、その物に対する商品説明も熟読するタイプだ。そんな僕にとって、公共施設等の案内図も同様に対象物であった。
僕は物に対して自分の想像だけでどういったものかを予想し、説明書を読むことで答え合わせをするとともに、予想外の発見を得られることが楽しいと感じる。
どんなものにも使い道はあるし、同じようなものはたくさんある。けれど、形は同じであってもそれぞれに細かい違いがあり、個性がある。わかりやすいものなら値段なんかがそうだ。
値段が高いものには、しっかりとした高い理由がある。機能であったり、人気で手に入りにくい希少なものであったり。その逆に、安いものには安い理由があり、最低限の機能にすることで価格を抑えていたり、中古だから安いというものもある。何より値段が低いものは、そもそもその安さ自体が最大のメリットになっている。
他にもブランドやメーカーの違いもそうだろう。大きな括りでは一緒でも、それぞれに違いがあるからこそ、そこに面白さがある。
ゲームで言うならば、アクションとかRPGとかのジャンルがそうだろう。ジャンルは同じでも、ストーリーや世界観、登場人物といった、それぞれのものに細かな違いがあり、良さがある。
王道な展開が繰り広げられていようと、すべてが同じというわけではない。創作者の想いも、手に取った者たちの思いもまた、十人十色なのだから。
それはなんだか、今見ている景色に同じものは存在しないのと、似ている気がした。気候や心境で景色の感じ方、捉え方は変わっていく。
この頃の僕の見ている景色と、10年後の僕が見ている景色も当然に違っていて、心境も、空を見上げる意味も、同じものは存在しない。
だからこそ、僕は今感じているそれぞれの価値観を大切にしたいと思うんだ。
まあ、そんなことを小学2年生のうちから考えていたわけでは、もちろんない。僕が説明書に興味を持ち始めたキッカケなんて、同じような形をしたものでも何が違うのか、と疑問に思ったぐらいの些細なものだった。
説明書には小学2年生で習うことのない漢字が多くあり、当時の僕はわからない漢字は絵を描くような気持ちでノートに写し、翌日に学校の先生に見せて、読み方やその言葉の意味を教えてもらっていた。
本当は説明書を学校に持っていくのが一番手っ取り早いのだけれど、学校に関係のないものを持って来てはいけないと、先生に言われているし、没収されたりなんかしたら大変だ。きっと親にもそのことが伝えられるのだろう。そうなったら、どうなるのかを想像しただけでも怖かった。
先生は僕の行動に対して、嫌な表情をすることなく丁寧に教えてくれた。そのことが嬉しかったし、何より"わからない漢字を見つけて先生に訊く″という姿勢を褒められたことに、当時の僕は喜びを感じていた。
普段、家では褒められることがないからこそ、余計にその醜い承認欲求を強まらせていたのだろう。先生には本当に申し訳ないことをした。
小学3年生になり辞書を扱うようになってからは、先生に訊くことはなくなった。
園内図を一通り見終えた後、真横にある木製の掲示板に貼られたポスターを見る。
ゲームや物語なんかだと、こういった掲示物に話を進めていくために必要なヒントが隠されていたりするもので、チェックは欠かせない。
掲示板には、地域のイベントや犯罪への注意喚起等の張り紙が貼ってあり、漢字だらけでほとんど読めないものばかりだったけれど、1枚だけ、この頃の僕でも読めるものがあった。
🌸3月27日はさくらの日🌸
桜の花びらの柄をした白桃色の背景が、これでもかというくらいに桜を強調していて、3月27日という日付と桜が関係していることを、僕の頭の中に印象深く刻み込んだ。
僕はこの時、3月27日がさくらの日であることを初めて知ったとともに、大広場自然公園では3月25日〜3月29日はお祭りが行われていることも知った。
知的好奇心という自身の欲求を満たした僕は、看板から視線を外し、正面へとようやく足を踏み出す。
頭上で咲いている桜を見上げながら通路を進んでいくと、大きな芝生広場が見え始め、そこにも所々に桜が咲いているのが見える。
シートを敷いて大人数でお花見をしている人や、バトミントンをしているカップルもいれば、フリスビーやキャッチボールなどをしている親子もいて、とても楽しそうな様子だ。
小さな子どもが投げて転がったボールを綺麗にトンネルするお父さんの姿を見て、お母さんとその子どもが大きな笑い声を上げている。
満面の笑みを浮かべているその親子の姿を見ていると、父がまだ出て行く前の頃の記憶がふと蘇り、過去の自分の姿が重なって見える。
おぼろげな記憶ではあるけれど、母と父と僕の3人でお花見をしたことがあった。自分が何歳の頃だったかも、どこでお花見をしたのかも覚えてはいない。けれど、黄色いカラーボールで父とキャッチボールをしたことだけは、不思議と覚えている。
先ほどトンネルをしたボールを取りに行っていたお父さんが、肩で息をしながら戻って来て、僕はようやく我に返る。
キャッチボールに母親が参加し始めた姿を見て、胸が針に刺されたような感覚がして、僕はできるだけ自然に見えるように、小さくかぶりを振った。
父はもう帰ってこないことを知っていて。
母も優しかった頃に戻らないことも……僕は、知っている。
それなのに、この頃の僕は盲目的に奇跡を信じていた。
父が帰ってくることを。そして、優しい母が戻ってくることを。
だからこそ、進むことしかできなかった。
今がどれだけ自分にとって辛く苦しいと感じていたとしても、戻れないから進むしかない。まだみぬ希望という光を信じて、重いと感じる足取りでも未来へと足を踏み出すのだ。
立ち止まってしまったら、自分の存在を恨み、暗い絶望に苛まれて、生きることをやめてしまうだろうから。
左側にはまだ通路が続いており、地図によればこの先にはアスレチックエリアがある。
空腹の今の状況では、アスレチックを楽しむことはできなそうだが、アスレチックエリアへと向かう通路に屋台が並んでいる。ものすごい混雑で、既に買うどころではなさそうだが、歩いてみることにした。
焼きそば、からあげ、とうもろこし、じゃがバター、焼き鳥、お好み焼き、たこ焼き、フランクフルト。甘いものだと、チョコバナナやわたあめ、りんご飴などもあった。
食欲を掻き立てる匂いを放っていた正体たちは、空腹の僕にとって、それはそれは美味しそうで、きらびやかに見えた。緩みそうになる口を一層引き締めて、また一歩足を踏み出していく。
他にもスーパーボールすくいや射的といった、景品系の屋台もあったが、空腹のせいか気にならなかった。
どこかに人気のない食べ物はないものかと探していると、屋台街を抜け、アスレチックエリアまで来てしまった。
この先の奥は通り抜けができるのだが、もしかしたらその間に屋台があるかもしれないので、近くまで歩いてみることにした。
だが、こういう時には悪い予感の方が当たるもので、屋台はひとつもなく、来た時と逆側の出入口まで来てしまった。
このまま引き返そうと思ったけれど、また人混みを通らなければいけないことを考えると、とても億劫な気持ちになった。
それに、この場所にも届いている美味しそうな匂いと、食事にありつけない現状が、空腹感をさらに激しいものへと変え、これ以上僕の身体が耐えられる気がしなかった。
公園外になら何かお店があるかもしれないと考え、公園を一度出て外側から元来た入り口に向かおうとしたのが、遠く離れたところに、桃色の花を咲かせる木々の間から『たこ焼き』と力強い字で書かれた、黒い旗が目に入る。
ほんの僅かしか見えないけれど、間違いない。考えるよりも先に、僕の足はもう旗の見えた場所へと向かっていた。
少し距離の長い横断歩道を渡ってしばらく歩くと、三角屋根のレトロな2階建ての木製住宅が見え、先ほど見えた旗と同じ色使いのデザインをした大きな看板が目に入る。
お店の入り口の開き戸が白色なこと以外は全部黒色で、高級感を感じさせた。
実際にお店が存在したことから、公園の入り口を出た時に見た旗が、空腹のせいで見えた幻ではなかったことに胸を撫で下ろし、砂利が敷き詰められた玄関アプローチを進んでいく。
歩くたびにザクザクと積雪の中歩いた時のような音が鳴り、似ている足音でも地面を踏む感触が違うことに、面白さを感じた。
また、扉の前にはお店の入り口までの道のりを示すようにして、等間隔に円形の飛び石が5個敷き詰められている。砂利の海に落ちたらサメに食べられるという想定をして、しっかりと地面を確認しながら、足を石の島に着陸させていく。
5回ほど繰り返した後、僕は小さな屋根の下にあるお店の入り口に到着する。
扉の向こう側に感じる鰹節と焼き物の匂い。
そして、『営業中』という、この頃の僕では読めなかった漢字にふりがながふってあったお陰で、僕の心は快晴になる。ここまで来てお店がお休みだったとなれば、僕はきっとその場で膝から崩れ落ちていたことだろう。
一度も入ったことのないお店というのは、いつでも緊張してしまうもので、一度唾を飲み、深呼吸をする。
覚悟を決めるのにはそう時間はかからず、開き戸を右に開くと、カラカラと乾いた音が鳴り、目の前の景色が黒くなる。もちろん店内が真っ暗だったというわけではない。
驚いて頭を少し上に上げると、そこには全身黒の服を着た、白いタオルをバンダナのように巻いたおじさんが腕を組み、僕を見下ろしていた。
「なわけないよな」
と、開口一番おじさんは言うと、膝に手をつき、目線が僕の目線の高さと同じくらいになる。
「いらっしゃい」
強面の顔に恐怖でたじろいでいると、おじさんは言葉を続ける。
「ひとりか?」
ひとりで来たことを言わなければいけないのに、言葉がうまく出なくて、首肯で答える。
そんな僕の失礼な対応におじさんは嫌な表情をせず、「そうか」と、口元で笑った。
おじさんは膝に置いていた手を腰に当てて「よお〜しっと」と、伸びをする。
身体を反らすように伸びをするおじさんの様子を見ていたら、顔は上を向けたままで、下に下がった彼の視線と僕の目が合う。
おじさんは、にやっ、という言葉がお似合いなくらいわかりやすい悪戯な笑みを浮かべる。
悪い予感がして下を向くと、僕の両脇の下に分厚い大きな手が入ってくるのを感じたとともに、僕の身体は地面から宙へと浮く。
「わわっ」
驚いたのもつかの間に、「ふい」というおじさんの掛け声で、僕はカウンター席に座らされる。
足がつかないほど高い背もたれ付きの椅子は、座り心地がいいかは突然の出来事のせいでよくわからなかった。
あまりの急な出来事に瞬きを繰り返していると、おじさんはそんな僕を見て、楽しそうな表情でははっ、と笑った。
「ここが一番の特等席だ」
そう言って、おじさんは大きな手で僕の肩を優しく叩くと、カウンターの内側へと入っていき、たこ焼きを焼き始める。
無数にあるたこ焼き型のくぼみにタネを流し込み、焼けていく音が店内に響く。
これまでにたこ焼きを焼くところを見たことはあったけれど、何度見ても楽しいものだ。
「すごい……」
思わず声を漏らすと、おじさんは微笑む。
「すごいだろ。待ってな。今、うまいの作ってやるからな」
そう言いながら、おじさんは手際よく生地をころころとひっくり返していく。その姿に、最初に感じていた彼に対する恐怖心を忘れ、いつのまにか夢中になって、焼くところを見ていた。
きっとこの時の僕の目は、夜空に浮かぶ星々のように輝いていたことだろう。10年後には死に切った目になることを知る由もなく。
すべての球体の形が整えられ、完成間近となった頃、おじさんは言う。
「ここで食ってくか?」
「いえ……お持ち帰りでお願いします」
僕は外食する際、基本的には店内で食べるのだが、今は春だ。天候もよく、絶好のお花見日和の中、店内で食べるのはもったいないと感じて、お持ち帰りにすることにした。
僕以外のお客さんがいない状況で、おじさんと2人きりで食べるのが気まずいという理由では、決してない。本当に。
「何個にする? 4個と6個、それから8個入りがある」
「えーと……6個に、します。8個も食べられないと思うから」
さすがに4個では足りないと思い、ちょうどお腹がふくれるくらいの6個にした。
「そうか。6個だと、400円だな」
400円は8歳の僕にとってはかなりリッチな買い物だった。有名な棒状のお菓子を40本も買えるのだから。
財布から400円を取り出すと、おじさんはたこ焼きを船のような容器に入れながら、僕に言う。
「ボウズは今いくつだ?」
頭の中で野球少年の坊主頭を想像しながら、僕は答える。
「8歳、です」
おじさんはそうかと微笑み、発泡スチロールでできたパックに入れた。受け取ろうとすると、おじさんはもう1パックを渡してきた。
「2つも頼んでないです、よ。それにお金足りなくなっちゃう」
「サービスだ。家でお父さん、お母さんと食べな」
「……」
この頃の僕は本当に心が未熟だったのだと心底思う。それに加え、たこ焼きを焼いているところを見た高揚と空腹で思考が鈍っていたのだろうか。僕は言葉ではなく、表情に出てしまった。
その表情の変化をおじさんは見逃すことはなく、目を逸らさずに僕を見た。
けれど、その表情は大人が子どもに対して困った時に浮かべるもので、その微笑みに嫌な予感がした。
「なるほど。ボウズは今、お父さんかお母さんと喧嘩中か?」
ほら、やっぱり。
きっと、正直に首を横に振ったって、ムキになって否定したところで、その行動がよりおじさんの勘違いを真実にしてしまうだろう。
そう思った僕は沈黙という答えで返すことにした。
おじさんは渡そうとした1パックをテーブルに置き、先ほど払った400円を返してくる。
彼の行動に何をしているのかわからず、戸惑っていると、おじさんはニコッと笑い、またしても「サービスだ」と、言った。
「喧嘩した時は、一緒に美味いもんを食べて笑いあう。これが大事なんだ。たこ焼きのタコと同じくらいにな」
真剣な言葉を冗談とともに混ぜて話をする。その行為自体に悪い気はしない。人の気持ちを考えた上で言葉を選んでいる気がするから。
きっと、おじさんの勘違い通りに僕が親と喧嘩をしていたのなら、その言葉をそのまま受け取り、感謝の言葉を伝えていたに違いない。
けれど……
「違い、ます……」
下を向きながら言った。そうしたのは、おじさんに睨まれでもしたら、僕はすぐに怯んでしまうだろうという恐怖心からだった。
「喧嘩なんか……してません。何にも知らないのに、勝手なこと言わないでください」
言っているうちに言葉が思いやりのない鋭利なものへと変わる。けれど、不思議と声を荒げたりはしなかった。疲れ切った時に出るような残りかすの声音だった。
そして、すぐに僕は言ったことを後悔した。当たり前だ。親切なおじさんの厚意を無下にするようなことを言ったのだから。
でも、後にはもう引くことはできなくて、心の中で溜めてきた言葉が漏れ出す。
「僕には、お父さんはいないし、お母さんは僕のことが嫌いなんだ……」
自分が母親に嫌われている事実なんてとっくに知っていて、考えるまでもなく理解していたことなのに、初めて人に言葉にしたことで、僕の心は別の角度から勝手に傷がつく。
おじさんは僕の言葉に驚いた様子で、目を少し大きくさせる。
「どうしてそう思うんだ?」
優しい声音で言ったおじさんに、僕は自分の家庭環境について話をすることにした。
初対面の相手だというのに、なぜそうしたのかと言われれば、ヤケクソという言葉が一番適している気がする。
当時の僕がどれだけ言葉を考えて話したとしても、おじさんの誤解が解ける気がしない。だったらもう、いっそのことすべて話せばいいか、というような投げやりの思考だった。
僕は自分自身の家庭環境についての話を学校の同じクラスの子はもちろんのこと、先生にもしたことはなかった。というより、言えなかったという表現の方が正しい。
だってそうだろう。
すべての家庭がみんな一緒というわけではない。よそはよそ、うちはうちと親が子に言う通り、家族の形はそれぞれにある。
けれど、それを頭では理解していたとしても、実際に行えているかは別問題であり、私情を切り離して他人の家庭を見ることはずっと難しい。
自分自身の目の前の家族、経験した家族像は、他人の家庭を覗く上で、前提となって邪魔をする。経験をしていないものを理解するのが難しいように、経験した者にしか見えない世界がある。
だからこそ、容易に語るべきものではないのだと、僕は思う。
きっとおじさんはこの頃の僕よりも深く状況を把握していて、どうしようもないことを理解していたのだろうと思う。
おじさんは僕の言葉を何ひとつ否定をすることをせず、顎に皺を作りながら静かに頷いただけだった。
しばらくの沈黙が続き、口を開いたのはおじさんだった。
「ボウズ。わかった、こうしよう」
僕は首を傾げる。
「今日の支払いは今度来たときに払うってことにしよう。ただし、2つ条件がある」
おじさんは人差し指と中指を立てる。その言葉に僕は唾を飲み、条件という言葉を繰り返した。
大人が言う条件という言葉は当時の僕にとって、怖いイメージがあった。漫画やゲームなんかだと、姫を開放する代わりに、命を差し出したり、世界がなくなったりする展開がよくある。
さすがに命を取られたり、世界が終わったりすることはないとはわかってはいたが、多額のお金を請求されるのではないのかと、怖くなったのは事実だ。
けれど、それは杞憂に過ぎなかった。
「そうだ。ひとつは、何年かかってもいいから、必ず誰かと来ること。誰でもいい。ボウズの大切だと思える人を必ずここに連れてこい」
おじさんの提案する条件は、ひとつ目からすでに達成できそうにない。
「……無理ですよ。僕に友達はいないから」
僕には、友達と呼べるほど仲の良い子はいない。母親との一件により、育ってしまった疑心が、長く継続する友好関係を築かせようとはしない。
どんなに仲が良くなったとしても、母のようにいずれ変わってしまうのではないかと思うから、心に壁を作り続ける。
当然、そんな僕に誰も特別寄り付くことはなかった。
俯くと、おじさんは地面に膝をつき、僕の頭を乱暴に撫でた。
「んで、もうひとつが、毎年1回以上はここへ来ること」
「え?」
顔を上げると、おじさんは優しい笑顔を僕に向けて言う。
「毎日でも来ていいと言いたいところだが、それだとボウズの世界を小さくしちまうからな。今はまだわからなくてもいいことだが、子どもが感じる1年と大人の過ごす1年の長さってのは違うもんなんだよ」
よくわからなくて、首をかしげる。
「365日。日数は変わらない。でも、俺とボウズとでは明らかに違うことがある。
それは、人と出会う場所や機会、日常の変化があることだ。ボウズは今小学校に通ってるけど、俺はもう学校をとっくに卒業してるし、今は働いてる。
ボウズは4月から学年もひとつ上になって、クラス替えをするかもしれない。何年かすれば進学だってするだろう。でも、大人にクラス替えや進学はない。
まあ、転職や部署異動とか似たのはあるけど、それは今はどうでもいい。とにかく、大人の1年は子どもの1年ほど大きな変化は滅多に起きないものなんだよ」
おじさんの言っている話はこの頃の僕にとっても、今の僕にとっても完全に理解することができるほど、簡単な話ではなかった。
学生の世界を生きている僕では、学生の世界を越えた、社会人の世界を生きているおじさんの景色を完全に理解することはできないから。
「つまり、大人になっちまった俺よりも、ボウズにはいろんな人と出会う機会がたくさんあるってことなんだよ。
今のクラスで友達ができないからなんだ。通ってる学校に友達ができないからなんだよ。まだまだ先があるんだから、心配なんてする必要ねえんだよ。
それに友達なんてのはいつの間にかできてるもんだしな」
「でも、先生はクラスの子たちと仲良くした方がいいって……」
「まあ、その先生の言ってることも間違いじゃないな。でも、正解じゃない。いいんだよ、色々な形があるんだから。ボウズはどうしたい?」
「僕は……やっぱり友達が欲しい」
「そうか」
おじさんはまた笑った。
「なら、たくさん失敗することだな」
「失敗?」
「ああ。まあ、この意味はいつかわかるさ。傷ついて足を止めたくなる時が来るかもしれないけど、そん時はここに来い。うまいたこ焼きを好きなだけ食わしてやる。だから、踏み出すことを諦めるんじゃねえぞ、ボウズ」
僕は後にこの言葉の意味を知ることになる。大きなトラウマを抱えて。
ある意味では足を止めてしまったのかもしれないけれど、望んだ未来へと進めてはいるから、おじさんの言葉は否定する気はない。
僕は首を傾げながら首を縦に振る。
「どうだ、条件は守れるか?」
おじさんの言った条件は、いつでもいいからおじさんのお店に誰かと来ることと、毎年ここに1回以上は来るという2つ。
僕はそんな達成できるかわからない無理な約束をするより、400円を払う方が利口だと考え、返されたお金を渡そうとした。
けれど、僕を見るおじさんの表情は真剣で、手が止まったと同時に、彼に怒られることを覚悟した。
「俺はボウズの味方だ。友達だと思っていい。だから、ボウズが心から大切だと思える人を俺に紹介してほしい。どんなふうに出会ったとか、お互いの気の合う部分だとか、そういう話を聞かせてほしいんだよ。これは、友達との大事な約束だ」
おじさんの口調からは怒っていないことがすぐにわかった。というのも、かつて母親から浴びせられた罵声が記憶の中に残っているから。
今日会ったばかりのおじさんを信じるなんておかしな話だと思う。それに、彼の行動や言葉に偽りがなかったとしても、母と同じようにいずれなくなってしまうものかもしれないから。
僕が友達という言葉に当てはめて他者を認識したのはおそらくこれが初めてだったと思う。同年代でもないし、子どもと大人だけれど、どこからが友達になるのかなんてこと自体が曖昧だから、考えることを止めた。
心が温まる感覚は久しぶりで、おじさんの優しさが僕は嬉しくて涙を流しながら首を縦に振った。
「よし、ボウズ。指切りげんまんするぞ」
おじさんは僕の顔をティッシュで拭くと、笑顔で小指を向けた。僕はその差し出された指に自分の小指を絡める。
「指切りげんまん、嘘ついたらたこ焼き100個、食〜わす。指切った」
僕が今までに経験してきた掛け声とは違ったので、首をかしげると、おじさんはニコッと白い歯を見せて笑った。
僕も笑顔を作っては見たが、ひきつっていたのだろう。おじさんは、「なんだその顔は」とさらに笑った。
たこ焼き屋が、たこ焼き100個を食べさせるというのだから冗談に聞こえないし、笑えない。僕はこの約束を生涯忘れることはできないだろう。
たこ焼きの入ったビニール袋を受け取り、おじさんにお礼を言う。
「その、ありがとうございました」
頭を下げ、店を出る。
「おう。またな、ボウズ! がんばれよ!」
僕を送り出すおじさんの声に振り返り、レジ横にあるオレンジ色の花が一瞥して。笑顔で僕に手を振るおじさんに視線を戻す。
感謝の言葉を発しながら、おじさんに僕も手を振り返した。
この時僕はおじさんのことを本当によく笑う人だと思った。笑顔が似合うかと言われれば、素直に首を縦には振れないし、真顔の方が様になると思っている。
けれど、そのギャップがおじさんの芯にある優しさを感じられて、素直に嬉しかった。
お店を出て、大広場自然公園に戻ろうとしたのだが、人ごみに戻るのに抵抗を覚え、たこ焼き屋まで来た道をさらに奥に進んでみることにした。
しばらくすると、大きなトンネルのような桜並木が見え、どこまで続いているのかはわからないが、僕は胸を躍らせながらに足を進めていた。
桜並木を抜けた先には、まるでおとぎ話に出てくるような景色が広がっていて、僕は立ち止まった。
辺り一面に広がる緑。
吹き抜ける春の暖かい風。
鼻腔に広がる自然の香り。
そして、何より衝撃を受けたのは、目の前にある大きな桜の木だ。
ひとつひとつが美しく吸い込まれそうな光景だった。
大きな桜の木の前に立ち、見上げると、綺麗な桃色の花が気持ちよさそうに咲いていた。
いま目にしているこの桜の木は、今までに見てきたものとは明らかに雰囲気が違う。木に詳しいわけでもないし、桜に詳しいわけでもないけれど、それだけはわかった。
木の近くには木製のベンチがあり、腰を下ろすと、突然、誰かが僕の肩をつついた。びっくりして振り向くと、そこには長い黒髪の女の子が立っていた。
「あの、あんまりまじまじと見られると、恥ずかしい、です」
女の子は長い黒髪の先端を指でくるくると巻き、恥ずかしそうにしていた。
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